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Channel: 長尾龍虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>
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竜馬とおりょうがゆく 樽崎龍の波乱の生涯<維新回天特別編>ブログ連載小説2

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岩倉具視が「果断、勇決、その志は小ではない。軽視できない強敵である」と評し、長州の桂小五郎(木戸孝允)は「慶喜の胆略、じつに家康の再来を見るが如し」と絶賛――。
敵方、勤王の志士たちの心胆を寒からしめ、幕府側の切り札として登場した十五代将軍。その慶喜が、徳川二百年の幕引き役を務める運命の皮肉。
徳川慶喜とは、いかなる人物であったのか。また、なぜ従来の壮大で堅牢なシステムが、機能しなくなったのか。
「視界ゼロ、出口なし」の状況下で、新興勢力はどのように旧体制から見事に脱皮し、新しい時代を切り開いていったのか。
閉塞感が濃厚に漂う今、慶喜の生きた時代が、尽きせぬ教訓の新たな宝庫となる。
『徳川慶喜(「徳川慶喜 目次―「最後の将軍」と幕末維新の男たち」)』堺屋太一+津本陽+百瀬明治ほか著作、プレジデント社刊参考文献参照引用
著者が徳川慶喜を「知能鮮し」「糞将軍」「天下の阿呆」としたのは、他の主人公を引き立たせる為で、慶喜には「悪役」に徹してもらった。
だが、慶喜は馬鹿ではなかった。というより、策士であり、優秀な「人物」であった。
慶喜は「日本の王」と海外では見られていた。大政奉還もひとつのパワー・ゲームであり、けして敗北ではない。しかし、幕府憎し、慶喜憎しの大久保利通らは「王政復古の大号令」のクーデターで武力で討幕を企てた。
実は最近の研究では大久保や西郷隆盛らの「王政復古の大号令」のクーデターを慶喜は事前に察知していたという。
徳川慶喜といえば英雄というよりは敗北者。頭はよかったし、弱虫ではなかった。慶喜がいることによって、幕末をおもしろくした。最近分かったことだが、英雄的な策士で、人間的な動きをした「人物」であった。
「徳川慶喜はさとり世代」というのは脳科学者の中野信子氏だ。慶喜はいう。「天下を取り候ほど気骨の折れ面倒な事なことはない」
幕末の”熱い時代”にさとっていた。二心公ともいわれ、二重性があった。
本当の徳川慶喜は「阿呆」ではなく、外交力に優れ(二枚舌→開港していた横浜港を閉ざすと称して(尊皇攘夷派の)孝明天皇にとりいった)
その手腕に、薩摩藩の島津久光や大久保利通、西郷隆盛、長州藩の桂小五郎らは恐れた。
孝明天皇が崩御すると、慶喜は一変、「開国貿易経済大国路線」へと思考を変える。大阪城に外国の大使をまねき、兵庫港を開港。慶喜は幕府で外交も貿易もやる姿勢を見せ始める。
まさに、策士で、ある。
歴代の将軍の中でも慶喜はもっとも外交力が優れていた。将軍が当時は写真に写るのを嫌がったが、しかし、徳川慶喜は自分の写真を何十枚も撮らせて、それをプロパガンダ(大衆操作)の道具にした。欧米の王族や指導者層にも配り、日本の国王ぶった。
大久保利通や岩倉具視や西郷隆盛ら武力討幕派は慶喜を嫌った。いや、おそれていた。討幕の密勅を朝廷より承った薩長に慶喜は「大政奉還」という策略で「幕府をなくして」しまった。
大久保利通らは大政奉還で討幕の大義を失ってあせったのだ。徳川慶喜は敗北したのではない。策を練ったのだ。慶喜は初代大統領、初代内閣総理大臣になりたいと願ったのだ。
新政府にも加わることを望んでいた。慶喜は朝廷に「新国家体制の建白書」を贈った。だが、徳川慶喜憎しの大久保利通らは王政復古の大号令をしかける。日本の世論は「攘夷」だが、徳川慶喜は坂本竜馬のように「開国貿易で経済大国への道」をさぐっていたという。
大久保利通らにとって、慶喜は「(驚きの大政奉還をしてしまうほど)驚愕の策士」であり、存在そのものが脅威であった。
「慶喜だけは倒さねばならない!薩長連合は徳川慶喜幕府軍を叩き潰す!やるかやられるかだ!」
 慶喜のミスは天皇(当時の明治天皇・16歳)を薩長にうばわれたことだ。薩長連合新政府軍は天皇をかかげて官軍になり、「討幕」の戦を企む。
「身分もなくす!幕府も藩もなくす!天子さま以外は平等だ!」
 大久保利通らは王政復古の大号令のクーデターを企む。事前に察知していた徳川慶喜は「このままでは清国(中国)やインドのように内乱になり、欧米の軍事力で日本が植民地とされる。武力鎮圧策は危うい。会津藩桑名藩五千兵をつかって薩長連合軍は叩き潰せるが泥沼の内戦になる。”負けるが勝ち”だ」
 と静観策を慶喜はとった。まさに私心を捨てた英雄!だからこそ幕府を恭順姿勢として、官軍が徳川幕府の官位や領地八百万石も没収したのも黙認した。
 だが、大久保利通らは徳川慶喜が一大名になっても、彼がそのまま新政府に加入するのは脅威だった。
 慶喜は謹慎し、「負ける」ことで戊辰戦争の革命戦争の戦死者をごくわずかにとどめることに成功した。官軍は江戸で幕府軍を挑発して庄内藩(幕府側)が薩摩藩邸を攻撃したことを理由に討幕戦争(戊辰戦争)を開始した。
 徳川慶喜が大阪城より江戸にもどったのも「逃げた」訳ではなく、内乱・内戦をふせぐためだった。彼のおかげで戊辰戦争の戦死者は最低限度で済んだ。
 徳川慶喜はいう。「家康公は日本を統治するために幕府をつくった。私は徳川幕府を終わらせる為に将軍になったのだ」
NHK番組『英雄たちの選択 徳川慶喜編』参考文献引用


坂本竜馬はいつぞやの土佐藩の山内容堂公の家臣の美貌の娘・お田鶴(たづ)さまと、江戸で偶然出会った。お田鶴は徳川幕府の旗本のお坊ちゃまと結婚し、江戸暮らしをはじめていて、龍馬は江戸の千葉道場に学ぶために故郷・土佐を旅立っていた。
「お田鶴さまお久ぶりです」「竜馬……元気そうですね。」ふたりは江戸の街を歩いた。「江戸はいいですね。こうして二人で歩いてもとがめる人がいない……」「ああ!ほんに江戸はええぜよ!」
 忘れてはならないのは龍馬とお田鶴さまは夜這いや恋人のような仲であったことである。二人は小さな神社の賽銭箱横にすわった。まだ昼ごろである。
「幸せそうじゃの、お田鶴さま。旦那様は優しい人ですろうか?」「つまらぬ人です。旗本のたいくつなお坊ちゃま。幸せそうに見えるなら今、龍馬に会えたからです」「は……はあ」「わたしはあの夜以来、龍馬のことを想わぬ日は有りませぬ。人妻のわたしは抜け殻、夜……抱かれている時も、心は龍馬に抱かれています。お前はわたしのことなど忘れてしまいましたか?」「わ、忘れちょりゃせんですきに」
 二人はいいムードにおちいり、境内、神社のせまい中にはいった。「お田鶴さま」「竜馬」
「なぜお田鶴さまのような方が、幸せな結婚ができなかったんじゃ…どうしちゅうたらお田鶴さまを幸せに出来るんじゃ?!」
そんなとき神社の鈴を鳴らし、柏手を打ち、涙ながらに祈る男が訪れた。面長な痩せた男・吉田松陰である。
「なにとぞ護国大明神!この日の本をお守りくだされ!我が命に代えても、なにとぞこの日の本をお守りくだされ!」
 龍馬たちは唖然として音をたててしまった。
「おお!返事をなさった!護国大明神!わが祈りをお聞き入れくださりますか!」松陰は門を開けて神社内にはいり無言になった。
 龍馬とお田鶴も唖然として何も言えない。
「お二人は護国大明神でありますか?」
「いや、わしは土佐の坂本竜馬、こちらはお田鶴さまです。すまんのう。幼馴染なものでこんな所で話し込んじょりました」
 松陰は「そうですか。では、どうぞごゆっくり…」と心ここにあらずでまた仏像に祈り続けた。
「護国大明神!このままではこの日の本は滅びます。北はオロシア、西にはフランス、エゲレス、東よりメリケンがこの日の本に攻めてまいります!吉田松陰、もはや命は捨てております!幕府を倒し、新しき政府をつくらねばこの国は夷人(えびすじん)どもの奴隷国となってしまいます!なにとぞわたくしに歴史を変えるほどの力をお与えください」
 松陰は涙をハラハラ流し祈り続けた。龍馬とお田鶴は唖然とするしかない。しばらくして松陰は「お二人とも私の今の祈願は、くれぐれも内密に…」といい、龍馬とお田鶴がわかったと頷くと駿馬の如くどこぞかに去った。
 すると次に四人の侍が来た。「おい、武家姿の御仁を見かけなかったか?」狐目の男が竜馬たちにきいた。
「あっ、見かけた」
「なに!どちらにいかれた?!」
「それが……秘密といわれたから…いえんぜよ」
「なにい!」狐目の男が鯉口を切ろうとした。「まあ、晋作」
「わたしは長州藩の桂小五郎と申します。捜しておられるのは我らの師吉田松陰という御仁です。すばらしいお方じゃが、まるで爆弾のようなお人柄、弟子として探しているんだ。頼む!お教え願いたい」
 四人の武士は高杉晋作、桂小五郎(のちの木戸孝允)、久坂玄瑞、伊藤俊輔(のちの伊藤博文)であった。
 龍馬は唖然としながらも「なるほど、爆弾のようなお方じゃった。確かに独り歩きはあぶなそうな人だな、その方は前の道を右へ走って行かれたよ」
「かたじけない。ごめん!」
 四人も駿馬の如しだ。だが、狐目の男(高杉晋作)は「おい!逢引も楽しかろうが……世間ではもっと楽しい事が起きてるぞ!」と振り返り言った。
「なにが起こっちゅうがよ?」
「浦賀沖に、アメリカ国の黒船が攻めてきた!いよいよ大戦がはじまるぜ!」そういうと晋作も去った。
「黒船……?」竜馬にはわからなかった。

 吉田松陰は黒船に密航しようとして大失敗した。松陰は、徳川幕府で二百年も日本が眠り続けたこと、西欧列強に留学して文明や蒸気機関などの最先端技術を学ばなければいかんともしがたい、と理解する稀有な日本人であった。
 だが、幕府だって馬鹿じゃない。黒船をみて、外国には勝てない、とわかったからこその日米不平等条約の締結である。
 吉田松陰はまたも黒船に密航を企て、幕府の役人に捕縛された。幕府の役人は殴る蹴る。野次馬が遠巻きに見物していた。「黒船に密航しようとしたんだとさ」「狂人か?」
「先生!先生!」「下がれ!下がれ!」長州藩の例の四人は号泣しながら、がくりと失意の膝を地面に落とし、泣き叫ぶしかない。
 松陰は殴られ捕縛されながらも「私は、狂人です!どうぞ、狂人になってください!そうしなければこの日の本は異国人の奴隷国となります!狂い戦ってください!二百年後、三百年後の日本の若者たちのためにも、今、あなた方のその熱き命を、捧げてください!!」
「先生!」晋作らは泣き崩れた。
黒船密航の罪で下田の監獄に入れられていた吉田松陰は、判決が下り、萩の野山獄へと東海道を護送されていた。
 唐丸籠(とうまるかご)という囚人用の籠の中で何度も殴られたのか顔や体は傷血だらけ。手足は縛られていた。だが、吉田松陰は叫び続けた。
「もはや、幕府はなんの役にも立ちませぬ!幕府は黒船の影におびえ、ただ夷人にへつらいつくろうのみ!」役人たちは棒で松陰を突いて、ボコボコにする。
「うるさい!この野郎!」「いい加減にだまらぬか!」
「若者よ、今こそ立ち上がれ!異国はこの日の本を植民地、奴隷国にしようとねらっているのだぞ!若者たちよ、腰抜け幕府にかわって立ち上がれ!この日の本を守る、熱き志士となれ!」
 またも役人は棒で松陰をぼこぼこにした。桂小五郎たちは遠くで下唇を噛んでいた。
「耐えるんだ、皆!我々まで囚われの身になったら、誰が先生の御意志を貫徹するのだ?!」涙涙ばかりである。
江戸伝馬町獄舎……松陰自身は将軍後継問題にもかかわりを持たず、朝廷に画策したこともなかったが、その言動の激しさが影響力のある危険人物であると、井伊大老の片腕、長野主膳に目をつけられていた。安政六年(一八五九年)遠島であった判決が井伊直弼自身の手で死罪と書き改められた。それは切腹でなく屈辱的な斬首である。そのことを告げられた松陰は取り乱しもせず、静かに獄中で囚人服のまま歌を書き残す。
 やがて死刑場に松陰は両手を背中で縛られ、白い死に装束のまま連れてこられた。
 柵越しに伊藤や妹の文、桂小五郎らが涙を流しながら見ていた。「せ、先生!先生!」「兄やーん!兄やーん!」
 座らされた。松陰は「目隠しはいりませぬ。私は罪人ではない」といい、断った。強面の抑えのおとこふたりにも「あなた方も離れていなされ、私は決して暴れたりいたせぬ」と言った。
 介錯役の侍は「見事なお覚悟である」といった。
 松陰はすべてを悟ったように前の地面の穴を見ながら「ここに……私の首が落ちるのですね……」と囁くように言った。雨が降ってくる。松陰は涙した。
 そして幕府役人たちに「幕府のみなさん、私たちの先祖が永きにわたり…暮らし……慈(いつく)しんだこの大地、またこの先、子孫たちが、守り慈しんでいかねばならぬ、愛しき大地、この日の本を、どうか……異国に攻められないよう…お願い申す……私の愛する…この日の本をお守りくだされ!」
 役人は戸惑った顔をした。松陰は天を仰いだ。もう未練はない。「百年後……二百年後の日本の為に…」
 しばらくして松陰は「どうもお待たせいたした。どうぞ」と首を下げた。
「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!」松陰は言った。この松陰の残した歌が、日の本に眠っていた若き志士たちを、ふるい立たせたのである。
「ごめん!」
 吉田松陰の首は落ちた。
 雨の中、長州藩の桂小五郎らは遺体を引き取りに役所の門前にきた。皆、遺体にすがって号泣している。掛けられたむしろをとると首がない。
 高杉晋作は怒号を発した。「首がないぞ!先生の首はどうしたー!」
「大老井伊直弼様が首を検めますゆえお返しできませぬ」
 長州ものは顔面蒼白である。雨が激しい。
「拙者が介錯いたしました……吉田殿は敬服するほどあっぱれなご最期であらせられました」
 ……身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留め置かまし大和魂!
 長州ものたちは号泣しながら天を恨んだ。晋作は大声で天に叫んだ、
「是非に大老殿のお伝えくだされ!松陰先生の首は、この高杉が必ず取り返しに来ると!聞け―幕府!きさまら松陰先生を殺したことを、きっと悔やむ日が来るぞ!この高杉晋作がきっと後悔させてやる!」
 雨が激しさを増す。まるで天が泣いているが如し、であった。

 坂本竜馬が上海に渡航したのはフィクションである。だが、高杉晋作は本当に行っている。その清国(現在の中国)で「奴隷国になるとはどういうことか?」を改めて知った。
「坂本さん、先だっての長崎酒場での長州ものと薩摩ものの争いを「鶏鳥小屋や鶏」というのは勉強になりましたよ。確かに日本が清国みたいになるのは御免だ。いまは鶏みたいに「内輪もめ」している場合じゃない」
「わかってくれちゅうがか?」
「ええ」晋作は涼しい顔で言ったという。「これからは長州は倒幕でいきますよ」
 竜馬も同意した。この頃土佐の武市半平太ら土佐勤王党が京で「この世の春」を謳歌していたころだ。場所は京都の遊郭の部屋である。
 武市に騙されて岡田以蔵が攘夷と称して「人斬り」をしている時期であった。
 高杉晋作は坊主みたいに頭を反っていて、「長州のお偉方の意見など馬鹿らしい。必ず松陰先生が正しかったとわからせんといかん」
「ほうじゃき、高杉さんは奇兵隊だかつくったのですろう?」
「そうじゃ、奇兵隊でこの日の本を新しい国にする。それがあの世の先生への恩返しだ」
「それはええですろうのう!」
 竜馬はにやりとした。「それ坂本さん!唄え踊れ!わしらは狂人じゃ!」
「それもいいですろうのう!」
 坂本竜馬は酒をぐいっと飲んだ。土佐ものにとって酒は水みたいなものだ。

  竜馬は江戸の長州藩邸にいき事情をかくかくしかしかだ、と説明した。
 晋作は呆れた。「なにーい?!勝海舟を斬るのをやめて、弟子になった?」
「そうじゃきい、高杉さんすまんちや。約束をやぶったがは謝る。しかし、勝先生は日本のために絶対に殺しちゃならん人物じゃとわかったがじゃ!」
「おんしは……このまえ徳川幕府を倒せというたろうが?」
「すまんちぃや。勝先生は誤解されちょるんじゃ。開国を唱えちょるがは、日本が西洋列強に負けない海軍を作るための外貨を稼ぐためであるし。それにの、勝先生は幕臣でありながら、幕府の延命策など考えちょらんぞ。日本を救うためには、幕府を倒すも辞さんとかんがえちょるがじゃ!」
「勝は大ボラ吹きで、二枚舌も三枚舌も使う男だ!君はまんまとだまされたんだ!目を覚ませ!」
「いや、それは違うぞ、高杉さん。まあ、ちくりと聞いちょくれ!」
 同席の山県有朋や伊藤俊輔らが鯉口を斬り、「聞く必要などない!こいつは我々の敵になった!俺らが斬ってやる!」と息巻いた。
「待ちい、早まるなち…」
 高杉は「坂本さん、刃向うか?」
「ああ…俺は今、斬られて死ぬわけにはいかんきにのう」
 高杉は考えてから「わかってた坂本君、こちらの負けだ。刀は抜くな!」
「ありがとう高杉さん、わしの倒幕は嘘じゃないきに、信じとうせ」竜馬は場を去った。
夜更けて、龍馬は師匠である勝海舟の供で江戸の屋形船に乗った。
 勝海舟に越前福井藩の三岡八郎(みつおかはちろう・のちの由利公正・ゆりきみまさ)と越前藩主・松平春嶽公と対面し、黒船や政治や経済の話を訊き、大変な勉強になった。
(2014年4月6月、坂本竜馬の新たな書状が、個人所有の古い骨董品のテーブルの下から発見されたという。筆跡鑑定でも龍馬の書状に間違いがないという。内容は明治政府の財政問題の官職を、計算と予算案に長けた三岡八郎を登用するように、というものだった)
 龍馬は身分の差等気にするような「ちいさな男」ではない。春嶽公も龍馬も屋形船の中では対等であったという。
 そこには土佐藩藩主・山内容堂公の姿もあった。が、殿さまがいちいち土佐の侍、しかも上士でもない、郷士の坂本竜馬の顔など知る訳がない。
 龍馬が土佐勤王党と武市らのことをきくと「あんな連中虫けらみたいなもの。邪魔になれば捻りつぶすだけだ」という。
 容堂は勝海舟に「こちらの御仁は?」ときくので、まさか土佐藩の侍だ、等というわけにもいかず、
「ええ~と、こいつは日本人の坂本です」といった。
「日本人?ほう」
 坂本竜馬は一礼した。……虫けらか……武市さんも以蔵も報われんのう……何だか空しくなった。
坂本竜馬がのちの妻のおりょう(樽崎龍)に出会ったのは京であった。
 おりょうの妹が借金の形にとられて、慣れない刀で刃傷沙汰を起こそうというのを龍馬がとめた。
「やめちょけ!」
「誰やねんな、あんたさん?!あんたさんに関係あらしません!」
 興奮して激しい怒りでおりょうは言い放った。
「……借金は……幾らぜ?」
「あんたにゃ…関係あらんていうてますやろ!」
 宿の女将が「おりょうちゃん、あかんで!」と刀を構えるおりょうにいった。
「おまん、おりょういうがか?袖振り合うのも多少の縁……いうちゅう。わしがその借金払ったる。幾らぜ?」
 おりょうは激高して「うちは乞食やあらしまへん!金はうちが……何とか工面するよって…黙りや!」
「何とも工面できんからそういうことになっちゅうろうが?幾らぜ?三両か?五両かへ?」
「……うちは…うちは……乞食やあらへん!」おりょうは涙目である。悔しいのと激高で、もうへとへとであった。
「そうじゃのう。おまんは乞食にはみえんろう。そんじゃきい、こうしよう。金は貸すことにしよう。それでこの宿で、女将のお登勢さんに雇ってもらうがじゃ、金は後からゆるりと返しゃええきに」
 おりょうは絶句した。「のう、おりょう殿」竜馬は暴れ馬を静かにするが如く、おりょうの激高と難局を鎮めた。
「そいでいいかいのう?お登勢さん」
「へい、うちはまあ、ええですけど。おりょうちゃんそれでええんか?」
 おりょうは答えなかった。
 ただ、涙をはらはら流すのみ、である。
 

龍馬との結婚まで[編集]<ウィキペディアからの引用>
お龍 独身時代寓居跡 京都三条木屋町下ル
天保12年(1841年)、医師の楢崎将作と貞(または夏)の長女として京都で生まれた。異説では実父は西陣織を扱う商人で将作の養女になったとも言う。妹に次女・光枝、三女・起美(君江)、弟に太一郎、健吉がいる。
楢崎家は元は長州の士分であったが、お龍の曽祖父の代に主君の怒りを受けて浪人になっていた。父の将作は青蓮院宮の侍医で、お龍は裕福な家庭で育ち、生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手だった。しかし、勤王家であった父が安政の大獄で捕らえられ、赦免後の文久2年(1862年)に病死すると、残された家族はたちまち困窮し、家具や衣類を売って生活をするようになった。母が「悪者」に騙されて、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知ったお龍は、着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男二人を相手に「殺せ、殺せ、殺されにはるばる大坂に来たんだ。これは面白い殺せ」と啖呵を切って妹を取り返した武勇伝はこの頃のことである。
その後、お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、母・貞は方広寺大仏殿近くの天誅組の残党を含めた土佐藩出身の尊攘派志士たちの隠れ家で賄いをするようになった。龍馬とお龍は元治元年(1864年)頃に出会っている。後年のお龍の回顧によると、龍馬と初めて会ったときに名前を聞かれて紙に書くと自分と一緒だと笑っていたという。お龍に惚れた龍馬は母・貞に、お龍を妻にしたいと申し入れ、貞も承知した。
同年6月の池田屋事件の際に、大仏でも会津藩の手入れがあって家財道具も没収されてしまった。(大仏騒動) 一家は困窮し、龍馬は「日々、食うや食わず、実に哀れな暮しであった」と述べている。これらお龍の境遇について、龍馬は姉・乙女に宛てた慶応元年9月9日付の手紙で詳しく書き送り、彼女を「まことにおもしろき女」と評している。お龍の後年の回想によると、同年8月1日に龍馬とお龍は内祝言を挙げた。

下関のおりょうのもとに妹の起美(きみ)がやってきたのは、慶応三年(一八六七)十一月十五日の夕方だった。
冬の弱々しい日差しが覗いたかと思うと、音もなく細かな雨が降ってくる。
「ようきたわね。疲れたやろ?」
おりょうは三年ぶりに会う起美を眩しく眺めた。
めっきり大人びて見える。末の妹だけに、いつまでも幼いころの面影ばかりが浮かんでくる。「ごぶさたやね、お姉はん、お元気そうでよかったどす」
「お前ずいぶんと背が伸びたんちゃう?そやろ?」
「まあ、これ勝先生からお土産どす。いただいて参りました」
「あら。勝先生から?すまないねえ。お前をこんなに大きくしてもろうたのだけでもごっつありがたいことやのに」
「ええ、それはもう――。ほんまは、うち、もう少し江戸にいたかったんやけど」
「船できたんか?」
「ええ、揺れて揺れて“船酔い”でしたわ」
「ほうかえ?それは大変やったねえ」
「お義兄さんは?」
「直さん?(坂本竜馬の諱・本名は直柔なおなり)さあねえ、この前帰ったきり………江戸に行ったり、京都にいったり、長崎にいったり、越前や薩摩にいったり……国の為や、いうて奔走しとるみたいやわ」
「勝海舟先生がお義兄さまのことをえろう心配してはりましたわ。新撰組や見廻組が目光らせてはるから、あまりに用心もなく行動してるのは危険やて」
「そうやねえ。でも、旦那はんはうちのいうことなど聞く耳もたんわ。」
「でも、幕府の大政奉還の後、ますます危ないって勝先生が…」
「うちにどないせいっちゅううん?女子に政などできまっかいな?それこそ旦那はんの邪魔やわ」おりょうは困った顔で冗談をいった。
起美はおっとりした性格で、男勝りの性格のおりょうから見たら物足りない気になる。だから、ぽんぽんと叱ったりしてしまう。おりょうは「ふぐのてっちり作ったるわ」と台所に立った。下関に来て、はじめてふぐの味を知った。
樽崎先生んとこのお嬢さん。そう呼ばれて育ったおりょうにとって、酔客を相手にする仕事は、つらさよりも情けなさが先に立った。色白で上背があり、きりりとした細面の美貌がよけいに仇(あだ)となった。
 夜毎に卑猥な言葉をかけられ、あるいはあからさまに金銭ずくでの関係を持ちかけられた。世の中が騒然としてくればくるほど、泡銭を手にした男たちは刹那的な快楽を求めて目の色を変える。
おりょうの勝気な性格はこの頃、ますます強化された。
もう二十数歳で、当時としてはいきおくれの女子の感があった。好きでいきおくれたのではない。幼い兄弟姉妹を食べさせる為に必死だったのだ。
だが、お金持ちの老人の妾にならないか?庄屋の寝たきり老人の面倒を見る妾はどうか?とかいう話が毎夜降ってくる。世話になっている居酒屋の女将さんの前では笑顔で断るのだが、ひとりになると陰で悔しくて泣いていた。
そんな地獄のような絶望の淵から救い出してくれたのが龍馬だった。借金を肩代わりしてくれ、寺田屋のお登勢さんのところに奉公先をさがしてくれ、末の妹・起美のことは勝先生のところに行儀見習いという形で預けてくれた。母親も弟も、すべて面倒を見てもらった。勝海舟は神戸の海軍操練所で所長をしていたが、職を解かれ、江戸へ引き返した。
海舟についていった起美が、今日三年ぶりに下関にかえってきたのである。
坂本竜馬は大恩人であり、大切な旦那さま、であった。
だが、そんな龍馬の暗殺日………それも今日であるとはおりょうも起美も夢にも思わない。
参考文献『おりょう残夢抄』中津文彦著作、PHP文庫出版より引用6~16ページ
 

武市半平太らの「土佐勤王党」の命運は、あっけないものであった。
 土佐藩藩主・山内容堂公の右腕でもあり、ブレーンでもあった吉田東洋を暗殺したとして、武市半平太やらは土佐藩の囚われとなった。
 武市は土佐の自宅で、妻のお富と朝食中に捕縛された。「お富、今度旅行にいこう」
 半平太はそういって連行された。
 吉田東洋を暗殺したのは岡田以蔵である。だが、命令したのは武市である。
 以蔵は拷問を受ける。だが、なかなか口を割らない。
 当たり前である。どっちみち斬首の刑なのだ。以蔵は武市半平太のことを「武市先生」と呼び慕っていた。
 だが、白札扱いで、拷問を受けずに牢獄の衆の武市の使徒である侍に「毒まんじゅう」を差し出されるとすべてを話した。
 以蔵は斬首、武市も切腹して果てた。壮絶な最期であった。
 一方、龍馬はその頃、勝海舟の海軍操練所の金策にあらゆる藩を訪れては「海軍の重要性」を説いていた。
 だが、馬鹿幕府は海軍操練所をつぶし、勝海舟を左遷してしまう。
「幕府は腐りきった糞以下だ!」
 勝麟太郎(勝海舟)は憤激する。だが、怒りの矛先がありゃしない。龍馬たちはふたたび浪人となり、薩摩藩に、長崎にいくしかなくなった。
 ちなみにおりょう(樽崎龍)が坂本竜馬の妻だが、江戸・千葉道場の千葉さな子は龍馬を密かに思い、生涯独身で過ごしたという。

この禁門の変で長州軍として戦った土佐郷士の中には、吉村寅次郎・那須信吾らと共に大和で幕府軍と戦い、かろうじて逃げのびた池内蔵太(いけ・くらた)もいた。そして中岡慎太郎も……。桂小五郎と密約同盟を結んだ因州(鳥取藩)は、当日約束を破り全く動かない。桂小五郎は怒り、有栖川宮邸の因州軍に乗り込んだ。
「御所御門に発砲するとは何ごとか?!そのような逆賊の長州軍とは、とても約束など守れぬわ!」
「そんな話があるかー!」
 鯉口を斬る部下を桂小五郎がとめた。「……それが因州のお考えですか……では……これまでであります!」
 武力抗争には最後まで反対した久坂玄瑞は、砲撃をくぐり抜け、長州に同情的であった鷹司卿の邸に潜入し、鷹司卿に天皇への嘆願を涙ながらに願い出たが、拒絶された。鷹司邸は幕府軍に包囲され、砲撃を受けて燃え始めた。久坂の隊は次々と銃弾に倒れ、久坂も足を撃たれもはや動かない。
「入江、長州の若様は何も知らず上京中だ。君はなんとか切り抜けてこの有様を報告してくれ。僕たちはここで死ぬから……」
 入江九一(いりえくいち)、久坂玄瑞、寺島忠三郎……三人とも松陰門下の親友たちである。
 右目を突かれた入江九一は門内に引き返し自決した。享年二十六歳。……文。すまぬ。久坂は心の中で妻にわびた。
「むこうで松陰先生にお会いしたら…ぼくたちはよくやったといってもらえるだろうかのう」
「ああ」
「晋作……僕は先にいく。後の戸締り頼むぞ!」
 久坂玄瑞享年二十五歳、寺島忠三郎享年二十一歳………。
 やがて火の手は久坂らの遺体数十体を焼け落ちた鷹司卿邸に埋まった。風が強く、京の街へと燃え広がった。  

 竜馬は薩摩藩お抱えの浪人集として、長崎にいた。
 のちに「海援隊」とする日本初の株式会社「亀山社中」という組織を元・幕府海軍訓練所の仲間たちとつくる。
 すべては日本の国の為にである。
 長州藩が禁門の変等という「馬鹿げた策略」を展開したことでいよいよもって長州藩の命運も尽きようとしていた。
 京に潜伏中の桂小五郎は乞食や女郎などに変装してまで、命を狙う会津藩お抱えの新撰組から逃げて暮らした。「逃げの小五郎」………のちに木戸孝允として明治政府の知恵袋になる男は、そんな馬鹿げた綽名をつけられ嘲笑の的になりさがっていた。
 だが、桂小五郎の志まで死んだ訳ではない。
 勿論、竜馬たちだって「薩摩の犬」に成り下がった訳ではなかった。
 ここにきて坂本竜馬が考えたのは、そう、薩摩藩と長州藩の同盟による倒幕……薩長同盟で、ある。
 だが、それはまだしばらく時を待たねばならない。



【石原伸晃経済再生相また暴走】上ぶれと底上げの意味もわからず。首相は「パートの月収25万円(笑)」

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石原大臣がさっそくボロを出した。


「アベノミクスの税収の上ぶれと経済の底上げの違い」もわからず


「税収が増える事が上ぶれ、上ぶれによって底上げが出来る」ととんちんかん発言。



安倍首相が「当初予算より増えた税収が上ぶれ、底上げは経済の実力か検討」


とフォローしたが(笑)もっと経済通を雇え!



緑川鷲羽そして始まりの2016年へ!臥竜   緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載7

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         4 奇策謀策






  伊藤博文と井上聞多が「岩倉使節団(団長・岩倉具視)」に参加したのは阿呆でも知っている。伊藤はアメリカ春蔵ことジョセフ・ヒコとアーネスト・サトウと知り合った。高杉晋作は天才であり、天才特有の破滅型の高飛車な面もある。自分より偉いと思ったのは結局・師匠・吉田松陰だけだったろう。仲間は兄貴分の桂小五郎と同期の久坂玄瑞だけであったろう。
 西郷吉之助(隆盛)も天才ではあったろう。が、この「鹿児島のおいどん」は維新後は大コケ、元武士らの神輿にのせられて「西南戦争」など起こしている。訳のわからぬ人物である。     
  長州藩(山口県)に戻るとき、高杉晋作は歩くのではなく「駕籠」をつかった。
 歩くと疲れるからである。
 しかし、銭がかかる。
 が、銭はたんまりもっている。
 ここらあたりが高杉らしい。
 駕籠に乗り、しばらくいくと関所が見えてきた。
 晋作は駕籠を降りずに通過しようとして、
「長州藩士高杉晋作、藩命によりまかり通る!」
 と叫んで通過しかけた。
 関所での乗り打ちは大罪であり、小田原の関所はパニックになる。押し止めようとした。 晋作は駕籠の中で鯉口を切り、
「ここは天下の公道である。幕府の法こそ私法ではないか! そんな法には俺は従わなぬわ!」といって、関所を通過してしまった。
 晋作が京に到着したのは三月九日であった。
 ……学習院御用掛を命ずる。
 晋作のまっていたのはこの藩命だった。
「……なんで俺ばっかなんだ」
 晋作は愚痴った。
 同僚は「何がだ?」ときく。
「俺ばっかりコキ使われる。俺の論文はロクに読まなかったくせに…」
「まぁ、藩は高杉くんに期待しておるのだろう」
「期待? 冗談じゃない。幕府の顔色ばかり気にしているだけだよ」
 同僚は諫めた。
「あまり突出するのはいいことじゃないぞ。この国では出る杭は打たれるって諺もある」 とってつけたような同僚の言葉に、晋作は苦笑した。
 ……俺は出る杭なのだ。何もわかっちゃいねえ。
 徳川家茂は「公武合体」によって、京にいき天皇に拝謁しなければならなくなっていた。 ……将軍に天皇を拝ませる。
 壤夷派は昴揚した。将軍が天皇に拝謁すれば、この国の一番上は天皇だと国民に知らしめることができる。
 それを万民に見せようと、行幸が企画された。
 晋作より先に京に入った久坂は、得意満面だったという。
 将軍上洛、行幸扈従は、長州藩の画策によりなったのである。いや、というより久坂の企画によって決まったのである。
 ……馬鹿らしい。
 晋作は冷ややかだった。
 学習院集議堂はうららかな春の暖かさに満ちている。
「もったいない。それだけ金を使う余裕があるなら軍艦が買えるじゃないか」
「お前に軍艦の話をされるとは思わなかった」
 久坂は苦笑した。晋作が船酔いするのを知っている。
 家茂上洛による朝廷の入費は長州藩の負担だった。計画したのが長州藩だから当然だが、その額は十万両を越えたという。
 久坂は、
「この行幸は無駄ではない」といい張る。
「義助よ、天子(天皇)にもうでただけで天下が動くか?」
「動くきっかけにはなる」
 久坂玄瑞は深く頷いた。

  行幸では、将軍の周りを旗本が続いた。天皇御座の車駕、関白は輿、公家は馬にのっていた。後陣が家茂である。十七歳の色白の貴公子は白馬の蒔絵鞍にまたがり、単衣冠姿で太刀を帯びた姿は華麗である。
 行列が後陣に差し掛かったとき、晋作が
「いよっ! 征夷大将軍!」
 と囃して、並いる長州藩士たちの顔色を蒼白にさせた……
 というのは俗説である。
 いかに壤夷の敵であってもあの松陰門下の晋作が天子行幸の将軍を野次る訳がない。
 もし、野次ったのなら捕りおさえられられるだろうし、幕府が発声者の主を詮議しないはずがない。しかし、そうした事実はない。
 京にきて、晋作は予想以上に自分の名が有名になっていることを知った。有名なだけでなく、期待と人望も集まっていた。米国公使暗殺未遂、吉田松陰の改葬、御殿山焼討ち、壤夷派は晋作に期待していた。
 学習院ではみな開国とか壤夷とか佐幕とかいろいろいってるが、何の力もない。
 しかし、晋作とてこの頃、口だけで何も出来ない藩士であった。
 この頃、西郷吉之助(隆盛)は薩摩と会津をふっつけて薩会同盟をつくり、長州藩追い落としにかかる。長州藩の大楽源太郎は「異人が嫌い」という人種差別で壤夷に走った狂人で、のちに勝海舟や村田六蔵(大村益次郎)や西郷隆盛や大久保一蔵(利道)らを狙い、晋作や井上聞多まで殺そうとしたことがある。
 大楽は頭が悪いうえに単純な性格で、藩からも「人斬り」として恐れられた。
 維新後までかれは生き残るが、明治政府警察に捕まり、横死している。
 晋作は何もできない。好きでもない酒に溺れるしかなかった。
 晋作は将軍家茂暗殺の計画を練るが、またも失敗した。
 要するに、手詰まり状態になった。
「誰だ?」
 廊下に人の気配があった。
「晋作です」
「そうか、はいれ」
 説教してやらねばならぬ。そう思っていた周布はぎょっとした。
「なんだその様は?!」
 晋作は入ってきたが、頭は剃髪していて、黒い袈裟姿である。
「坊主になりました。名は西行法師にあやかって……東行法師とはどうでしょう?」
「馬鹿らしい。お前は馬鹿だ」
 周布は呆れていった。

「晋作どうすればいい。長州は手詰まり状態だ」
 久坂はいった。
 すると晋作はにやりと笑って、
「戦の一字、あるのみ。戦いを始めろ」
「幕府とか?」
「違う」晋作は首を横にふった。「外国とだ」
 この停滞した時局を打破するには、外国と戦うしかない。
「しかし……勝てる訳がない」
「勝てなくてよい。すぐに負けて幕府に責任をとらせろ」
「……悪知恵の働くやつだな、お前は」
 久坂は唖然としていった。
「おれは悪人だよ」晋作は笑った。

  晋作は新妻・雅に目をやり、今日初めてまともに彼女をみた。俺の女子。俺のものだ。俺は糸のきれた凧だ。今のうちに仕込んでやらねばなるまい。今夜はうんといい思いをさせてやろう。といっても雅はまだ末通娘だから痛がるだけだろうが……
 晋作の目がまだあどけない雅の小柄な体をうっとりと眺めまわした。可愛い娘だ。
 男心をそそる。
 晋作はその夜、雅の小柄な体を舐めまわし、挿入した。
 やっぱり彼女は痛がった。

  大阪より勝海舟の元に飛脚から書状が届いたのは、六月一日のことだった。
 なんでも老中並小笠原図書頭が先月二十七日、朝陽丸で浦賀港を出て、昨日大阪天保山沖へ到着したという。
 何事であろうか? と勝海舟は思いつつ龍馬たちをともない、兵庫港へ帰った。
「この節は人をつかうにもおだててやらなけりゃ、気前よく働かねぇからな。機嫌をとるのも手間がかからぁ。近頃は大雨つづきで、うっとおしいったらありゃしねぇ。図書頭殿は、いったい何の用で来たんだろう」
 矢田堀景蔵が、日が暮れてから帆柱を仕立てて兵庫へ来た。
「図書頭殿は、何の用できたのかい?」
「それがどうにもわからん。水野痴雲(忠徳)をはじめ陸軍奉行ら、物騒な連中が乗ってきたんだ」
 水野痴雲は、旗本の中でも武闘派のリーダー的存在だ。
「図書頭殿は、歩兵千人と騎兵五百騎を、イギリス汽船に乗り込ませ、紀伊由良港まで運んでそこから大阪から三方向に別れたようだ」
「京で長州や壤夷浮浪どもと戦でもしようってのか?」
「さあな。歩兵も騎兵もイギリス装備さ。騎兵は六連発の銃を持ってるって話さ」
「何を考えているんだか」
 大雨のため二日は兵庫へとどまり、大阪の塾には三日に帰った。

 イギリスとも賠償問題交渉のため、四月に京とから江戸へ戻っていた小笠原図書頭は、やむなく、朝廷の壤夷命令違反による責めを一身に負う覚悟をきめたという。
 五月八日、彼は艦船で横浜に出向き、三十万両(四十四万ドル)の賠償金を支払った。 受け取ったイギリス代理公使ニールは、フランス公使ドゥ・ペルクールと共に、都の反幕府勢力を武力で一掃するのに協力すると申しでた。
 彼らは軍艦を多く保有しており、武装闘争には自信があった。
 幕府のほうでも、反幕府勢力の長州や壤夷浮浪どもを武力弾圧しようとする計画を練っていた。計画を練っていたのは、水野痴雲であった。
 水野はかつて外国奉行だったが、開国の国是を定めるために幕府に圧力をかけ、文久二年(一八六二)七月、函館奉行に左遷されたので、辞職したという。
 しばらく、痴雲と称して隠居していたが、京の浮浪どもを武力で一掃しろ、という強行論を何度も唱えていた。
 勝海舟は、かつて長崎伝習所でともに学んだ幕府医師松本良順が九日の夜、大阪の塾のある専称寺へ訪ねてきたので、六月一日に下関が、アメリカ軍艦に攻撃された様子をきいた。
「長州藩は、五月十日に潮がひくのをまってアメリカ商船を二隻の軍艦で攻撃した。商船は逃げたが、一万ドルの賠償金を請求してきた。今度は五月二十三日の夜明けがたには、長崎へ向かうフランス通報艦キァンシァン号を、諸砲台が砲撃した。
 水夫四人が死に、書記官が怪我をして、艦体が壊れ、蒸気機関に水がはいってきたのでポンプで水を排出しながら逃げ、長崎奉行所にその旨を届け出た。
 その翌日には、オランダ軍艦メデューサ号が、下関で長州藩軍艦に砲撃され、佐賀関の沖へ逃げた。仕返しにアメリカの軍艦がきたんだ」
 アメリカ軍艦ワイオミング号は、ただ一隻で現れた。アメリカの商船ペングローブ号が撃たれた報知を受け、五月三十一日に夜陰にまぎれ下関に忍び寄っていた。
「夜が明けると、長府や壇ノ浦の砲台がさかんに撃たれたが、長州藩軍艦二隻がならんで碇をおろしている観音崎の沖へ出て、砲撃をはじめたという」
「長州藩も馬鹿なことをしたもんでい。ろくな大砲ももってなかったろう。撃ちまくられたか?」
「そう。たがいに激しく撃ちあって、アメリカ軍艦は浅瀬に乗り上げたが、なんとか海中に戻り、判刻(一時間)のあいだに五十五発撃ったそうだ。たがいの艦体が触れ合うほどちかづいていたから無駄玉はない。長州藩軍艦二隻はあえなく撃沈だとさ」
 将軍家茂は大阪城に入り、勝海舟の指揮する順動丸で、江戸へ戻ることになった。
 小笠原図書頭はリストラされ、大阪城代にあずけられ、謹慎となった。

  由良港を出て串本浦に投錨したのは十四日朝である。将軍家茂は無量寺で入浴、休息をとり、夕方船に帰ってきた。空には大きい月があり、月明りが海面に差し込んで幻想のようである。
 勝海舟は矢田堀、新井らと話す。
「今夜中に出航してはどうか?」
「いいね。ななめに伊豆に向かおう」
 勝海舟は家茂に言上した。
「今宵は風向きもよろしく、海上も静寂にござれば、ご出航されてはいかがでしょう?」 家茂は笑って「そちの好きにするがよい」といった。
 四ケ月ぶりに江戸に戻った勝海舟は、幕臣たちが激動する情勢に無知なのを知って怒りを覚えた。彼は赤坂元氷川の屋敷の自室で寝転び、蝉の声をききながら暗澹たる思いだった。
 ………まったくどいつの言うことを聞いても、世間の動きを知っちゃいねえ。その場しのぎの付和雷同の説ばかりたてやがって。権威あるもののいうことを、口まねばかりしてやがる。このままじゃどうにもならねぇ………
 長州藩軍艦二隻が撃沈されてから四日後の六月五日、フランス東洋艦隊の艦船セミラミス号と、コルベット艦タンクレード号が、ふたたび下関の砲台を攻撃したという報が、江戸に届いたという。さきの通信艦キァンシャン号が長州藩軍に攻撃されて死傷者を出したことによる”報復”だった。フランス軍は夜が明けると直ちに攻撃を開始した。
 セミラミス号は三十五門の大砲を搭載している。艦長は、六十ポンドライフルを発射させたが、砲台の上を越えて当たらなかったという。二発目は命中した。
 コルベット艦タンクレード号も猛烈に砲撃し、ついに長州藩の砲台は全滅した。
 長州藩士兵たちは逃げるしかなかった。
 高杉晋作はこの事件をきっかけにして奇兵隊編成をすすめた。
 武士だけでなく農民や商人たちからも人をつのり、兵士として鍛える、というものだ。  薩摩藩でもイギリスと戦をしようと大砲をイギリス艦隊に向けていた。
 鹿児島の盛夏の陽射しはイギリス人の目を、くらませるほどだ。いたるところに砲台があり、艦隊に標準が向けられている。あちこちに薩摩の「丸に十字」の軍旗がたなびいている。だが、キューパー提督は、まだ戦闘が始まったと思っていない。あんなちゃちな砲台など、アームストロング砲で叩きつぶすのは手間がかからない、とタカをくくっている。その日、生麦でイギリス人を斬り殺した海江田武次(信義)が、艦隊の間を小船で擦り抜けた。彼は体調を崩し、桜島の故郷で静養していたが、イギリス艦隊がきたので前之浜へ戻ってきたのである。
                             翌朝二十九日朝、側役伊地知貞肇と軍賊伊地知竜右衛門(正治)がユーリアス号を訪れ、ニールらの上陸をうながした。
 ニールは応じなかったという。
「談判は旗艦ユーリアラスでおこなう。それに不満があれば、きっすいの浅い砲艦ハヴォック号を海岸に接近させ、その艦上でおこなおうではないか」

     島津久光は、わが子の藩主忠義と列座のうえ、生麦事件の犯人である海江田武次(信義)を呼んだ。
「生麦の一件は、非は先方にある。余の供先を乱した乱した輩は斬り捨てて当然である。 それにあたりイギリス艦隊が前之浜きた。薩摩隼人の武威を見せつけてやれ。その方は家中より勇士を選抜し、ふるって事にあたれ」
 決死隊の勇士の中には、のちに明治の元勲といわれるようになった人材が多数参加していたという。旗艦ユーリアラスに向かう海江田武次指揮下には、黒田了介(清盛、後の首相)、大山弥助(巌、のちの元帥)、西郷信吾(従道、のちの内相、海相)、野津七左衛門(鎮雄、のちの海軍中将)、伊東四郎(祐亭、のちの海軍元帥)らがいたという。
 彼等は小舟で何十人もの群れをなし、旗艦ユーリアラス号に向かった。
 奈良原は答書を持参していた。
 旗艦ユーリアラス号にいた通訳官アレキサンダー・シーボルトは甲板から流暢な日本語で尋ねた。
「あなた方はどのような用件でこられたのか?」
「拙者らは藩主からの答書を持参いたし申す」
 シーボルトは艦内に戻り、もどってきた。
「答書をもったひとりだけ乗艦しなさい」
 ひとりがあがり、そして首をかしげた。「おいどんは持っておいもはん」
 またひとりあがり、同じようなことをいう。またひとり、またひとりと乗ってきた。
 シーボルトは激怒し「なんとうことをするのだ! 答書をもったひとりだけ乗艦するようにいったではないか!」という。
 と、奈良原が「答書を持参したのは一門でごわはんか。従人がいても礼におとるということはないのではごわさんか?」となだめた。
 シーボルトはふたたび艦内に戻り、もどってきた。
「いいでしょう。全員乗りなさい」
 ニールやキューパーが会見にのぞんだ。
 薩摩藩士らは強くいった。
「遺族への賠償金については、払わんというわけじゃごわはんが、日本の国法では、諸藩がなにごとをなすにも、幕府の命に従わねばなりもはん。しかるに、いまだ幕命がごわさん。貴公方は長崎か横浜に戻って、待っとるがようごわす。もともと生麦事件はイギリス人に罪があるのとごわさんか?」
 ニール代理公使は通訳をきいて、激怒した。
「あなたの質問は、何をいっているかわからんではないか!」
 どうにも話が噛み合わないので、ニールは薩摩藩家老の川上に答書を届けた。
 それもどうにも噛み合わない。
 一、加害者は行方不明である。
 二、日本の国法では、大名行列を遮るのは禁じられている。
 三、イギリス艦隊の来訪に対して、いまだ幕命がこない。日本の国法では、諸藩がなに ごとをなすにも、幕府の命に従わねばならない。

        
  キューパ総督は薩摩藩の汽船を拿捕することにした。
 四つ(午前十時)頃、コケット号、アーガス号、レースホース号が、それぞれ拿捕した汽船をつなぎ、もとの碇泊地に戻った。
 鶴丸城がイギリス艦隊の射程距離にあるとみて、久光、忠義親子は本陣を千眼寺に移した。三隻が拿捕されたと知ると、久光、忠義は戦闘開始を指示した。
 七月二日は天候が悪化し、雨が振りつけてくる嵐のような朝になった。
 ニールたちは薩摩藩がどんな抵抗をしてくるか見守っていた。
 正午までは何ともなかった。だが、正午を過ぎたとき、暴風とともに一発の砲声が鳴り渡り、イギリス兵たちは驚いて飛び上がった。
 たちまちあらゆるところから砲弾が飛んできた。最初の一発を撃ったのは、天保山砂揚げ場の台場に十一門の砲をならべた鎌田市兵衛の砲兵隊であったという。
 イギリス艦隊も砲弾の嵐で応戦した。
 薩摩軍の砲弾は射程が短いのでほとんど海の中に落ちる。雲霞の如くイギリス艦隊から砲弾が雨あられと撃ちこまれる。拿捕した薩摩船は焼かれた。
 左右へと砲台を回転させることのできる回転架台に、アームストロング砲は載せられていた。薩摩藩の大砲は旧式のもので、砲弾はボンベンと呼ばれる球型の破壊弾だったという。そのため、せっかく艦隊にあたっても跳ね返って海に落ち、やっと爆発する……という何とも間の抜けた砲弾攻撃になった。
 イギリス艦隊は薩摩軍に完勝した。砲撃は五つ(午後八時)に終わった。
 紅蓮の炎に燃え上がる鹿児島市街を遠望しつつ、朝までにぎやかにシヤンパンで祝った。
  イギリス艦隊が戦艦を連れて鹿児島にいくと知ったとき、勝海舟は英国海軍と薩摩藩のあいだで戦が起こると予知していた。薩摩藩前藩主斉彬の在世中、咸臨丸の艦長として接してきただけに「斉彬が生きておればこんな戦にはならなかったはずでい」と惜しく思った。「薩摩は開国を望んでいる国だから、イギリスがおだやかにせっすればなんとかうまい方向にいったとおもうよ。それがいったん脅しつけておいて話をまとめようとしたのが間違いだったな。インドや清国のようなものと甘くみてたから火傷させられたのさ。 しかし、薩摩が勝つとは俺は思わなかったね。薩摩と英国海軍では装備が違う。
 いまさらながら斉彬公の先見の明を思いだしているだろう。薩摩という国は変わり身がはやい。幕府の口先だけで腹のすわってねぇ役人と違って、つぎに打つ手は何かを知ると、向きを考えるだろう。これからのイギリスの対応が見物だぜ」

  幕府の命により、薩摩と英国海軍との戦は和睦となった。薩摩が賠償金を払い、英国に頭を下げたのだ。
 鹿児島ではイギリス艦隊が去って三日後に、沈んでいる薩摩汽船を引き揚げた。領民には勝ち戦だと伝えた。そんなおり江戸で幕府が英国と和睦したという報が届いた。
 しかし、憤慨するものはいなかったという。薩摩隼人は、血気盛んの反面、現実を冷静に判断することになれていたのだ。

  毛利藩(長州藩)藩主らは「そうせい候」と仇名を残した。
 幕政改革案をだしてくると、「ようろう。そうせい」という。また、勤皇派弾圧意見をいっても「そうせい」という。
 だが、毛利敬親・元徳が愚か者だった訳ではないという。
 幕末の混乱期の長州藩は、他藩とは事情がことなっていた。長州藩の「日本改革思想」というのは幕府を改革するだけで、倒幕までは考えていなかった。しかし、晋作や久坂やらが暴走し、「そうせい」としかいえなかった。
 佐幕の会津松平や桑名松平や水戸の徳川斉昭にしても倒幕までは考えていなかった。
  薩摩の島津斉彬にしても、越前福井の松平春嶽、土佐の山内容堂にしても口では壤夷とはいうが、倒幕までは考えていなかった。
 しかし、長州藩には吉田松陰という思想家がつくりあげた画期的な政治思想が劇的に藩内に広がり倒幕派になってしまった。
 松陰の思想は、
「天下万人は天皇の臣である。幕府は天皇より御委任をうけた政治代表者であり、任に適さなければ、ただちに大政奉還すべきである」
 という、尊皇壤夷、大政奉還、であった。
 そんな中、井上聞多と伊東博文が長州藩留学生としてロンドンにいくことになった。 晋作もいきたいと思ったが、晋作は長州藩の「知恵袋」である。
 いかせる訳にはいかない。

  山口に着いた晋作は外国人のように裾を刈りあげ、髪形を洋風にした。彼は死ぬまでその髪形のままだったという。
 毛利父子は晋作の帰郷に喜んだ。
「馬関の守りが破れ、心もとない。その方を頼みとしたい」
 敬親はそう命じた。
「おそれながら、手前は十年のお暇を頂いております」
「お暇はいずれやる。今は非常の時である」
 もとのり    
 元徳はいう。
「うけたまわりました」
 晋作は意外とあっさり承諾し、騎馬隊をつれて馬関(下関)にむかった。その夜のうちにはついたのだから、まさに「動けば雷電の如し」の疾さである。
 この頃、白石正一郎という富豪が幕末の勇士たちに金銭面で支援していたという。
 …周布政之助、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保一蔵、月照……
 その中で、白石が最大の後援を続けたのが高杉晋作であり、財を傾け尽くした。

「俺は様式の軍隊を考えている。もはや刀や鎧の時代ではない。衣服は筒袖にズボン、行軍用に山笠、足は靴といきたいが草鞋で代用しよう。
 銃も西洋的な銃をつかう。それに弾薬、食費に宿舎……ひとり半年分で一人当たり四百両というところかな」
 ……小倉白石家をつぶす気か…?
「民兵軍の名は『奇兵隊』である」晋作は自慢気にいう。これが借金する男の態度か。 

漫画ドラマ『BLOODYMONDAY』ばりの小説執筆中『<GREENEAGLE>天才ハッカーVSテロ組織』

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漫画ドラマ『BLOODYMONDAY』のような


天才ハッカーが主人公の小説のプロットを練っている。


天才美少女ハッカー緑鷲直(広瀬すず)が主人公。


なんかブラマンの模倣みたいな(笑)


いじめられっこで裏では”GREENEAGLE”と噂される


天才ハッカーがテロ集団から日本を救う!二番煎じ笑






緑川鷲羽そして始まりの2016年2017年へ!臥竜   緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

竜馬とおりょうがゆく 樽崎龍の波乱の生涯<維新回天特別編>ブログ連載小説3

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大河ドラマ『花燃ゆ』の久坂玄瑞役の東出昌大さんが「僕は不幸の星の下に生まれたんや」と、松陰の妹の杉文役の井上真央さんにいったのはあながち“八つ当たり”という訳ではなかった。ペリーが二度目に来航した安政元年(一八五四)、長州の藩主は海防に関する献策を玄機に命じた。たまたま病床にあったが、奮起して執筆にとりかかり、徹夜は数日にわたった。精根尽き果てたように、筆を握ったまま絶命したのだ。
それは二月二十七日、再来ペリーを幕府が威嚇しているところであり、吉田松陰が密航をくわだてて、失敗する一か月前のことである。
畏敬する兄の死に衝撃を受け、その涙もかわかない初七日に、玄瑞は父親の急死という二重の不幸に見舞われた。すでに母親も失っている。玄瑞は孤児となった。十五歳のいたましい春だった。久坂秀三郎は、知行高二十五石の藩医の家督を相続し、玄瑞と改名する。六尺の豊かな偉丈夫で色男、やや斜視だったため、初めて彼が吉田松陰のもとにあらわれたとき、松陰の妹文は、「お地蔵さん」とあだ名をつけたが、やがて玄瑞はこの文と結ばれるのである。「筋金入りの“攘夷思想”」のひとである。熊本で会った宮部鼎蔵から松陰のことを聞いて、その思いを述べた。「北条時宗がやったように、米使ハリスなどは斬り殺してしまえばいいのだ」松陰は「久坂の議論は軽薄であり、思慮浅く粗雑きわまる書生論である」と反論し、何度も攘夷論・夷人殺戮論を繰り返す「不幸な人」久坂玄瑞を屈服させる。松陰の攘夷論は、情勢の推移とともに態様を変え、やがて開国論に発展するが、久坂は何処までも「尊皇攘夷・夷狄殺戮」主義を捨てなかった。長州藩は「馬関攘夷戦」で壊滅する。それでも「王政復古」「禁門の変」につながる「天皇奪還・攘夷論」で動いたのも久坂玄瑞であった。これをいいだしたのは久留米出身の志士・真木和泉(まき・いずみ)である。天皇を確保して長州に連れてきて「錦の御旗」として長州藩を“朝敵”ではなく、“官軍の藩”とする。やや突飛な構想だったから玄瑞は首をひねったが、攘夷に顔をそむける諸大名を抱き込むには大和行幸も一策だと思い、桂小五郎も同じ意見で、攘夷親征運動は動きはじめた。
松下村塾では、高杉晋作と並んで久坂玄瑞は、双璧といわれた。いったのは、師の松陰その人である。禁門の変の計画には高杉晋作は慎重論であった。どう考えても、今はまだその時期ではない。長州はこれまでやり過ぎて、あちこちに信用を失い、いまその報いを受けている。しばらく静観して、反対論の鎮静うるのを待つしかない。
高杉晋作は異人館の焼打ちくらいまでは、久坂玄瑞らと行動をともにしたけれども、それ以降は「攘夷殺戮」論には「まてや、久坂!もうちと考えろ!異人を殺せば何でも問題が解決する訳でもあるまい」と慎重論を唱えている。
それでいながら長州藩独立国家案『長州大割拠(独立)』『富国強兵』を唱えている。丸山遊郭、遊興三昧で遊んだかと思うと、「ペリーの大砲は3km飛ぶが、日本の大砲は1kmしか飛ばない」という。「僕は清国の太平天国の乱を見て、奇兵隊を、農民や民衆による民兵軍隊を考えた」と胸を張る。
文久三年馬関戦争での敗北で長州は火の海になる。それによって三条実美ら長州派閥公家が都落ち(いわゆる「七卿落ち」「八月十八日の政変」)し、さらに禁門の変…孝明天皇は怒って長州を「朝敵」にする。四面楚歌の長州藩は四国に降伏して、講和談判ということになったとき、晋作はその代表使節を命じられた。ほんとうは藩を代表する家老とか、それに次ぐ地位のものでなければならないのだが、うまくやり遂げられそうな者がいないので、どうせ先方にはわかりゃしないだろうと、家老宍戸備前の養子刑馬という触れ込みで、威風堂々と旗艦ユーリアラス号へ烏帽子直垂で乗り込んでいった。伊藤博文と山県有朋の推薦があったともいうが、晋作というのは、こんな時になると、重要な役が回ってくる男である。
談判で、先方が賠償金を持ち出すと「幕府の責任であり、幕府が払う筋の話だ」と逃げる。下関に浮かぶ彦島を租借したいといわれると、神代以来の日本の歴史を、先方が退屈するほど永々と述べて、煙に巻いてしまった。
だが、長州藩が禁門の変で不名誉な「朝敵」のようなことになると“抗戦派(進発派「正義派」)”と“恭順派(割拠派「俗論党」)”という藩論がふたつにわれて、元治元年十一月十二日に恭順派によって抗戦派長州藩の三家老の切腹、四参謀の斬首、ということになった。周布政之助も切腹、七卿の三条実美らも追放、長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)は城崎温泉で一時隠遁生活を送り、自暴自棄になっていた。そこで半分藩命をおびた使徒に(旧姓・杉)文らが選ばれる。文は隠遁生活でヤケクソになり、酒に逃げていた桂小五郎隠遁所を訪ねる。「お文さん………何故ここに?」「私は長州藩主さまの藩命により、桂さんを長州へ連れ戻しにきました」「しかし、僕にはなんの力もない。久坂や寺島、入江九一など…禁門の変の失敗も同志の死も僕が未熟だったため…もはや僕はおわった人物です」「違います!寅にいは…いえ、松陰は、生前にようっく桂さんを褒めちょりました。桂小五郎こそ維新回天の人物じゃ、ゆうて。弱気はいかんとですよ。…義兄・小田村伊之助(楫取素彦)の紹介であった土佐の坂本竜馬というひとも薩摩の西郷隆盛さんも“桂さんこそ長州藩の大人物”とばいうとりました。皆さんが桂さんに期待しとるんじゃけえ、お願いですから長州藩に戻ってつかあさい!」桂は考えた。…長州藩が、毛利の殿さまが、僕を必要としている?やがて根負けした。文は桂小五郎ことのちの木戸孝允を説得した。こうして長州藩の偉人・桂小五郎は藩政改革の檜舞台に舞い戻った。もちろんそれは高杉晋作が奇兵隊で討幕の血路を拓いた後の事であるのはいうまでもない。そして龍馬、桂、西郷の薩長同盟に…。しかし、数年前の禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩薩摩藩により朝敵にされたうらみを、長州人の人々は忘れていないものも多かった。彼らは下駄に「薩奸薩賊」と書き踏み鳴らす程のうらみようであったという。だから、薩摩藩との同盟はうらみが先にたった。だが、長州藩とて薩摩藩と同盟しなければ幕府に負けるだけ。坂本竜馬は何とか薩長同盟を成功させようと奔走した。しかし、長州人のくだらん面子で、十日間京都薩摩藩邸で桂たちは無駄に過ごす。遅刻した龍馬は「遅刻したぜよ。げにまっことすまん、で、同盟はどうなったぜよ?桂さん?」「同盟はなんもなっとらん」「え?西郷さんが来てないんか?」「いや、西郷さんも大久保さんも小松帯刀さんもいる。だが、長州から頭をさげるのは…無理だ」龍馬は喝破する。「何をなさけないこというちゅう?!桂さん!西郷さん!おんしら所詮は薩摩藩か?長州藩か?日本人じゃろう!こうしている間にも外国は日本を植民地にしようとよだれたらして狙ってるんじゃ!薩摩長州が同盟して討幕しなけりゃ、日本国は植民地ぜよ!そうなったらアンタがたは日本人になんとわびるがじゃ?!」こうして紆余曲折があり、同盟は成った。話を戻す。「これでは長州藩は徳川幕府のいいなり、だ」晋作は奇兵隊を決起(功山寺挙兵)する。最初は80人だったが、最後は800人となり奇兵隊が古い既得権益の幕藩体制派の長州保守派“徳川幕府への恭順派”を叩き潰し、やがては坂本竜馬の策『薩長同盟』の血路を拓き、維新前夜、高杉晋作は労咳(肺結核)で病死してしまう。
高杉はいう。「翼(よく)あらば、千里の外も飛めぐり、よろづの国を見んとしぞおもふ」
『徳川慶喜(「三―草莽の志士 久坂玄瑞「蛤御門」で迎えた二十五歳の死」)』古川薫氏著、プレジデント社刊137~154ページ+『徳川慶喜(「三―草莽の志士 高杉晋作「奇兵隊」で討幕の血路を拓く」)』杉森久英氏著、プレジデント社刊154~168ページ+映像資料NHK番組「英雄たちの選択・高杉晋作篇」などから文献引用



 
若い頃の栄一は尊王壤夷運動に共鳴し、文久三年(一八六三)に従兄の尾高新五郎とともに、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地襲撃を企てた。
 しかし、実行は中止され、京都に出た渋沢栄一は代々尊王の家柄として知られた一橋・徳川慶喜に支えた。
 話しを前に戻す。
  天保五年(一八三四)、栄一は十二歳のとき御殿を下がった。
 天保八年十五歳のとき、家斉の嫡男が一橋家を継ぐことになり、一橋慶昌と名乗った。当然のように栄一は召し抱えられ、内示がきた。
 一橋家はかの将軍吉宗の家系で、由緒ある名門である。栄一は、田沼意次や柳沢吉保のように場合によっては将軍家用人にまで立身出世するかもと期待した。
 一橋慶昌の兄の将軍家定は病弱でもあり、いよいよ一橋家が将軍か? といわれた。
 しかし、そんな慶昌も天保九年五月に病死してしまう。栄一は十六歳で城を離れざるえなくなった。
 しかし、この年まで江戸城で暮らし、男子禁制の大奥で暮らしたことは渋沢にとってはいい経験だった。大奥の女性は彼を忘れずいつも「栄さんは…」と内輪で話したという。城からおわれた渋沢栄一は算盤に熱中した。
 彼は家督を継ぎ、鬱憤をまぎらわすかのように商売に励んだ。
 この年、意地悪ばばあ殿と呼ばれた曾祖母が亡くなった。
 栄一の父は夢酔と号して隠居してやりたいほうだいやったが、やがて半身不随の病気になり、死んだ。
 父はいろいろなところに借金をしていたという。
 そのため借金取りたちが栄一の屋敷に頻繁に訪れるようになる。
「父の借財はかならずお返しいたしますのでしばらくまってください」栄一は頭を下げ続けた。プライドの高い渋沢にとっては屈辱だったことだろう。
 渋沢は学問にも勤しんだ。この当時の学問は蘭学とよばれるもので、蘭…つまりオランダ学問である。渋沢は蘭学を死に物狂いで勉強した。
 本屋にいって本を見るが、買う金がない。だから一生懸命に立ち読みして覚えた。しかし、そうそう覚えられるものではない。
 あるとき、本屋で新刊の孔子の『論語』を見た。本を見るとめったにおめにかかれないようないい内容の本である。
「これはいくらだ?」渋沢は主人に尋ねた。
「五十両にござりまする」
「高いな。なんとかまけられないか?」
 主人はまけてはくれない。そこで渋沢は親戚、知人の家を駆け回りなんとか五十両をもって本屋に駆け込んだ。が、孔子の『論語』はすでに売れたあとであった。
「あの本は誰が買っていったのか?」息をきらせながら渋沢はきいた。
「四谷大番町にお住まいの与力某様でござります」
 渋沢は駆け出した。すぐにその家を訪ねた。
「その本を私めにお譲りください。私にはその本が必要なのです」
 与力某は断った。すると栄一は「では貸してくだされ」という。
 それもダメだというと、渋沢は「ではあなたの家に毎日通いますから、写本させてください」と頭を下げる。いきおい土下座のようになる。誇り高い渋沢栄一でも必要なときは土下座もした。それで与力某もそれならと受け入れた。「私は四つ(午後十時)に寝ますからその後屋敷の中で写しなされ」
  渋沢は毎晩その家に通い、写経ならぬ写本をした。
 渋沢の住んでいるのは本所江戸王子で、与力の家は四谷大番町であり、距離は往復三里(約二十キロ)であったという。雪の日も雨の日も台風の日も、渋沢は写本に通った。
あるとき本の内容の疑問点について与力に質問すると、
「拙者は本を手元にしながら全部読んでおらぬ。これでは宝の持ち腐れじゃ。この本はお主にやろう」と感嘆した。渋沢は断った。
「すでに写本があります」
 しかし、どうしても、と与力は本を差し出す。渋沢は受け取った。仕方なく写本のほうを売りに出したが三〇両の値がついたという。栄一は売らなかった。その栄一による「論語の写し」は渋沢栄一記念館に現存している。

  渋沢は出世したくて蘭学の勉強をしていた訳ではない。当時、蘭学は幕府からは嫌われていた。しかし、艱難辛苦の勉学により渋沢の名声は世に知られるようになっていく。渋沢はのちにいう。
「わしなどは、もともととんと望みがなかったから貧乏でね。飯だって一日に一度くらいしか食べやしない」
 大飢饉で、渋沢も大変な思いをしたという。
 徳川太平の世が二百五十年も続き、皆、戦や政にうとくなっていた。信長の頃は、馬は重たい鎧の武士を乗せて疾走した。が、そういう戦もなくなり皆、剣術でも火縄銃でも型だけの「飾り」のようになってしまっていた。
 渋沢はその頃、こんなことでいいのか?、と思っていた。
 だが、渋沢も「黒船」がくるまで目が覚めなかった。
「火事場泥棒」的に尊皇攘夷の旗のもと、栄一は外国人宿泊館に放火したり、嵐のように暴れた。奇兵隊にも入隊したりもしている。松下村塾にも僅かな期間だが通学した。
 だが、吉田松陰は渋沢栄一の才に気づかぬ。面白くないのは栄一である。
 しかし、渋沢栄一は「阿呆」ではない。軍事力なき攘夷「草莽掘起」より、開国して文化・武力・経済力をつけたほうがいい。佐久間象山の受け入りだが目が覚めた。つまり、覚醒した。だが、まだ時はいまではない。「知略」「商人としての勘」が自分の早熟な行動を止めていた。今、「開国論」を説けば「第二・佐久間象山」でしかない。佐久間象山はやがて幕府の「安政の大獄」だか浪人や志士だのいう連中の「天誅」だかで犬死するだろう。
 俺は死にたくない。まずは力ある者の側近となり、徐々に「独り立ち」するのがいい。
 誰がいい? 木戸貫治(桂小五郎)? 頭がいいが「一匹狼的」だ。西郷吉之助(隆盛)?
薩摩(鹿児島県)のおいどんか? 側近や家来が多すぎる。佐久間象山? 先のないひとだ。坂本龍馬? あんな得体の知れぬ者こっちが嫌である。大久保一蔵(利通)? 有力だが冷徹であり、どいつも「つて(人脈)」がない。
 渋沢栄一は艱難辛苦の末、わずかなつて(人脈)を頼って「一橋慶喜」に仕官し、いつしか慶喜の「懐刀」とまでいわれるように精進した。根は真面目な計算高い渋沢栄一である。
 頭のいい栄一は現在なら「東大法学部卒のエリート・キャリア官僚」みたいな者であったにちがいない。
 一橋慶喜ことのちの徳川慶喜は「馬鹿」ではない。「温室育ちの苦労知らずのお坊ちゃん」であるが、気は小さく「蚤の心臓」ではあるが頭脳麗しい男ではある。
 だが、歴史は彼を「阿呆だ」「臆病者だ」という。
「官軍に怯えて大阪城から遁走したではないか」
「抵抗なく大政奉還し、江戸城からもいち早く逃げ出した」
  歴史的敗北者だ、というのだ。だが、なら自分が慶喜の立場だったら?ああやる以外どうせよというのだ?官軍と幕府軍で全面内戦状態になれば「清国の二の舞」だったではないか。
 あえて「貧乏くじ」を引く策は実は渋沢栄一の「策」、「入れ知恵」ではあった。
 まあ、「結果」よければすべてよし、である。
 


坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。大河ドラマ『花燃ゆ』では、伊原剛志さん演ずる龍馬が長州の松下村塾にやってきて久坂(旧姓・杉)文と出会う設定になっていた(大河ドラマ『花燃ゆ』第十八回「龍馬!登場」の話)。足の汚れを洗う為の桶の水で顔を洗い、勝海舟や吉田松陰に傾倒している、という。松陰亡き後の文の『第二部 幕末篇』のナビゲーター(水先案内人)的な存在である。文は龍馬の底知れない存在感に驚いた。「吉田松陰先生は天下一の傑物じゃったがに、井伊大老に殺されたがはもったいないことじゃったのう」「は、はあ。……あの…失礼ですが、どちらさまで?」「あ、わしは龍馬!土佐の脱藩浪人・坂本竜馬ぜよ。おまんはもしかして松陰先生の身内かえ?」「はい。妹の久坂文です」「ほうか。あんたがお文さんかえ?まあ、数日前の江戸の桜田門外の変はざまあみさらせじゃったがのう」「さ…桜田門外の変?」「おまん、知らんがか?幕府の大老・井伊直弼が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されよったきい」「えっ?!」「まずは維新へ一歩前進ぜよ」「…維新?」桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩郷士の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「尊皇攘夷は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。

 和宮と若き将軍・家茂(徳川家福・徳川紀州藩)との話しをしよう。
 和宮が江戸に輿入れした際にも悶着があった。なんと和宮(孝明天皇の妹、将軍家へ嫁いだ)は天璋院(薩摩藩の篤姫)に土産をもってきたのだが、文には『天璋院へ』とだけ書いてあった。様も何もつけず呼び捨てだったのだ。「これは…」側女中の重野や滝山も驚いた。「何かの手違いではないか?」天璋院は動揺したという。滝山は「間違いではありませぬ。これは江戸に着いたおり、あらかじめ同封されていた文にて…」とこちらも動揺した。
 天皇家というのはいつの時代もこうなのだ。現在でも、天皇の家族は子供にまで「なんとか様」と呼ばねばならぬし、少しでも批判しようものなら右翼が殺しにくる。
 だから、マスコミも過剰な皇室敬語のオンパレードだ。        
 今もって、天皇はこの国では『現人神』のままなのだ。
「懐剣じゃと?」
 天璋院は滝山からの報告に驚いた。『お当たり』(将軍が大奥の妻に会いにいくこと)の際に和宮が、懐にきらりと光る物を忍ばせていたのを女中が見たというのだ。        
「…まさか…和宮さんはもう将軍の御台所(正妻)なるぞ」
「しかし…再三のお当たりの際にも見たものがおると…」滝山は深刻な顔でいった。
「…まさか…公方さまを…」
 しかし、それは誤解であった。確かに和宮は家茂の誘いを拒んだ。しかし、懐に忍ばせていたのは『手鏡』であった。天璋院は微笑み、「お可愛いではないか」と呟いたという。 天璋院は家茂に「今度こそ大切なことをいうのですよ」と念を押した。
 寝室にきた白装束の和宮に、家茂はいった。「この夜は本当のことを申しまする。壤夷は無理にござりまする。鎖国は無理なのです」
「……無理とは?」
「壤夷などと申して外国を退ければ戦になるか、または外国にやられ清国のようになりまする。開国か日本国内で戦になり国が滅ぶかふたつだけでござりまする」
 和宮は動揺した。「ならば公武合体は……壤夷は無理やと?」
「はい。無理です。そのことも帝もいずれわかっていただけると思いまする」
「にっぽん………日本国のためならば……仕方ないことでござりまする」
「有り難うござりまする。それと、私はそなたを大事にしたいと思いまする」
「大事?」
「妻として、幸せにしたいと思っておりまする」
 ふたりは手を取り合った。この夜を若きふたりがどう過ごしたかはわからない。しかし、わかりあえたものだろう。こののち和宮は将軍に好意をもっていく。
  この頃、文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩の島津久光が一千の兵を率いて京、そして江戸へと動いた。この知らせは長州藩や反幕府、尊皇壤夷派を勇気づけた。この頃、土佐の坂本龍馬も脱藩している。そしてやがて、薩長同盟までこぎつけるのだが、それは後述しよう。
  家茂は妻・和宮と話した。
 小雪が舞っていた。「私はややが欲しいのです…」
「だから……子供を産むだけが女の仕事ではないのです」
「でも……徳川家の跡取がなければ徳川はほろびまする」
 家茂は妻を抱き締めた。優しく、そっと…。「それならそれでいいではないか……和宮さん…私はそちを愛しておる。ややなどなくても愛しておる。」
 ふたりは強く強く抱き合った。長い抱擁……
  薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)の同盟が出来ると、いよいよもって天璋院(篤姫)の立場は危うくなった。薩摩の分家・今和泉島津家から故・島津斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となり、将軍・家定の正室となって将軍死後、大御台所となっていただけに『薩摩の回し者』のようなものである。
 幕府は天璋院の事を批判し、反発した。しかし、天璋院は泣きながら「わたくしめは徳川の人間に御座りまする!」という。和宮は複雑な顔だったが、そんな天璋院を若き将軍・家茂が庇った。薩摩は『将軍・家茂の上洛』『各藩の幕政参加』『松平慶永(春嶽)、一橋慶喜の幕政参加』を幕府に呑ませた。それには江戸まで久光の共をした大久保一蔵や小松帯刀の力が大きい。そして天璋院は『生麦事件』などで薩摩と完全に訣別した。こういう悶着や、確執は腐りきった幕府の崩壊へと結び付くことなど、幕臣でさえ気付かぬ程であり、幕府は益々、危機的状況であったといえよう。
 話しを少し戻す。

長崎で、幕府使節団が上海行きの準備をはじめたのは文久二年の正月である。
 当然、晋作も長崎にら滞在して、出発をまった。
 藩からの手持金は、六百両ともいわれる。
 使節の乗る船はアーミスチス号だったが、船長のリチャードソンが法外な値をふっかけていたため、準備が遅れていたという。
 二十三歳の若者がもちなれない大金を手にしたため、芸妓上げやらなにやらで銭がなくなっていき……よくある話しである。
 …それにしてもまたされる。
 窮地におちいった晋作をみて、同棲中の芸者がいった。
「また、私をお売りになればいいでしょう?」
 しかし、晋作には、藩を捨てて、二年前に遊郭からもらいうけた若妻雅を捨てる気にはならなかった(遊郭からもらいうけたというのはこの作品上の架空の設定。事実は萩城下一番の美女で、武家の娘の井上雅(結婚当時十五歳)を、高杉晋作は嫁にした。縁談をもってきたのは父親の高杉小忠太で、息子の晋作を吉田松陰から引き離すための縁談であったという。吉田松陰は、最後は井伊大老の怒りを買い、遺言書『留魂録』を書いたのち処刑される。処刑を文たちが観た、激怒…、は小説上の架空の設定)。だが、結局、晋作は雅を遊郭にまた売ってしまう。
 ……自分のことしか考えられないのである。
 しかし、女も女で、甲斐性無しの晋作にみきりをつけた様子であったという。
  当時、上海に派遣された五十一名の中で、晋作の『遊清五録』ほど精密な本はない。長州藩が大金を出して派遣した甲斐があったといえる。
 しかし、上海使節団の中で後年名を残すのは、高杉晋作と中牟田倉之助、五代才助の三人だけである。中牟田は明治海軍にその名を残し、五代は維新後友厚と改名し、民間に下って商工会を設立する。大阪経済の発展につとめ、のちに大阪の恩人と呼ばれた男である。
 晋作は上海にいって衝撃を受ける。
 吉田松陰いらいの「草奔掘起」であり「壤夷」は、亡国の途である。
 こんな強大な外国と戦って勝てる訳がない。
 ……壤夷鎖国など馬鹿げている!
 それに開眼したのは晋作だけではない。勝海舟も坂本龍馬も、佐久間象山、榎本武揚、小栗上野介や松本良順らもみんなそうである。晋作などは遅すぎたといってもいい。
 上海では賊が出没して、英軍に砲弾を浴びせかける。
 しかし、すぐに捕まって処刑される。
 日本人の「壤夷」の連中とどこが違うというのか……?
 ……俺には回天(革命)の才がある。
 ……日本という国を今一度、回天(革命)してみせる!
「徳川幕府は腐りきった糞以下だ! かならず俺がぶっつぶす!」
 高杉晋作は革命の志を抱いた。
 それはまだ維新夜明け前のことで、ある。



            
  龍馬(坂本龍馬)にももちろん父親がいた。
 龍馬の父・坂本八平直足は養子で山本覚右衛門の二男で、年わずか百石の百表どりだった。嘉永から文政にかけて百表三十何両でうれたが、それだけでは女中下男や妻子を養ってはいけない。いきおい兼業することになる。質屋で武士相手に金の貸し借りをしていたという。この頃は武士の天下などとはほど遠く、ほとんどの武士は町人から借金をしていたといわれる。中には武士の魂である「刀」を売る不貞な輩までいた。坂本家は武家ではあったが、質屋でもあった。
 坂本家で、八平は腕白に過ごした。夢は貿易だったという。
 貧乏にも負けなかった。
 しかし、八平の義父・八蔵直澄は年百石のほかに質屋での売り上げがはいる。あながち貧乏だった訳ではなさそうだ。
 そのため食うにはこまらなくなった。
 それをいいことに八平は腕白に育った。土佐(高知県)藩城下の上町(現・高知県本丁節一丁目)へ住んでいた。そんな八平も結婚し、子が生まれた。末っ子が、あの坂本龍馬(龍馬・紀(直陰)直柔りょうま・きの・(なおかげ)なおなり)である。天保六年(一八三五)十一月十五日が龍馬の誕生日であった。
 父・八平(四十二歳)、母・幸(こう・三十七歳)のときのことである。
 高知県桂浜……
 龍馬には二十一歳年上の兄権平直方(二十一歳)、長姉千鶴(十九歳)、次姉栄(十歳)、三姉乙女(四歳)がいて、坂本家は郷士(下級武士)であったが本家は質屋だった。
 龍馬は、表では威張り散らしている侍が、質屋に刀剣や壺などをもってきてへいへいと頭を下げて銭を借りる姿をみて育った。……侍とは情なき存在じゃきに。幼い龍馬は思った。
 幸は懐妊中、雲龍奔馬が胎内に飛び込んだ夢をみた。そのため末っ子には「龍馬」と名付けたのである。
 いろいろと騒ぎを起こす八平の元で、龍馬は順調に育った。幸も息子を可愛がった。
 しかし、三歳を過ぎた頃から龍馬はおちこぼれていく。物覚えが悪く、すぐに泣く。
 いつまでも”寝小便”が治らなかった。
「馬鹿」なので、塾の先生も手を焼く。すぐ泣くのでいじめられる。
 そんな弘文三年に、龍馬は母を亡くした。龍馬が十二歳のときだった。
 母のかわりに龍馬を鍛えたのが、「坂本のお仁王様」と呼ばれた三歳年上のがっちりした長身の姉・乙女だった。
 乙女は弟には容赦なく体罰を与えて”男”として鍛え上げようとした。
「これ! 龍馬! 男のくせに泣くな!」
 乙女は、びいびい泣く龍馬少年の頬をよく平手打ちした。しかし、龍馬はさらに泣く。  
 いじめられて友達もいないから、龍馬は折檻がいやで堪らない。
「泣くな! これ龍馬! 男は泣いたらいかんきに!」
 乙女は龍馬を叩いたり蹴ったりもした。しかし、けして憎い訳じゃない。すべては立派な男にするためだ。しかし、近所からは”「坂本のお仁王様」がまた馬鹿弟をいじめている”……などと噂される。乙女も辛かったろう。しかし、乙女はけして妥協しない。
 龍馬は少年時代から孤独であった。
 兄姉があり、末っ子だから当然うるさいほど甘やかされてもよさそうなものなのに、そうではなかった。龍馬が利発な子なら好かれたろう。
 だが、龍馬は逆に皆に無視されることになった。それは生まれたときから顔に大きな黒子があったり、背中に黒い毛が生えていたりしたからであろう。栄姉などは龍馬を不気味がったりもしたという。そのうえ龍馬は少しぼ~っとしていて、物覚えが悪く、いつも泣く。剛気をよろこぶ土佐の風土にあわぬ者とし「ハナタレ」と呼ばれ、いつもいじめられた。そんな中で乙女だけが、イライラと龍馬を叱ったり世話をやいた。
「龍馬。あなたはちゃんとした立派な男に……いいえ英雄になりなさい!」
「……じゃきに…」龍馬は泣きながらいった。         
「泣くな! 男じゃろ?! あんさんは女子じゃきにか?」乙女は叱った。
 そして続けて「あんたが生まれたとき、あたしたちはびっくりしました。黒子が顔にあって、背中にふさふさ毛が生えちゅう。じゃきにな龍馬、母上は嘆いたのよ。でも、あた            
しが慰めようとして、これは奇瑞よ。これは天駆ける龍目が生まれたのよ……って」
 龍馬はようやく泣きやんだ。
「あとはあなたの努力次第じゃ。ハナタレのままか、偉いひとになるか」
 高知で「ハナタレ」と呼ばれるのは白痴のことである。それを龍馬の耳にいれまいとして乙女はどれだけ苦労したことか。しかし、今はハッキリと本人にいってやった。
 この弟を一人前の男にしなくては……その思いのまま乙女は弟をしつけた。
「あんさんは何かあるとすぐ泣くので、皆いっちゅう。金で侍の株は買えるがもともと商人じゃ。泣虫なのはあたりまえじゃきに…と。悔しくないのきにか?!」
 愛情を込めて、乙女はいった。しかし、龍馬にはわからない。
 乙女はいろいろな手で弟を鍛えた。寝小便を直すのに叱り、励まし、鏡川へ連れていっていきなり水の中に放りこんで無理に泳がせたり、泣いているのに何べんでも竹刀を持ち直させて打ちすえたり………いろいろなことをした。
 そんな龍馬も成長すると、剣の腕もあがり、乙女のおかげで一人前の男になった。
 十九歳の頃、龍馬は単身江戸へむかい剣術修行することになった。
 乙女はわが子のような、弟、龍馬の成長に喜んだ。
 乙女は可愛い顔立ちをしていたが、からだがひとより大きく、五尺四、五寸はあったという。ずっとりと太っていてころげると畳みがゆれるから、兄権平や姉の栄がからかい、「お仁王様に似ちゅう」
 といったという。これが広がって高知では「坂本のお仁王様」といえば百姓町人まで知らぬ者はいない。乙女は体が大きいわりには俊敏で、竹刀を使う腕は男以上だった。末弟に剣術を教えたのも、この三歳年上の乙女である。
 龍馬がいよいよ江戸に発つときいて、土佐城下本町筋一丁目の坂本屋敷には、早朝からひっきりなしに祝い客がくる。客はきまって、
「小嬢さまはぼんがいなくなってさぞ寂しいでしょう?」ときく。
 乙女は「いいえ。はなたれがいなくなってさっぱりしますきに」と強がりをいう。
 龍馬が十二歳のときに母親が死んでから、乙女は弟をおぶったり、添い寝をしたりして育ててきた。若い母親のような気持ちがある。それほど龍馬は手間のかかる子供だった。 いつもからかわれて泣いて帰る龍馬は、高知では「あのハナタレの坂本のぼん」と呼ばれて嘲笑されていた。泣きながら二丁も三丁も歩いて帰宅する。極端な近視でもある。
 父親はひとなみに私塾(楠山塾)にいれるが、毎日泣いて帰ってくるし、文字もろくすっぽ覚えられない。みかねた塾の先生・楠山庄助が「拙者にはおたくの子は教えかねる」といって、塾から排斥される。
 兄の権平や父の八平も「とんでもない子供だ。廃れ者だ」と嘆く。
 しかし、乙女だけはくすくす笑い、「いいえ。龍馬は日本に名をのこす者になります」などという。
「寝小便たれがかぜよ?」
「はい」乙女は強く頷いた。
 乙女の他に龍馬の支援者といえば、明るい性格の源おんちゃんであったという。源おんちゃんは「坊さんはきっと偉いひとになりますきに。これからは武ではなく商の時代ですき」という。

伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載8

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         5 禁門の変






  のちに『禁門の変』と呼ばれる事件を引き起こしたとき、久坂玄瑞は二十五歳の若さであった。ちょうど、薩摩藩(鹿児島県)と会津藩(福島県)の薩会同盟ができ、長州藩が幕府の敵とされた時期だった。
  吉田松陰は「維新」の書を獄中で書いていた。それが、「草奔掘起」である。
 伊藤は柵外から涙をいっぱい目にためて、白無垢の松陰が現れるのを待っていた。やがて処刑場に、師が歩いて連れて来られた。「先生!」意外にも松陰は微笑んだ。
「……伊藤くん。ひと知らずして憤らずの心境がやっと…わかったよ」
「先生! せ…先生!」
 やがて松陰は処刑の穴の前で、正座させられ、首を傾けさせられた。斬首になるのだ。鋭い光を放つ刀が天に構えられる。「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」「ごめん!」閃光が走った……
  かれの処刑をきいた久坂玄瑞や高杉晋作は怒りにふるえたという。
「軟弱な幕府と、長州の保守派を一掃せねば、維新はならぬ!」
 玄瑞は師の意志を継ぐことを決め、決起した。
  文久二(一八六二)年十二月、久坂玄瑞は兵を率いて異人の屋敷に火をかけた。紅蓮の炎が夜空をこがすほどだったという。玄瑞は医者の出身で、武士ではなかった。
 しかし、彼は”尊皇壤夷”で国をひとつにまとめる、というアイデアを提示し、朝廷工作までおこなった。それが公家や天子(天皇)に認められ、久坂玄瑞は上級武士に取り立てられた。彼の長年の夢だった「サムライ」になれたのである。
 京での炎を、勝海舟も龍馬も目撃したという。
 久坂玄瑞は奮起した。
  文久三(一八六三)年五月六日、長州藩は米英軍艦に砲弾をあびせかけた。米英は長州に反撃する。ここにきて幕府側だった薩摩藩は徳川慶喜(最後の将軍)にせまる。
 薩摩からの使者は西郷隆盛だった。
「このまんまでは、日本国全体が攻撃され、日本中火の海じやっどん。今は長州を幕府から追放すべきではごわさんか?」
 軟弱にして知能鮮しといわれた慶喜は、西郷のいいなりになって、長州を幕府幹部から追放してしまう。久坂玄瑞には屈辱だったであろう。
 かれは納得がいかず、長州の二千の兵をひきいて京にむかった。
 幕府と薩摩は、御所に二万の兵を配備した。
  元治元年(一八六四)七月十七日、石清水八幡宮で、長州軍は軍儀をひらいた。
 軍の強攻派は「入廷を認められなければ御所を攻撃すべし!」と血気盛んにいった。
 久坂は首を横に振り、「それでは朝敵となる」といった。
 怒った強攻派たちは「卑怯者! 医者に何がわかる?!」とわめきだした。
 久坂玄瑞は沈黙した。
 頭がひどく痛くなってきた。しかし、久坂は必死に堪えた。
  七月十九日未明、「追放撤回」をもとめて、長州軍は兵をすすめた。いわゆる「禁門の変」である。長州軍は蛤御門を突破した。長州軍優位……しかし、薩摩軍や近藤たちの新選組がかけつけると形勢が逆転する。
「長州の不貞なやからを斬り殺せ!」近藤勇は激を飛ばした。
 久坂玄瑞は形勢不利とみるや顔見知りの公家の屋敷に逃げ込み、
「どうか天子さまにあわせて下され。一緒に御所に連れていってくだされ」と嘆願した。 しかし、幕府を恐れて公家は無視をきめこんだ。
 久坂玄瑞、一世一代の危機である。彼はこの危機を突破できると信じた。祈ったといってもいい。だが、もうおわりだった。敵に屋敷の回りをかこまれ、火をつけられた。
 火をつけたのが新選組か薩摩軍かはわからない。
 元治元年(一八六四)七月十九日、久坂玄瑞は炎に包まれながら自決する。享年二十五 火は京中に広がった。そして、この事件で、幕府や朝廷に日本をかえる力はないことが日本人の誰もが知るところとなった。
  勝海舟の元に禁門の変(蛤御門の変)の情報が届くや、勝海舟は激昴した。会津藩や新選組が、変に乗じて調子にのりジエノサイド(大量殺戮)を繰り返しているという。
 勝海舟は有志たちの死を悼んだ。

 会津藩預かり新選組の近藤と土方は喜んだ。”禁門の変”から一週間後、朝廷から今の金額で一千万円の褒美をもらったのだ。それと感謝状。ふたりは小躍りしてよろこんだ。 銭はあればあっただけよい。
 これを期に、近藤は新選組のチームを再編成した。
 まず、局長は近藤勇、副長は土方歳三あとはバラバラだったが、一番隊から八番隊までつくり、それぞれ組頭をつくった。一番隊の組頭は、沖田総司である。
 軍中法度もつくった。前述した「組頭が死んだら部下も死ぬまで闘って自決せよ」という目茶苦茶な恐怖法である。近藤は、そのような”スターリン式恐怖政治”で新選組をまとめようした。ちなみにスターリンとは旧ソ連の元首相である。
  そんな中、事件がおこる。
 英軍がわずか一日で、長州藩の砲台を占拠したのだ。圧倒的勢力で、大阪まで黒船が迫った。なんともすざまじい勢力である。が、人数はわずか二十~三人ほど。
「このままではわが国は外国の植民地になる!」
 勝海舟は危機感をもった。
「じゃきに、先生。幕府に壤夷は無理ですろう?」龍馬はいった。
「そうだな……」勝海舟は溜め息をもらした。

「三千世界の烏を殺し、お主と一晩寝てみたい」
 高杉晋作は、文久三年に「奇兵隊」を長州の地で立ち上げていた。それは身分をとわず商人でも百姓でもとりたてて訓練し、近代的な軍隊としていた。高杉晋作軍は六〇人、百人……と増えいった。武器は新選組のような剣ではなく、より近代的な銃や大砲である。 朝市隊(商人)、遊撃隊(猟師)、力士隊(力士)、選鋭隊(大工)、神威隊(神主)など隊ができた。総勢二百人。そこで、高杉は久坂の死を知る。
 農民兵士たちに黒い制服や最新の鉄砲が渡される。
「よし! これで侍どもを倒すんだ!」
「幕府をぶっつぶそうぜ!」百姓・商人あがりの連中はいよいよ興奮した。
「幕府を倒せ!」高杉晋作は激怒した。「今こそ、長州男児の肝っ玉を見せん!」

 翌日、ひそかに勝海舟は長州藩士桂小五郎に会った。
 京都に残留していた桂だったが、藩命によって帰国の途中に勝に、心中をうちあけたのだ。
桂は「夷艦襲来の節、下関の対岸小倉へ夷艦の者どもは上陸いたし、あるいは小倉の繁船と夷艦がともづなを結び、長州へむけ数発砲いたせしゆえ、長州の人民、諸藩より下関へきておりまする志士ら数千が、海峡を渡り、違勅の罪を問いただせしことがございました。
 しかし、幕府においてはいかなる評議をなさっておるのですか」と勝海舟に尋ねた。
 のちの海舟、勝海舟は苦笑して、「今横浜には諸外国の艦隊が二十四隻はいる。搭載している大砲は二百余門だぜ。本気で鎖国壤夷ができるとでも思ってるのかい?」
 といった。
 桂は「なしがたきと存じておりまする」と動揺した。冷や汗が出てきた。
 勝海舟は不思議な顔をして「ならなぜ夷艦砲撃を続けるのだ?」ときいた。是非とも答えがききたかった。
「ただそれを口実に、国政を握ろうとする輩がいるのです」
「へん。おぬしらのような騒動ばかりおこす無鉄砲なやからは感心しないものだが、この日本という国を思ってのことだ。一応、理解は出来るがねぇ」
 数刻にわたり桂は勝海舟と話て、互いに腹中を吐露しての密談をし、帰っていった。

  十月三十日七つ(午後四時)、相模城ケ島沖に順動丸がさしかかると、朝陽丸にひかれた船、鯉魚門が波濤を蹴っていくのが見えた。
 勝海舟はそれを見てから「だれかバッティラを漕いでいって様子みてこい」と命じた。 坂本龍馬が水夫たちとバッティラを漕ぎ寄せていくと、鯉魚門の士官が大声で答えた。「蒸気釜がこわれてどうにもならないんだ! 浦賀でなおすつもりだが、重くてどうにも動かないんだ。助けてくれないか?!」
 順動丸は朝陽丸とともに鯉魚門をひき、夕方、ようやく浦賀港にはいった。長州奇兵隊に拿捕されていた朝陽丸は、長州藩主のと詫び状とともに幕府に返されていたという。      浦賀港にいくと、ある艦にのちの徳川慶喜、一橋慶喜が乗っていた。
 勝海舟が挨拶にいくと、慶喜は以外と明るい声で、「余は二十六日に江戸を出たんだが、海がやたらと荒れるから、順動丸と鯉魚門がくるのを待っていたんだ。このちいさな船だけでは沈没の危険もある。しかし、三艦でいけば、命だけは助かるだろう。
 長州の暴れ者どもが乗ってこないか冷や冷やした。おぬしの顔をみてほっとした。
 さっそく余を供にしていけ」といった。
 勝海舟は暗い顔をして「それはできません。拙者は上様ご上洛の支度に江戸へ帰る途中です。順動丸は頑丈に出来ており、少しばかりの暴風では沈みません。どうかおつかい下され」と呟くようにいった。
「余の供はせぬのか?」
「そうですねぇ。そういうことになり申す」
「余が海の藻屑となってもよいと申すのか?」
 勝海舟は苛立った。肝っ玉の小さい野郎だな。しかし、こんな肝っ玉の小さい野郎でも幕府には人材がこれしかいねぇんだから、しかたねぇやな。
「京都の様子はどうじゃ? 浪人どもが殺戮の限りを尽くしているときくが……余は狙われるかのう?」
「いいえ」勝海舟は首をふった。「最近では京の治安も回復しつつあります。新選組とかいう農民や浪人のよせあつめが不貞な浪人どもを殺しまくっていて、拙者も危うい目にはあいませんでしたし……」
「左様か? 新選組か。それは味方じゃな?」
「まぁ、そのようなものじゃねぇかと申しておきましょう」
 勝海舟は答えた。
 ……さぁ、これからが忙しくたちまわらなきゃならねぇぞ…


 勝海舟は御用部屋で、「いまこそ海軍興隆の機を失うべきではない!」と力説したが、閣老以下の冷たい反応に、わが意見が用いられることはねぇな、と知った。
  勝海舟は塾生らに幕臣の事情を漏らすことがあった。龍馬もそれをきいていた。
「俺が操練所へ人材を諸藩より集め、門地に拘泥することなく、一大共有の海局としようと言い出したのは、お前らも知ってのとおり、幕府旗本が腐りきっているからさ。俺はいま役高千俵もらっているが、もともとは四十一俵の後家人で、赤貧洗うがごとしという内情を骨身に滲み知っている。
  小旗本は、生きるために器用になんでもやったものさ。何千石も禄をとる旗本は、茶屋で勝手に遊興できねぇ。そんなことが聞こえりゃあすぐ罰を受ける。
 だから酒の相手に小旗本を呼ぶ。この連中に料理なんぞやらせりゃあ、向島の茶屋の板前ぐらい手際がいい。三味線もひけば踊りもやらかす。役者の声色もつかう。女っ気がなければ娘も連れてくる。
 古着をくれてやると、つぎはそれを着てくるので、また新しいのをやらなきゃならねぇ。小旗本の妻や娘にもこずかいをやらなきゃならねぇ。馬鹿げたものさ。
 五千石の旗本になると表に家来を立たせ、裏で丁半ばくちをやりだす。物騒なことに刀で主人を斬り殺す輩まででる始末だ。しかし、ことが公になると困るので、殺されたやつは病死ということになる。ばれたらお家断絶だからな」

  勝海舟は相撲好きである。
 島田虎之助に若き頃、剣を学び、免許皆伝している。島田の塾では一本とっただけでは勝ちとならない。組んで首を締め、気絶させなければ勝ちとはならない。
 勝海舟は小柄であったが、組んでみるとこまかく動き、なかなか強かったという。
 龍馬は勝海舟より八寸(二十四センチ)も背が高く、がっちりした体格をしているので、ふたりが組むと、鶴に隼がとりついたような格好になったともいう。龍馬は手加減したが、勝負は五分五分であった。
 龍馬は感心して「先生は牛若丸ですのう。ちいそうて剣術使いで、飛び回るきに」
 勝海舟には剣客十五人のボディガードがつく予定であった。越前藩主松平春嶽からの指示だった。
 しかし、勝海舟は固辞して受け入れなかった。
  慶喜は、勝海舟が大坂にいて、春嶽らと連絡を保ち、新しい体制をつくりだすのに尽力するのを警戒していたという。
 外国領事との交渉は、本来なら、外国奉行が出張して、長崎奉行と折衝して交渉するのがしきたりであった。しかし、勝海舟はオランダ語の会話がネイティヴも感心するほど上手であった。外国軍艦の艦長とも親しい。とりわけ勝海舟が長崎にいくまでもなかった。 慶喜は「長崎に行き、神戸操練習所入用金のうちより書籍ほかの必要品をかいとってまいれ」と勝海舟に命じた。どれも急ぎで長崎にいく用件ではない。
 しかし、慶喜の真意がわかっていても、勝海舟は命令を拒むわけにはいかない。
 勝海舟は出発するまえ松平春巌と会い、参与会議には必ず将軍家茂の臨席を仰ぐように、念をおして頼んだという。
 勝海舟は二月四日、龍馬ら海軍塾生数人をともない、兵庫沖から翔鶴丸で出航した。
 海上の波はおだやかであった。海軍塾に入る生徒は日をおうごとに増えていった。
 下関が、長州の砲弾を受けて事実上の閉鎖状態となり、このため英軍、蘭軍、仏軍、米軍の大艦隊が横浜から下関に向かい、攻撃する日が近付いていた。
 勝海舟は龍馬たちに珍しい話をいろいろ教えてやった。
「公方様のお手許金で、ご自分で自由に使える金はいかほどか、わかるけい?」
 龍馬は首をひねり「さぁ、どれほどですろうか。じゃきに、公方様ほどのひとだから何万両くらいですろう?」
「そんなことはねぇ。まず月に百両ぐらいさ。案外少なかろう?」
「わしらにゃ百両は大金じゃけんど、天下の将軍がそんなもんですか」
 勝海舟一行は、佐賀関から陸路をとった。ふつうは駕籠にのる筈だが、勝海舟は空の駕籠を先にいかせ後から歩いた。暗殺の用心のためである。
 勝海舟は、龍馬に内心をうちあけた。
「日本はどうしても国が小さいから、人の器量も大きくなれねぇのさ。どこの藩でも家柄が決まっていて、功をたてて大いに出世をするということは、絶えてなかった。それが習慣になっているから、たまに出世をする者がでてくると、たいそう嫉妬をするんだ。
 だから俺は功をたてて大いに出世したときも、誰がやったかわからないようにして、褒められてもすっとぼけてたさ。幕臣は腐りきってるからな。
 いま、お前たちとこうして歩いているのは、用心のためさ。九州は壤夷派がうようよしていて、俺の首を欲しがっているやつまでいる。なにが壤夷だってんでぃ。
 結局、尊皇壤夷派っていうのは過去にしがみつく腐りきった幕府と同じだ。
 誰ひとり学をもっちゃいねぇ。
 いいか、学問の目指すところはな。字句の解釈ではなく、経世済民にあるんだ。国をおさめ、人民の生活を豊かにさせることをめざす人材をつくらなきゃならねぇんだ。
 有能な人材ってえのは心が清い者でなければならねぇ。貪欲な人物では駄目なんだ」


  三月六日、勝海舟は龍馬を連れて、長崎港に入港し、イギリス海軍の演習を見た。
「まったくたいしたもんだぜ。英軍の水兵たちは指示に正確にしたがい、列も乱れない」 その日、オランダ軍艦が入港して、勝海舟と下関攻撃について交渉した。
 その後、勝海舟は龍馬たちにもらした。
「きょうはオランダ艦長にきつい皮肉をいわれたぜ」
「どがなこと、いうたがですか?」龍馬は興味深々だ。
「アジアの中で日本が褒められるのは国人どおしが争わねぇことだとさ。こっちは長州藩征伐のために動いてんのにさ。他の国は国人どおしが争って駄目になってる。
 確かに、今までは戦国時代からは日本人どおしは戦わなかったがね、今は違うんだ。まったく冷や水たらたらだったよ」
 勝海舟は、四月四日に長崎を出向した。船着場には愛人のお久が見送りにきていた。お久はまもなく病死しているので、最後の別れだった。お久はそのとき勝海舟の子を身籠もっていた。のちの梶梅太郎である。
 四月六日、熊本に到着すると、細川藩の家老たちが訪ねてきた。
 勝海舟は長崎での外国軍との交渉の内容を話した。
「外国人は海外の情勢、道理にあきらかなので、交渉の際こちらから虚言を用いず直言して飾るところなければ、談判はなんの妨げもなく進めることができます。
 しかし、幕府役人をはじめわが国の人たちは、皆虚飾が多く、大儀に暗うございます。それゆえ、外国人どもは信用せず、天下の形成はなかなかあらたまりません」
 四月十八日、勝海舟は家茂の御前へ呼び出された。
 家茂は、勝海舟が長崎で交渉した内容や外国の事情について尋ねてきた。勝海舟はこの若い将軍を敬愛していたので、何もかも話した。大地球儀を示しつつ、説明した。
「いま外国では、ライフル砲という強力な武器があり、アメリカの南北戦争でも使われているそうにござりまする。またヨーロッパでも強力な兵器が発明されたようにござりまする」
「そのライフル砲とやらはどれほど飛ぶのか?」
「およそ五、六十町はらくらくと飛びまする」
「こちらの大砲はどれくらいじゃ?」
「およそ八、九町にござりまする」
「それでは戦はできぬな。戦力が違いすぎる」
 家茂は頷いてから続けた。「そのほうは海軍興起のために力を尽くせ。余はそのほうの望みにあわせて、力添えしてつかわそう」
        四月二十日、勝海舟は龍馬や沢村らをひきつれて、佐久間象山を訪ねた。象山は勝海舟の妹順子の夫である。彼は幕府の中にいた。そして、知識人として知られていた。
 龍馬は、勝海舟が長崎で十八両を払って買い求めた六連発式拳銃と弾丸九十発を、風呂敷に包んで提げていた。勝海舟からの贈物である。
「これはありがたい。この年になると狼藉者を追っ払うのに剣ではだめだ。ピストールがあれば追っ払える」象山は礼を述べた。
「てやんでい。あんたは俺より年上だが、妹婿で、義弟だ。遠慮はいらねぇよ」
 勝海舟は「西洋と東洋のいいところを知ってるけい?」と問うた。
 象山は首をひねり、「さぁ?」といった。すると勝海舟が笑って「西洋は技術、東洋は道徳だぜ」といった。
「なるほど! それはそうだ。さっそく使わせてもらおう」
 ふたりは議論していった。日本の中で一番の知識人ふたりの議論である。ときおりオランダ語やフランス語が混じる。龍馬たちは唖然ときいていた。
「おっと、坂本君、皆にシヤンパンを…」象山ははっとしていった。
 龍馬は「佐久間先生、牢獄はどうでしたか?」と問うた。象山は牢屋に入れられた経験がある。象山は渋い顔をして「そりゃあひどかったよ」といった。




  新選組の血の粛清は続いた。
 必死に土佐藩士八人も戦った。たちまち、新選組側は、伊藤浪之助がコブシを斬られ、刀をおとした。が、ほどなく援軍がかけつけ、新選組は、いずれも先を争いながら踏み込み踏み込んで闘った。土佐藩士の藤崎吉五郎が原田左之助に斬られて即死、宮川助五郎は全身に傷を負って手負いのまま逃げたが、気絶し捕縛された。他はとびおりて逃げ去った。 土方は別の反幕勢力の潜む屋敷にきた。
「ご用改めである!」歳三はいった。ほどなくバタバタと音がきこえ、屋敷の番頭がやってきた。「どちらさまで?」
「新選組の土方である。中を調べたい!」
 泣く子も黙る新選組の土方歳三の名をきき、番頭は、ひい~っ、と悲鳴をあげた。
 殺戮集団・新選組……敵は薩摩、長州らの倒幕派の連中だった。

「外国を蹴散らし、幕府を倒せ!」
 尊皇壤夷派は血気盛んだった。安政の大獄(一八五七年、倒幕勢力の大虐殺)、井伊大老暗殺(一八六〇年)、土佐勤王党結成(一八六一年)………

 壤夷派は次々とテロ事件を起こした。
  元治元年(一八六四)六月、新選組は”長州のクーデター”の情報をキャッチした。   六月五日早朝、商人・古高俊太郎の屋敷を捜査した。
「トシサン、きいたか?」
 近藤はきいた。土方は「あぁ、長州の連中が京に火をつけるって話だろ?」
「いや……それだけじゃない!」近藤は強くいった。
「というと?」
「商人の古高を壬生に連行し、拷問したところ……長州の連中は御所に火をつけてそのすきに天子さま(天皇のこと)を長州に連れ去る計画だと吐いた」
「なにっ?!」土方はわめいた。「なんというおそるべきことをしようとするか、長州者め! で、どうする? 近藤さん」
「江戸の幕府に書状を出した」
 近藤はそういうと、深い溜め息をもらした。
 土方は「で? なんといってきたんだ?」と問うた。
「何も…」近藤は激しい怒りの顔をした。「幕臣に男児なし! このままではいかん!」 歳三も呼応した。「そうだ! その通りだ、近藤さん!」
「長州浪人の謀略を止めなければ、幕府が危ない」
 近藤がいうと、歳三は「天子さまをとられれば幕府は賊軍となる」と語った。
 とにかく、近藤勇たちは決断した。

  池田屋への斬り込みは元治元年(一八六四)六月五日午後七時頃だったという。このとき新選組は二隊に別れた。局長近藤勇が一隊わずか五、六人をつれて池田屋に向かい、副長土方が二十数名をつれて料亭「丹虎」にむかったという。
 最後の情報では丹虎に倒幕派の連中が集合しているというものだった。新選組はさっそく捜査を開始した。そんな中、池田屋の側で張り込んでいた山崎蒸が、料亭に密かにはいる長州の桂小五郎を発見した。山崎蒸は入隊後、わずか数か月で副長勤格(中隊長格)に抜擢され、観察、偵察の仕事をまかされていた。新選組では異例の出世である。
 池田屋料亭には長州浪人が何人もいた。
 桂小五郎は「私は反対だ。京や御所に火をかければ大勢が焼け死ぬ。天子さまを奪取するなど無理だ」と首謀者に反対した。行灯の明りで部屋はオレンジ色になっていた。
 ほどなく、近藤勇たちが池田屋にきた。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」近藤は囁くように命令した。
 あとは近藤と沖田、永倉、藤堂の四人だけである。
 いずれも新選組きっての剣客である。浅黄地にだんだら染めの山形模様の新選組そろいの羽織りである。
「新選組だ! ご用改めである!」
 近藤たちは門をあけ、中に躍り込んだ。…ひい~っ! 新選組だ! いきなり階段をあがり、刀を抜いた。二尺三寸五分虎徹である。沖田、永倉がそれに続いた。
「桂はん…新選組です」幾松が彼につげた。桂小五郎は「すまぬ」といい遁走した。
(幾松は維新のとき桂の命を何度もたすけ、のちに結婚した。桂小五郎が木戸考允と名をかえた維新後、木戸松子と名乗り、維新三傑のひとりの妻となるのである)
 近藤は廊下から出てきた土佐脱藩浪人北添を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、浪人たちが総立ちになった。
「落ち着け!」そういったのは長州の吉田であった。刀を抜き、藤堂の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて藤堂の頭を斬りつけた。藤堂平助はころがった。が、生きていた。兜の鉢金をかぶっていたからだという。昏倒した。乱闘になった。
 近藤たちはわずか四人、浪人は二十数名いる。
「手むかうと斬る!」
 近藤は叫んだ。しかし、浪人たちはなおも抵抗した。事実上の戦力は、二階が近藤と永倉、一階が沖田総司ただひとりであった。屋内での乱闘は二時間にもおよんだ。
 沖田はひとりで闘い続けた。沖田の突きといえば、新選組でもよけることができないといわれたもので、敵を何人も突き殺した。
 沖田は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、沖田はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、沖田は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、沖田は無想で刀を振り回した。沖田はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 新選組は近藤と永倉だけになった。しかし、土方たちが駆けつけると、浪人たちは遁走(逃走)しだした。こうして、新選組は池田屋で勝った。
 沖田は病気(結核)のことを隠し、「あれは返り血ですよ」とごまかしたという。
 早朝、池田屋から新選組はパレードを行った。
 赤い「誠」の旗頭を先頭に、京の目抜き通りを行進した。こうして、新選組の名は殺戮集団として日本中に広まったのである。江戸でもその話題でもちきりで、幕府は新選組の力を知って、さらに増やすように資金まで送ってきたという。

「坂本はん、新選組知ってますぅ?」料亭で、芸子がきいた。龍馬は「あぁ…まぁ、知ってることはしっちゅぅ」といった。彼は泥酔して、寝転がっていた。
「池田屋に斬りこんで大勢殺しはったんやて」とは妻のおりょう。
「まあ」龍馬は笑った。「やつらは幕府の犬じゃきに」
「すごい人殺しですわねぇ?」
「今はうちわで争うとる場合じゃなかきに。わしは今、薩摩と長州を連合させることを考えちゅう。この薩長連合で、幕府を倒す! これが壤夷じゃきに」
「まぁ! あなたはすごいこと考えてるんやねぇ」おりょうは感心した。
 すると龍馬は「あぁ! いずれあいつはすごきことしよった……っていわれるんじゃ」と子供のように笑った。

  十二日の夕方、勝海舟の元へ予期しなかった悲報がとどいた。前日の八つ(午後二時)、佐久間象山が三条通木屋町で刺客の凶刀に倒れたという。
「俺が長崎でやった拳銃も役には立たなかったか」
 勝海舟は暗くいった。ひどく疲れて、目の前が暗く、頭痛がした。
 象山はピストルをくれたことに礼を述べ、広い屋敷に移れたことを喜んでいた。しかし、象山が壤夷派に狙われていることは、諸藩の有志者が知っていたという。







伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載9

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         6 幕臣遁走






  幕府側陸海軍の有志たちの官軍に対する反抗は、いよいよもって高まり、江戸から脱走をはじめた。もう江戸では何もすることがなくなったので、奥州(東北)へ向かうものが続出した。会津藩と連携するのが大半だった。
 その人々は、大鳥圭介、秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人にも達したという。
 大鳥圭介は陸軍歩兵奉行をつとめたほどの高名な人物である。
 幕府海軍が官軍へ引き渡す軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。
 これらの軍艦は、横浜から、薩摩、肥後、久留米三藩に渡されるはずだった。が、榎本武揚らは軍艦を官軍に渡すつもりもなく、いよいよ逃亡した。

  案の定、近藤たちが道草を食ってる間に、官軍が甲府城を占拠してしまった。錦の御旗がかかげられる。新選組は農民兵をふくめて二百人、官軍は二千人……
 近藤たちは狼狽しながらも、急ごしらえで陣をつくり援軍をまった。歳三は援軍を要請するため江戸へ戻っていった。近藤は薪を大量にたき、大軍にみせかけたという。
 新選組は百二十人まで減っていた。しかも、農民兵は銃の使い方も大砲の撃ち方も知らない。官軍は新選組たちの七倍の兵力で攻撃してきた。
 わあぁぁ~っ! ひいいぃ~っ!
 新選組たちはわずか一時間で敗走しだす。近藤はなんとか逃げて生き延びた。歳三は援軍を要請するため奔走していた。一対一の剣での戦いでは新選組は無敵だった。が、薩長の新兵器や銃、大砲の前では剣は無力に等しかった。
 三月二十七日、永倉新八たちは江戸から会津(福島県)へといっていた。近藤は激怒し、「拙者はそのようなことには加盟できぬ」といったという。
 近藤はさらに「俺の家来にならぬか?」と、永倉新八にもちかけた。
 すると、永倉は激怒し、「それでも局長か?!」といい去った。
近藤勇はひとり取り残されていった。

  近藤勇と勝は会談した。勝の屋敷だった。
 近藤は「薩長軍を江戸に入れぬほうがよい!」と主張した。
 それに対して勝はついに激昴して、「もう一度戦いたいなら自分たちだけでやれ!」
 と怒鳴った。
 その言葉通り、新選組+農民兵五五〇人は千住に布陣、さらに千葉の流山に移動し布陣した。近藤たちはやぶれかぶれな気持ちになっていた。
 流山に官軍の大軍勢がおしよせる。
「新選組は官軍に投降せよ!」官軍は息巻いた。もはや数も武器も官軍の優位である。剣で戦わなければ新選組など恐るるに足りぬ。
 近藤の側近は二~三人だけになった。
「切腹する!」
 近藤は陣で切腹して果てようとした。しかし、土方歳三がとめた。「近藤さん! あんたに死なれたんじゃ新選組はおわりなんだよ!」
「よし……俺が大久保大和という偽名で投降し、時間をかせぐ。そのすきにトシサンたちは逃げろ!」
 近藤は目をうるませながらいった。……永久の別れになる……彼はそう感じた。
「新選組は幕府軍ではない。治安部隊だという。安心してくれ」
 歳三はいった。
 こうして近藤勇は、大久保大和という偽名で官軍に投降した。官軍は誰も近藤や土方の顔など知らない。まだマスコミもテレビもなかった時代である。
 近藤の時間かせぎによって、新選組はバラバラになったが、逃げ延びることができた。「近藤さん、必ず助けてやる!」
 土方歳三は下唇を噛みながら、駆け続けた。

  四月十七日、近藤への尋問がはじまった。
 近藤は終始「新選組は治安部隊で幕府軍ではありませぬ」「わしの名は大久保大和」とシラをきりとおした。
「やめろよ、おい!」
 こらえきれなくなって、官軍屋敷の奥で見ていた男がくってかかった。
「お前は新選組局長、近藤勇だろ!」
「ほざけ!」
「近藤! 俺の顔を忘れたか?!」
 男は慇懃にいった。そう、その男こそ新選組元隊士・篠原泰之進だった。
「た……泰之進」
 近藤は凍りついた。何かの間違いではないだろうか? なぜ篠原泰之進が官軍に…?
「近藤! なぜ俺が官軍にいるのか? と思ったろう?」
 彼の勘はさえていた。「俺は勝ってる方になびくんだ。風見鶏といわれようと、俗物とよばれようともかまわんさ! 近藤! お前はおわりだ!」
 近藤勇は口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石のようになると同時に、全身の血管が氷になっていくのを感じた。 やつがいったようにすべておわりだ。何も考えることができなかった。
 近藤は頭のなかのうつろな笑い声が雷のように響き渡るのを聞いた。
「死罪だ! 切腹じゃない! 首斬りだ!」
 篠原泰之進は大声で罵声を、縄でしばられている近藤勇に浴びせかけた。これで復讐できた。新選組の中ではよくも冷遇してくれたな! ザマアミロだ!
 近藤は四月二十五日に首を斬られて死んだ。享年三十五だった。最後まで武士のように切腹もゆるされなかったという。近藤は遺書をかいていた。
 ……”孤軍頼け絶えて囚人となる。顧みて君恩を思えば涙更に流れる。義をとり生を捨てるは吾が尊ぶ所。快く受けん電光三尺の剣。兄将に一死、君恩に報いん”
 近藤勇の首は江戸と京でさらされた。

 官軍の措置いかんでは蝦夷(北海道)に共和国をひらくつもりである。…麟太郎は榎本の内心を知っていた。
 麟太郎は四月も終りのころ危うく命を落とすところだった。
 麟太郎は『氷川清話』に次のように記す。
「慶応四年四月の末に、もはや日の暮れではあるし、官軍はそのときすでに江戸城へはいっておった頃だから、人通りもあまりない時に、おれが半蔵門外を馬にのって静かに過ぎておったところが、たちまちうしろから官兵三、四人が小銃をもっておれを狙撃した。
 しかし、幸い体にはあたらないで、頭の上を通り過ぎたけれども、その響きに馬が驚いて、後ろ足でたちあがったものだから、おれはたまらずあおむけざまに落馬して、路上の石に後脳を強く打たれたので一時気絶した。
 けれどもしばらくすると自然に生き返って、あたりを見回したら誰も人はおらず、馬は平気で路ばたの草を食っていた。
 官兵はおれが落馬して、それなりに気絶したのを見て、銃丸があたったものとこころえて立ち去ったのであろう。いやあの時は実に危ないことであったよ」
 大鳥圭介を主将とする旧幕府軍は宇都宮へむかった。
                         
 四月十六日の朝、大山(栃木県)に向かおうといると銃砲の音がなり響いた。
 官軍との戦闘になった。
 秋月登之助の率いる伝習第一大隊、本田幸七郎の伝習第二大隊加藤平内の御領兵、米田桂次郎の七連隊、相馬左金吾の回天隊、天野加賀守、工藤衛守の別伝習、松平兵庫頭の貫義隊、村上救馬の艸風隊、渡辺綱之介の純義隊、山中幸治の誠忠隊など、およそ二千五、六百人は官軍と激突。そのうち二隊は小山を占領している官軍に攻撃を加えた。
 脱走兵(旧幕府軍)は小山の官軍に包囲攻撃をしかけた。たまらず小山の官軍は遁走した。脱走兵(旧幕府軍)そののち東北を転々と移動(遁走)しだす。
 彼等は桑名藩、会津藩と連携した。
 江戸では、脱走兵が絶え間なかった。
 海軍副総裁榎本武揚は、強力な艦隊を率いて品川沖で睨みをきかせている。かれは麟太郎との会合で暴言を吐き、「徳川家、幕府、の問題が解決しなければ強力な火力が官軍をこまらせることになる」といった。麟太郎は頭を抱えた。
 いつまでも内乱状態が続けば、商工業が衰えて、国力が落ちる。植民地にされかねない。「あの榎本武揚って野郎はこまった輩だ」麟太郎は呟いた。
 榎本武揚は外国に留学して語学も達者で、外国事情にもくわしい筈だ。しかし、いまだに過去にしがみついている。まだ幕府だ、徳川だ、といっている。
 麟太郎には榎本の気持ちがしれなかった。
  江戸の人心はいっこうに落ち着かない。脱走兵は、関東、東北でさかんに官軍と戦闘を続けている。
 西郷吉之助(隆盛)は非常に心配した。
「こげん人心が動揺いたすは徳川氏処分の方針が定まらんためでごわす。朝廷ではこの際すみやかに徳川慶喜の相続人をお定めなされ、あらためてその領地、封録をうけたまわるなら人心も落ち着くでごあんそ」

  麟太郎が繰り返し大総督府へ差し出した書状は、自分のような者ではとても江戸の混乱を静めることができない、水戸に隠居している徳川慶喜を江戸に召喚し、人心を安定させることが肝要である……ということである。
 官軍は江戸城に入り、金品を物色しはじめ狼藉を働いた。蔵に金がひとつも残ってない。本当に奉行小栗上野介がどこかへ隠したのか? だが、小栗は官軍に処刑され、実態はわからない。例の徳川埋蔵金伝説はここから生まれている。
 江戸には盗賊や暴力、掠奪、殺人が横行し、混乱の最中にあった。
 麟太郎は西郷に書を出す。
「一 今、苗を植えるべきときに、東三十余国の農民たちは、官軍、諸藩の人夫に駆りだされ苦しんでおり、このままでは今年の秋の収穫がない。来年はどうして生きていくのか。民は国の基本である。
 二 すでに大総督府へ献言しているのに、返答がない。
 三 王政維新について、わが徳川氏の領国を用途に当てられるということである。徳川氏の領土は狭小で、たとえ残らず召し上げられても、わずか四百万石に過ぎない。三百六十万俵前後の実収を、いままったく召しあげられても、大政に従事する諸官の棒給にも足りぬであろう。いわんや海陸の武備は、とてもできないであろう。
 まだ、その名分は正しいとはいえない。もし領国のなかばを減ぜられたとしても、罪のない家臣、その家族をどのようにして養うのか。人の怨みはどこにおちつくだろう。
 今寛典のご処置で、寡君(慶喜)ご宥免のうえ、領国をそのまま下されても、幾何かを朝廷に進献するのは当然である。そうすれば、寡君の誠心により出たものとして、国内の候伯はこれをみて黙止しているだろうか。かならず幾何かの領地を進献するだろう。 そうなれば、大政の御用途、海内の諸事の費用にあてるに充分であろう。そのようにすれば何事もうまく運ぶだろう。
 四 一家に不和を生じたときは、一家は滅亡する。一国不和を生じたときは、その国は滅亡する。国の内外の人心を離散させれば、どうなるのか。
 五 外国のひとたちは朝廷のご処置如何をもって、目を拭い、耳をそばたてて見聞きしている。もしご不当のこがあれば、噂は瞬間に、海外に聞こえるだろう(後訳)」
 官軍が天下をとったことで、侍たちの禄支給が延期されていた。麟太郎は、不測の事態を危惧していた。

                
  彰義隊と官軍は上野で睨み合っていた。
 彰義隊とは、はじめ一橋家の家中有志たちが主君慶喜のために、わずか十七名のて血判状によりできたもので、江戸陥落の今となってやぶれかぶれの連中が大勢集まってきたという。彰義隊は上野に陣をひき、官軍と対峙していた。
 上野には法親王宮がいるので、官軍はなかなか強硬な手段がとれない。
 すべては彰義隊の戦略だった。
 江戸はますます物騒になり、夜は戸締まりをしっかりしないといつ殺されてもおかしくないところまで治安は悪化していた。
 彰義隊にあつまる幕臣、諸藩士は増えるばかりであった。
 二十二歳の輪王寺宮公現法親王は、旧幕府軍たちに従うだけである。
 彰義隊がふえるにしたがい、市内で官軍にあうと挑発して乱闘におよぶ者も増えたという。西郷は、”彰義隊を解散させなければならぬ”と思っていた。
 一方、勝海舟(麟太郎)も、彰義隊の無謀な行動により、せっかくの徳川幕府の共順姿勢が「絵にかいた餅」に帰しはしないか、と危惧していた。
「これまでの俺の努力が無駄になっちまうじゃねぇか!」麟太郎は激昴した。
 榎本武揚は品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうとともに、彰義隊に武器や食料を輸送していた。
 江戸での大総督府有栖川宮は名だけの者で、なんの統治能力もなかった。
 さらに彰義隊は無謀な戦をおこそうとしていた。
 彰義隊は江戸を占拠し、官軍たちを殺戮していく。よって官軍は危なくて江戸にいられなくなった。安全なところは東海道に沿う狭い地域と日本橋に限られていた。
 江戸市中の取り締まりを行うのも旧幕府だった。
 江戸では、彰義隊を動かしているのが麟太郎で、榎本武揚が品川沖に艦隊を停泊させ、負傷者をかくまうという行動も麟太郎が命令しているという噂が高まった。もちろんそんなものはデマである。
 麟太郎は、彰義隊討伐が実行されないように懸命に努力を続けていた。
 しかし、それは阻止できそうもなかった。

  ある日、薩兵たちが上野で旧幕臣たちと斬りあう事件がおきた。
 薩兵の中に剣に秀でた者がいて、たちまち旧幕臣兵たちふたりが斬られた。そしてたちまちまた六人を殺した。
 彰義隊は本隊五百人、付属諸隊千五百人、総勢二千を越える人数となり、上野東叡山寛永寺のほかに、根岸、四谷に駐屯していた。
 彰義隊は江戸で官軍を殺しまくった。そのため長州藩大村益次郎が、太政官軍務官判事兼東京府判事として、江戸駐屯の官軍の指揮をとり、彰義隊討伐にとりかかることになった。
 西郷隆盛はいう。
「彰義隊といい、何隊というてん、烏合の衆であい申す。隊長はあれどもなきがごとく、規律は立たず、兵隊は神経(狂人)のごたる。紛々擾々たるのみじゃ。ゆえ条理をもって説論できなんだ」
 麟太郎は日記に記す。
「九日 彰義隊東台に多数集まり、戦争の企てあり。官軍、これを討たんとす」
 大総督府には西郷以下の平和裡に彰義隊を解散させよう、という穏健派がいたという。 かれらは麟太郎や山岡鉄太郎らと親交があり、越後、東北に広がろうとしていた戦火をおさえようと努力していた。
 彰義隊などの旧幕府軍を武力をもって駆逐しようという過激派もいた。長州藩大村益次郎らである。
  官軍が上野の彰義隊らを攻撃したのは、五月十五日であった。連日降り続く雨で、道はむかるんでいた。彰義隊は大砲をかまえ、応戦した。官軍にはアームストロング砲がある。大砲の命中はさほど正確ではなかったが、アームストロング砲は爆発音が凄い。
 上野に立て籠もる諸隊を動揺させるのに十分な兵器だった。
 やがて砲弾が彰義隊たちを追い詰めていく。西郷も戦の指揮に加わった。
 午前七時からはじまった戦いは、午後五時に終わった。

  彰義隊討伐の作戦立案者は、大村益次郎であった。計画ができあがると、大村は大総督府で西郷吉之助(隆盛)に攻撃部署を指示した。
 西郷は書類をみてからしばらくして、
「薩摩兵をみなごろしにされるおつもりでごわすか?」ときいた。
 大村は扇子をあけたり閉じたりしてから、天井を見上げ、しばらく黙ってから、
「さようであります」と答えたという。
 麟太郎は『氷川清話』に記す。
「大村益次郎などという男がおれを憎んで、兵隊なんかさしむけてひどくいじめるので、あまりばかばかしいから家へひっこんで、それなりに打ったゃっておいた。
 すると大久保利道がきて、ぜひぜひねんごろにと頼むものだから、それではとて、おれもいよいよ本気で肩入れするようになったのだ。
 なにしろ江戸市民百五十万という多数の人民が食うだけの仕事というものは容易に達せられない。そこでおれはその事情をくわしく話したら、さすがに大久保だ。それでは断然遷都の事に決しようと、こういった。すなわちこれが東京今日の繁昌の本だ」


       廃藩置県と新政府




        
  薩摩隼人、川口雪篷は西郷家を守っていた。
 西郷吉之助(隆盛)に留守役をまかされたのだ。只でさえ、西郷は薩摩の代表として忙しい。幕府はつぶしたが、残党が奥州(東北)、蝦夷(北海道)までいって暴れる始末の悪さ。彰義隊にも手をやいた。
 西郷は、勝海舟との間で『江戸無血開城』をなしとげたあとも激務におわれた。      
 それは大久保も同じだった。大久保はこの頃より、一蔵、から利通と名乗り出す。


  勝海舟は旧幕臣たちの説得につとめていた。
  幕臣たちは何をおもってか、奥州や蝦夷にいきたがる。会津(福島県)でもひともんちゃくあったという。「俺が新政府と戦っても無駄だっていってもきかねぇんだ。馬鹿なやつらだよ。薩長は天子さまを掲げてんだ。武器や兵力、軍艦にしても勝てねえってことぐらい馬鹿でもわかりそうなのに………まったく救いようがねぇ連中だ」
 山岡鉄太郎は「勝先生がすすんで”裏切り者”役をかってでていただいたおかげで、江戸は火の海にならないですんだんです。先生がいなければこの国はどうなっていたか…」「てやんでい。俺に感謝せず、このかたに感謝しろ」
 いままで黙ってきいていた西郷吉之助が巨眼を見開いた。                       
「じゃっどん。幕府にしても慶喜公の隠居にしても……勝先生がいたからでごわそ?」
 勝麟太郎(海舟)は笑って、
「西郷先生、あとはあんたらの出番だ。幕府は腐りきって滅んだが、新政府はそういう風にならねぇことを願うねぇ。あとはあんたらがこの日本の舵取りをしていくんだ」
「……舵取り?」
「そうさな。政もそうだが、まず経済だな。どんな国でも経済がいい国は豊かな国だぜ。それと諸藩から広く人材を集めるこった。それでなきゃならねぇと俺は思うんだ。
 西郷先生はどうでい?」
「おいどんも賛成でごわす。国というのは経済が潤ってこそ政もうまくいくのでごわす。国の基礎は経済でごわそ」
 勝はにやりとして「そういうことでい! 西郷先生、あんたわかってるじゃないか!」 ふたりはがっちりと握手をかわした。
 維新二大英雄の握手である。
「日本国を頼むぜ、西郷先生!」
 勝海舟は強くいった。
「わかりもうした」吉之助も笑顔をつくった。……これからはおいたちの出番でもそ。
「わかりもうした! わかりもうした!」   
 吉之助は念仏のように何度もいい、頷いた。


 幕府は崩れ、新選組の局長・近藤勇は官軍にとらえられ処刑された。幕臣・榎本武揚は、新選組副長・土方歳三とともに蝦夷にいき、臨時政府をつくるも敗退。土方は戦死し、榎本は捕らえられた。       
 そして、明治元年九月二十日、会津鶴ケ城が落城し、ここに戊辰戦争は終結した。
  
 西郷隆盛は「維新後」、二千石の賞典禄を与えられた。
 大久保利通(一蔵)と、木戸孝允(桂小五郎)は千八百石。後藤象二郎、小松帯刀、岩倉具視が千石で、西郷隆盛は正三位に叙されたという。
 薩摩の殿様島津が従三位……家臣が殿より偉くなった訳である。
 西郷は終戦となるや薩摩兵をひきいて鹿児島へもどった。維新後の勢力は当然ながら薩摩と長州藩主体だった、が、土佐、肥後といった藩も新政府に参加していた。
 しかし、諸藩の反発もすごくて「薩長だけで維新がなったと思ってるのか?!」という不満も渦巻いていた。
 吉之助(隆盛)は鹿児島湾から海を眺め、
「おいの役目はおわりもうした。あとは百姓にでもなりもんそ」と呟いた。
 新政権ではドタバタ劇が繰り広げられ、吉之助の弟子の横井楠山が、自決するまでにいたった。西郷吉之助は、
「みな、おのれのことばかり考えちょる。こげんでは新しい世とはなりもうさん。駄目じゃ。いかんど」
 と、頭を抱えてしまった。
 吉之助はいう。
「万人の上に位する者は己をつつしみ、品性を正しくし、おごりをいましめ、節倹をつとめ、職務に勤労して人民の標準となり、下民、その勤労を気の毒に思うようならでは、政令はおこなわれがたし」
 西郷隆盛は『召還』に夢中になるようになる。
 つまり、特使として朝鮮にいかせてくれ、ということである。
 吉之助は弟の西郷従道(慎吾)と話しをした。従道は立派なすらりとした男に成長して陸軍に勤務していた。
 従道は吉之助に「なにごて兄さんは朝鮮にこだわっとでごわすか?」と問うた。
「なにごてて?」            
「兄さんは朝鮮攻っとですか?」
 吉之助は珍しく顔をしかめ「そげんこつでなか!」と強くいった。
「じゃっどんなにごて朝鮮にこだわるでごわす?」
「朝鮮を攻めるなんぞとおいはひとこともいっとらん。誤解じゃ誤解! 朝鮮とこの国をよくするためにいきたいだけじゃっどん。それが誤解されちょる。まるでおいが朝鮮攻めよというとるみたいじゃなかど。そげんこつひとこともいうとらんに…」
「…そうでごわすか」西郷従道は制服の襟をなおして頷いた。
 山県有朋はプロシア(ロシア)、西郷従道は英国に留学していた。従道はイギリスで、『スコットランドヤード(英国の警察組織)』を拝見していた。
 一方で、日本には職を失った浪人士族があふれている。
 かれらの就職先が当面の課題だった。
「兄さん。近代的な軍と警察が必要でごわそ?」
 吉之助は頷いた。
「おいもそう思っとうた。日本には職を失った浪人士族があふれてもうそ。そいたちを雇えば雇用は確保できるばい」
         
  大久保はその夜、薩摩の邸宅で妻・清子にすべてを話した。
 すると清子は「やっぱり西郷さんは朝鮮を攻めるといってるのではないのですね?」
 と笑顔になった。訛りはない。
「そうでごわそ。やっぱり西郷どんは立派じゃ」
 大久保は笑顔でシャンパンを開けた。

  一足先に東京の国会議事堂にいた西郷隆盛(吉之助)を追うように、アメリカNY号という船に乗り木戸や大久保、板垣退助らが東京にやってきた。
 明治四年一月三日のことである。
 西郷ら参議が命がけでとりくんだ最初の難題は『廃藩置県』であった。
 大久保も木戸もはやく日本国を共和制の国にしなければとあせった。
 そこで、まず薩摩、長州、土佐、肥後の藩を「藩籍奉還」として朝廷に献上し、領土を新政府にかえすという方法をとった。
 藩主をその県の主として残すということは、結局減らないではないか……ということにもなるかも知れない。が、まず都道府県に別けて、そののち旧藩のすべてを解体して、かわりに県をおく。県を治めるのは新政府が思いのままに動かせる知事を任命する。
 これが『廃藩置県』の大改革である。

  東京では軍事パレードが行われた。
 明治四年二月十八日、新政府は近代的な軍隊をつくったのである。
『廃藩置県』で殿でも藩主でもなくなった島津久光は、深夜、鹿児島湾に屋形船を浮かべ、何発もの花火を打ち上げさせ、ヤケ酒を呑んだという。
「わしをなめよってからに……西郷め! 大久保め! せからしか!」
  西郷隆盛が新政府へ迎えられると、新政府は組閣をした。

関白   三条実美
 参議   西郷隆盛(薩摩)板垣退助(土佐)大隈重信(佐賀)
 大蔵卿  大久保利通(薩摩)    
 文部卿  大木喬任(佐賀)  
 大蔵大輔 井上馨(長州)
 文部大輔 後藤象二郎(土佐)
 司法大輔 佐々木高行(土佐)       
 宮内大輔 万里小路博房(公家)
 外務大輔 寺島宗則(薩摩)
            他

 この組閣に、長州は怒った。
「長州から取り上げられたのは井上馨だけではないか!」というのだ。
 薩摩兵をひきいて東京にいた西郷隆盛は東京の邸宅を購入した。ときに明治四年春だった。
 この年年末、大久保利道らは『欧米視察』をすることになった。
 西郷はいかない。
「一蔵どん。無事にもどってくるんでごわすぞ!」
 西郷隆盛はいった。
「西郷どん。おいの留守中はこの国を頼みもんそ!」
「わかりもうした」
 親友でもあるふたりは堅い握手を交わした。……なんにしてもこれからが勝負だ。
  そして、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らは十二月一日『欧米視察』のため艦船で海原へと旅だった。西郷は見送ったあと、一時鹿児島にもどった。
 久光へ『詫び状』を届けるためだ。
 薩摩藩城では島津久光が顔を真っ赤にして、激昴して上座にすわっていた。
 吉之助は下座で座り、平伏した。
「吉之助! おのれが!」
 島津久光は開口一発怒鳴った。「お前たちが藩をつぶしたのだ! 薩摩藩は八百年もの歴史ある藩ぞ! そんれを『廃藩置県』なごてもうして……潰しおった!」
「久光公……もうこの国に殿様はいりもうさん」
「なにごて?!」
 吉之助は頭を上げた。「この国は東京を首都とした近代国家となりもんそ。もう殿様はいらなかです」
「せからしか! 吉之助! 首をはねてくれるわ!」
 島津久光は怒鳴りっぱなしだった。刀を鞘から抜いた。
「日本国は民のもの。どうぞ! おいの首をはねとうせ!」
「いいおったな! 吉之助!」
 久光は刀をふりあげた。そして、はねる真似をして、それからぜいぜいと荒い息をしてコンクリートのように固まった。吉之助はいささかも動じるところがない。
 久光は頭の中が真っ白になった。
「さ……さがれ! この外道!」
 吉之助は去った。
 すると久光は眩暈を覚えて、放心状態になり畳みに崩れた。
 ……せからしか! せからしか! ……もう声もでない。

  明治三年十二月十七日、朝廷令が発せられた。
 六月五日、西郷隆盛(吉之助)は日本で初めての陸軍大将に任命された。中将はない。   次は少将で、それには薩摩の桐野利秋が任ぜられている。桐野は前名は中村半次郎で、維新の動乱のとき「人斬り半次郎」といわれた剣豪で、維新後まで生き残った最後の剣豪である。

 大久保たちが視察にいく前に会議が開かれ、やがて『征韓論』が浮上してきた。
「朝鮮を征伐してこの国の領土としよう」
 西郷は反対し、「おいどんは反対でごわす。まずおいを朝鮮に特使としてつかわせてくれもんそ」と頼んだ。
「しかし、西郷先生にもしものことがあったら大変じゃ。それは出来ん」
「正常な外交なら軍隊はいらんでもそ?」
 一同は沈黙する。

  西郷は野に下った勝海舟と話をした。
「なに? 西郷先生は朝鮮を攻めるのかい? そんなんでなんになるってゆうんだい?」 勝は深刻な顔の西郷隆盛にいった。
「おいは…」西郷は続けた。「おいは朝鮮を攻める気はなか。只、門戸を開こうとしとるだけでこわす」
「西郷先生、そりゃああんたのいうことはいちいちごもっともだ。しかし……抵抗勢力に邪魔されてんだろ?」
「そいでごわす」西郷は素直に答えた。
「西郷先生! これからが大事だ。この国が栄えるも滅ぶも危機感をもって望む決意が重要だぜ。俺はもうあんたらにとっては必要ない者だ。あとは自分らで決めてくれ」

  大久保は朝鮮との交渉に反対した。     
 大隈は「参議以外は発言を控えよ」と慇懃にいった。
「だまれ!」江藤新平は怒鳴った。
 大久保は議論に激昴して退場した。
『征韓論』は失敗した。
 西郷はいった。「おまさんら、維新で大勢の血が流れたことを忘れおったか? わずか五年前のことじゃっどん」
 一同はまた沈黙してしまった。
 二月四日閣議が開かれる。
 朝鮮との交渉に賛成したのは、西郷・板垣・後藤・副島、反対は岩倉・大久保・大隈・木戸であった。
 木戸孝允(桂小五郎)は「朝鮮より樺太と台湾が先である」と息巻いた。
 議論は空転し、やがて大久保と大隈と木戸は辞表を提出し、参議から去った。
 閣議は続く。西郷は公家の三条に迫り、「天子(天皇)さまにご決断をば!」といった。 三条実美も辞任した。
 西郷は、公家の岩倉具視に迫った。「天子(天皇)さまにご決断をば!」
 岩倉具視は押し黙ったままだ。
 西郷はさらに「朝鮮にばいき国交を開きまそ」と提案した。
 岩倉は「戦になるかも…」と恐れた。
「樺太も同じでごわそ。朝鮮は”かませ犬”じゃなか! 朝鮮に使者を派遣せねばならぬごて。そいがわからんでごわすか?」
「士族のため?」
「そうではごわさん」西郷は首をふった。「このまんまでは国家百年の計あやまりおこるでごわす」
 吉之助は岩倉の袖をひっぱった。「はなせ!」
「岩倉どん! わからんでごわすか?!」
 そんなひともんちゃくがあったあと、西郷隆盛は馬車で帰宅した。
 弟の従道とその妻清子がきた。
 西郷吉之助は大きな溜め息をもらし、「鹿児島にもどりもうそ」と独り言のように呟いた。彼は疲れていた。吉之助には一晩の熟睡と熱い風呂が必要だった。
 ……つかれたばい。つかれたばい…
「岩倉は天子さまに反対のこというじゃっとろう。西郷は朝鮮に戦しかけると思われるじゃなかど」
   
「……兄さん」
「月照どんと海に落ちておいだけが助かった……それもなにかの縁じゃ。鹿児島にもどり百姓にでもなりもんそ」
 吉之助はずいぶんと疲れていた。なによりも彼を迷わせたのは思い通りに政ができないことだった。西郷隆盛には大久保利道のような政治の才がない。       
「兄さん! おいも鹿児島にもどりもうそ!」
 弟の従道は強くいった。吉之助はそれを断った。
「そげんこつは駄目じゃ! あんさんがいのうなったら誰が国守るど?」
  二十三日、再び閣議が開かれた。吉之助は参議を辞任した。四参議も辞任し、結局、参議は誰もいなくなった。
 東京は雨が降っていた。
 陸軍少将・桐野利秋(中村半次郎)、近衛陸軍少佐・別府晋介は激怒した。
「西郷どんのような維新の功労者を辞めさせるごて、そげな政府ならいらんでごわす!」           か ご んま        
「薩摩の者はみなやめて鹿児島に帰りもうそ!」
 陸軍少将近衛局長官・篠原国幹は「まて! はやまるな!」と彼らをとめた。
 しかし、無駄であった。篠原国幹ものちの辞めて、鹿児島へと向かっている。
 大久保利道は残念がった。
「……西郷どんには政治にはむいとらん」
  鹿児島で、西郷隆盛は犬を連れて散歩した。彼のまわりには薩兵十万の軍隊が集まった。「先生! 西郷先生!」
 桐野や別府、篠原は西郷隆盛(吉之助)を慕ってついてきていた。
「……国のことは大久保どんにまかせるばい」
 西郷隆盛は自分にいいきかせるように、いった。
「なんてこった!」
 のちの勝海舟は嘆いた。



清原の次警察が逮捕を狙う大物“薬芸能人”⇒女優と結婚したアイドルA、五輪選手K、前科ある音楽家N

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【誰?】清原容疑者の次に警察が逮捕を狙う大物“薬芸能人”⇒女優と結婚したアイドルA、五輪選手K、前科ある音楽家N
2016年02月06日
スクープ








1: ニライカナイφ ★@\(^o^)/
◆清原容疑者の次は?捜査当局が狙う”クスリ芸能人”のイニシャル

酒井法子、小向美奈子、ASKAに次ぐ大物の薬物逮捕。
今回、清原和博を逮捕したのは通称・組対5課、警視庁組織犯罪対策第5課(銃器・薬物取締担当)という部署だ。
ASKAも組対5課によって逮捕されており、「警視庁管内の各所轄から優秀な捜査員が集められる本丸。
日頃から歓楽街に出て、足で情報収集するなど想像以上に地味な捜査を厭わない」(全国紙社会部記者)との評判だ。

しかし、日本で薬物事犯を取り締まるのは組対5課だけではない。厚生労働省所管の部署「麻薬取締部」、通称「麻取(マトリ)」だ。
麻取と組対5課は行政区分の関係から、ライバル関係にある。そのため、ここにきてマトリ側に焦りが見えている。

「このところ、小向ぐらいしか実績を挙げたことしかなく、ASKA、清原は組対5課に持っていかれた。
上の焦りは相当なもので、『清原以上の大物を挙げないと、うちの存在意義が問われ、予算も下りなくなってしまう』と部下に発破をかけている」(捜査関係者)

◇組対5課と麻取の次なる狙いは?

そこで浮上してくるターゲットは、名前が通っている人物に限って言えば複数人おり、その頭文字はAKNとなる。
アイドルとして一世を風靡し、現在は女優と結婚したAは一時期、組対5課に徹底マークされ、逮捕寸前までいった。

「あの小向美奈子とも交友があり、六本木のクラブでコカインやシャブをやっているとして家宅捜索寸前までいきました。
ところがガサをかける当日になって、Aがカレンダーを出している出版社から情報が漏れ、マスコミに流れてしまった。
この間に雲隠れしてAは事なきを得ましたが、一度取り逃がした魚をきっちり仕留めるという意味では今回の清原のパターンに近い」(前出の捜査関係者)

次にKだが、これは五輪にも出場したスポーツ選手。一時期、西麻布や六本木で頻繁に飲み歩く姿がキャッチされており、取り巻きもヤカラ系だったことから捜査線上に浮上したようだ。

「かつてAV女優と交際しており、女遊びも派手。いくつか情報が寄せられたことがあるそうだ」(同前)

そしてNだが、彼は薬物疑惑のウワサが絶えない大物ミュージシャンだ。過去に逮捕歴があり、コワモテでも知られるNには捜査当局や週刊誌の編集部にタレコミがなされたことがあったようだ。

「女性からのタレコミで、大麻をNにすすめられセッ●スしたと。
記事になりかけましたが、直前でネタ元が飛んでしまい、お蔵入りになったそうです」(週刊誌記者)

Nの武勇伝はこれだけではない。張り込み取材をしたことのある某週刊誌記者は、Nの奇行を目の当たりにしたという。

◇突然の奇行に記者あ然

週刊誌記者が証言する。

「Nは大麻だけじゃなく、清原同様、覚せい剤にもハマってるって話は以前からささやかれていた。
愛人問題も同様に噂されていたので、張り込みをしていたんです。
すると路上で突然、見えない敵と戦いだした。
けりを入れ、パンチを入れ、明らかに様子がおかしかった。
口笛も吹いて本人は楽しそうでしたが、5分10分とエア格闘技を住宅街でやるわけですから、怖かった」

すでに麻取と組対5課は、これらの有名人の捜査に着手しているという情報もある。
大物を挙げるライバル競争をしている二つの組織にとって、Nは格好の獲物だろう。

デイリーニュースオンライン 
http://netallica.yahoo.co.jp/news/20160204-00010001-dailynewsq

ki











3: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
N渕って誰だ

5: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
A西 黒木メイサとジャブ
K島 ちょーきもちいいー

10: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
K島K介は信憑性薄いですね

17: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
女優逃げて~!

31: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
とんぼとかでジャブを鼻から吸う演技がやけにリアルだったもんな

37: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
めっちゃきもちいいいいいの人か

63: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
桑田が言ってるのは、その3人をランナーとして満塁ホームラン打ってほしいってこと?

82: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
K島はいつも名前出るよな

お塩とかと仲良かったんだっけ

118: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
エターナル
セイヤ
チョー気持ちいい

122: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
芸能人やスポーツ選手
全員検査しろよ!

マーシーの薬物リハビリ日記
マーシーの薬物リハビリ日記


引用元: ・【芸能】清原容疑者の次に警察が逮捕を狙う大物“クスリ芸能人”⇒女優と結婚したアイドルA、五輪選手K、前科あるミュージシャンN★2

タグ :清原和博逮捕薬物噂芸能界歌手

竜馬とおりょうがゆく 樽崎龍の波乱の生涯<維新回天特別編>ブログ連載小説4

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  城下でも見晴らしのいい一角に、小栗流日根野弁治の道場があった。龍馬はそこで剣術をまなんだ。道場の近くには潮江川(現在の鏡川)が流れている。
 日根野弁治は土佐城下でも指折りの剣術使いで、柔道にも達していたという。
 もともと小栗流というのは刀術のほかに拳術、柔道などを複合したもので、稽古も荒っぽい。先生は稽古のときに弟子の太刀が甘いと、「そんなんじゃイタチも斬れんきに!」 と弟子をよく叱ったという。そして、強い力で面をうつ。
 あまりに強い竹刀さばきだから、気絶する者まででてくる。十四歳の龍馬もずいぶんとやられた口だったらしい。
 毎日、龍馬は剣術防具をかついで築屋敷から本町筋一丁目の屋敷にもどってくると、姉の乙女がまっている。
「庭にでなさい! あたしが稽古をつけちゃるきに!」これが日課だったという。また防具をつけなければならない。乙女はふりそでを襷でしばり、竹刀をもったきりである。
「今日のおさらい。龍馬!」
 今日ならったようにうちこめという。
「女子だと思ってみくびったらいかんぜよ!」
 みくびるどころか、龍馬の太刀を乙女はばんばんとかわし打ち込んでくる。龍馬は何度か庭の池へ突き落とされかける。はいあがるとまた乙女は突く。
 父・八平がみかねて「乙女、いかげんにせぬか」ととめる。
 すると乙女は「ちがいます」という。可愛い顔だちである。
「何が違うきにか?」
「龍は雨風をうけて昇天するといいますから、わたしが龍馬を昇天させるためにやってるのです。いじめではありませぬ」
「馬鹿。わしは龍馬が可哀相だといってるんじゃなかが。お前がそんなハッタカ(お転婆娘)では嫁入り先がなくなるというとるんじゃきに」
「……わたしは嫁にはいきませぬ」
「じゃあどうするんじゃ?」
「龍馬を育てます」
「馬鹿ちんが。龍馬だってすぐ大きくなる。女子は嫁にいくと決まっておろう」
 乙女は押し黙った。確かに…その通りではある。
 ………龍馬は強い!
 こう噂されるようになったのは日根野道場の大会でのことである。乙女も同席していたが「あれがあの弟か?」と思うほど相手をばったばったと叩きのめしていく。
 まるで宮本武蔵である。
 兄・権平や父・八平も驚き「これはわしらの目が甘かった。龍馬は強い。江戸へ剣術修行をさせよう。少々、金がかかるがの」といいあった。
「あの弟なら剣で飯が食えます。江戸から戻ったら道場でもやらせましょう父上」
 さっそく日根野にいうと、「江戸の北辰一刀流がいいでしょう。あの子なら剣術道場をもてます」と太鼓判をおす。
「千葉周作先生のところですな?」
 名前ぐらいは知っている。「そうですきに」坂本家は土佐一番の金持ち郷士だったが、身分は、家老福岡家御預郷士、ということであり、江戸にいくには藩の許しが必要だった。
 八平はさっそく届けを出した。
「龍馬、よろこびやれ! ゆるしがでたぜよ!」
 乙女が龍馬の部屋に駆け込んで笑顔になった。
「はあ」と龍馬が情なくいう。「ノミが口の中にはいった…苦か」
 ……やはり龍馬は普通じゃない。

  龍馬がいよいよ江戸へ旅たつ日がきた。嘉永六年三月十七日のことである。
 坂本家では源おんちゃんが門をひらき、提灯をぶらさげる。父・八平は「権平、龍馬はどこじゃ?」ときく。
「さぁ、さきほどからみえませんが…」
 龍馬は乙女の部屋にいた。別れの挨拶のためである。しかし、「挨拶はやめた」という。「どげんしたとです?」乙女は不思議がってきいた。
 龍馬はいう。「乙女姉さん、足ずもうやろう。こどものときからふたりでやってきたんだから、別れにはこれがいい。それとも、坂本のお仁王様が逃げるきにか?」
「逃げる? まさか!」
 乙女は龍馬の口車にのってしまう。「一本きりですよ、勝負は」
 乙女はすそをめくり、白いはぎを出して両手でかかえた。あられもない姿になったが、龍馬はそんな姉をみなれている。
 姉弟は十分ほどあらそったがなかなか勝負がつかない。乙女が龍馬の足をはねた瞬間、「乙女、ご開帳じゃ」と権平が声を出す。
「えっ?!」
 その乙女の隙をついて龍馬は乙女の足をすくいあげ、乙女をあおむけざまに転がした。股の大事な部分までみえた。
「どうだ!」
「卑怯です!」
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」

「まじないですから、龍馬、この小石を踏みなされ」
 乙女がいうと、龍馬は「こうですか?」とちょっとふんだ。
「これで厄除けと開運になるきに」
「姉さん。お達者で。土佐にこんど戻ってくるときには乙女姉さんは、他家のひとになっちゅうますろう」
 乙女は押し黙った。しかし、龍馬は知っていた。乙女には去年の冬ごろから縁談があった。はなしは進み、この夏には結婚するという。相手は岡上新輔という長崎がえりの蘭学医で、高知から半日ばかりの香美群山北という村に住んでいるという。
 ただ背丈が乙女より三寸ほど低いのが乙女には気にいらない。
 それでも乙女は、
「こんどかえったら山北へあそびにいらっしゃい」とうれしそうにいった。
「なにしちゅう!」権平が声を荒げた。「もうすぐ夜明けじゃ、龍馬支度せい」
  土佐は南国のために、唄が好きなひとがおおく、しかも明るいテンポの唄しかうけない。どんな悲惨な話しでも明るい唄ってしまう。別れでも唄を唄えといわれ、
「わしは歌えんきに」
 と龍馬は頭をかいた。もう旅支度も整い、出発を待つだけである。
「では、龍馬おじさまにかわって私がうたってしんぜまする」           
 といったのは兄・権平の娘の春猪だった。春猪は唄がうまい。
 そろそろ夜明ける。龍馬が今から踏み越えようとしている瓶岩峠の空が、紫色から蒼天になりはじめた。今日は快晴そうである。
  道中、晴天でよかった。
 龍馬は、阿波ざかいのいくつもの峠を越えて、吉野川上流の渓谷に分け入った。
 渓谷は険しい道が続く。
 左手をふところに入れて歩くのが、龍馬のくせである。右手に竹刀、防具をかつぎ、くせで左肩を少し落として、はやく歩く。
 ふところには銭がたんとある。龍馬は生まれてこのかた金に困ったことがない。
  船着き場の宿につくと、この部屋がいい海が見える、と部屋を勝手にきめて泊まろうとする。「酒もってきちゅうきに」龍馬は宿の女中にいう。
 土佐者には酒は飲み水のような物だ。
 女中は「この部屋はすでに予約がはいっておりまして…」と困惑した。
「誰が予約しちゅう?」   
「ご家老さまの妹さまのお田鶴さまです」
 龍馬は口をつぐんでから、「なら仕方ないき。他の部屋は?」
「ありますが海はみえませぬ」
 龍馬は首を少しひねり、「ならいい。わしは浜辺で寝るきに」といって浜辺に向かった。        
  お田鶴はそれをきいて、宿から浜辺へいった。
「まぁ、やはり坂本のせがれじゃ」
 お田鶴は、砂の上にすわった。土佐二十四万石の家老の妹だけあって、さすがに行儀がいい。龍馬は寝転んだままだ。
「龍馬どのとおっしゃいましたね?」
「そうじゃきに」
「江戸に剣術修行にいらっしゃる」
「そうじゃ」
「兄からいろいろきいています」
 龍馬は何もいわなかった。
 坂本家と福岡家は、たんに藩の郷士と家老というだけの間柄ではない。藩の財政が逼迫したときは、家老は豪商の坂本家に金をかりてくることが多い。このため坂本家は郷士の身分でありながら家老との縁は深い。
 ちなみに坂本家の先祖は、明智左馬之助光春だったという。明智左馬之助は、信長を殺            
した明智光秀の親類で、明智滅亡後、長曽我部に頼って四国に流れついた。
 そこで武士にもどり、百石の郷士となった。
 坂本という、土佐には珍しい苗字は、明智左馬之助が琵琶湖のほとりの坂本城に在城していたことからつけられたのだという。
「龍馬どの。こんなところにいられたのでは私が追い出したように思われます。宿にもどってください」と、お田鶴がいった。
「いいや。いいきにいいきに。わしはここで十分じゃきにな」
 龍馬はそういうだけだ。
  船が出たのは翌朝だった。
 船に龍馬とお田鶴と共の者がのった。「龍馬殿、この中にいられますように」
「いいきにいいきに」龍馬はやかた船の外にいってしまった。好きにさせろ、という顔つきであった。そのあと老女のはつがお田鶴にささやいた。
「ずいぶんとかわった者ですね。噂では文字もろくに読めないそうですね」
「左様なことはありません。兄上がもうされたところでは、韓非子というむずかしい漢籍を、あるとき龍馬どのは無言で三日もながめておられたそうです」
「三日も?」はつは笑って「漢字がよめないのにですか?」
「いいえ。姉の乙女さんに習って読めますし書けます。少々汚い字だそうですが」
「まんざら阿呆でもないのでございますね」
 老女は龍馬に嫌悪感をもっている。
「阿呆どころか、その漢節を三日もよんで堂々と論じたそうです。意味がわからなかったようですけれど……きいているほうは」   
「出鱈目をいったのでしょう」
 老女は嘲笑をやめない。お田鶴はそれっきり龍馬の話題に触れなかった。


「わしを斬るがか?!」
 龍馬はじりじりさがって、橋のたもとの柳を背後にして、相手の影をすかしてから、刀を抜いた。夜だった。月明りでぼんやりと周りが少しみえる。
 ……辻斬りか?
 龍馬は「何者だろう」と思った。剣客は橋の真ん中にいるが、龍馬は近視でぼんやりとしか見えない。よほど出来る者に違いない。龍馬はひとりで剣を中段にかまえた。
 橋の向こうにぽつりと提灯の明りが見える。龍馬は、
「おい! 何者じゃさにか?!」と声を荒げた。「人違いじゃなかがか?!」
 ところが相手は、声をめあてに上段から斬りこんできた。鍔ぜりあいになる。しかし、龍馬は相手の体を蹴って倒した。相手の男は抵抗せず、
「殺せ!」という。
 ちょうど町人が提灯をもって歩いてきたので、この男の顔ば明りで見せちゅうきに、と龍馬は頼んだ。丁寧な口調だったため町人は逃げる時を失った。
「こうでござりますか」
 すると龍馬は驚愕した。   
「おんし、北新町の岡田以蔵ではなかが!」
 後年、人斬り以蔵とよばれ、薩摩の中村半二郎(のちの桐野利秋)や肥後の河上彦斎とともに京洛を戦慄させた男だった。
 以蔵は「ひとちがいじゃった。許してもうそ」と謝罪した。
「以蔵さん、なぜ辻斬りなんぞしちゅっとか?!」
 ふたりは酒場で酒を呑んでいた。「銭ぜよ」
「そうきにか。ならわしが銭をやるきに、もう物騒な真似はやめるんじゃぞ」
「わしは乞食じゃないき。銭なら自分で稼ぐ」以蔵は断った。
「ひとを斬り殺してきにか?!」龍馬は喝破した。以蔵は何もいえない。
 龍馬は「ひとごろしはいかんぜよ! 銭がほしいなら働くことじゃ!」といった。
 ふたりは無言で別れた。(以蔵は足軽の身分)
 龍馬は、もう昔の泣き虫な男ではなかった。他人に説教までできる人間になった。
 ……これも乙女姉さんのおかげぜよ。
 龍馬は、江戸へ足を踏み入れた。

         2 黒船来る!




伊藤博文の出会いは吉田松陰と高杉晋作と桂小五郎(のちの木戸貫治・木戸孝允)であり、生涯の友は井上聞多(馨)である。伊藤博文は足軽の子供である。名前を「利助」→「利輔」→「俊輔」→「春輔」ともかえたりしている。伊藤が「高杉さん」というのにたいして高杉晋作は「おい、伊藤!」と呼び捨てである。吉田松陰などは高杉晋作や久坂玄瑞や桂小五郎にはちゃんとした号を与えているのに伊藤博文には号さえつけない。
 伊藤博文は思った筈だ。
「イマニミテオレ!」と。
  明治四十一年秋に伊藤の竹馬の友であり親友の井上馨(聞多)が尿毒症で危篤になったときは、伊藤博文は何日も付き添いアイスクリームも食べさせ「おい、井上。甘いか?」と尋ねたという。危篤状態から4ヶ月後、井上馨(聞多)は死んだ。
 井上聞多の妻は武子というが、伊藤博文は武子よりも葬儀の席では号泣したという。
 彼は若い時の「外国人官邸焼き討ち」を井上聞多や渋沢栄一や高杉晋作らとやったことを回想したことだろう。実際には官邸には人が住んでおらず、被害は官邸が全焼しただけであった。
 伊藤は井上聞多とロンドンに留学した頃も回想したことだろう。
 ふたりは「あんな凄い軍隊・海軍のいる外国と戦ったら間違いなく負ける」と言い合った。
 尊皇攘夷など荒唐無稽である。
 
  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。

 渋沢は決心して元治元年の二月に慶喜の家臣となったが、慶喜は弟の徳川民部大輔昭武とともにフランスで開かれる一八六七年の万国博覧会に大使として行くのに随行した。 慶応三年一月十一日横浜からフランスの郵船アルヘー号で渡欧したという。

坂本龍馬が「薩長同盟」を演出したのは阿呆でも知っている歴史的大事業だ。だが、そこには坂本龍馬を信じて手を貸した西郷隆盛、大久保利通、木戸貫治(木戸孝允)や高杉晋作らの存在を忘れてはならない。久光を頭に「天誅!」と称して殺戮の嵐の中にあった京都にはいった西郷や大久保に、声をかけたのが竜馬であった。「薩長同盟? 桂小五郎(木戸貫治・木戸孝允)や高杉に会え? 錦の御旗?」大久保や西郷にはあまりに性急なことで戸惑った。だが、坂本龍馬はどこまでもパワフルだ。しかも私心がない。儲けようとか贅沢三昧の生活がしたい、などという馬鹿げた野心などない。だからこそ西郷も大久保も、木戸も高杉も信じた。京の寺田屋で龍馬が負傷したときは、薩摩藩が守った。大久保は岩倉具視邸を訪れ、明治国家のビジョンを話し合った。結局、坂本龍馬は京の近江屋で暗殺されてしまうが、明治維新の扉、維新の扉をこじ開けて未来を見たのは間違いなく、坂本龍馬で、あった。
 話を少し戻す。

  龍馬は江戸に着くと、父に教えられた通りに、まっすぐに内桜田の鍛冶橋御門へゆき、橋を渡って土佐藩邸で草履を脱いだ。
 藩邸にはすでに飛脚があって承知しており、龍馬の住まう長屋へ案内してくれた。
 部屋は三間であったという。
 相住いの武士がいるというがその日は桃井道場に出向いていて留守だった。龍馬は部屋にどすんの腰をおろした。旅による埃が舞い散る。
 部屋はやたらときれいに掃除してある。しかも、机には本が山積みされている。
「こりゃ学者じゃな。こういう相手は苦手じゃきに」
 龍馬は開口したままいった。「相手は学者ですか?」
「いいえ。剣客であります」
「郷士ですな?」  
「いえ、白札です」
 白札とは、土佐藩独自の階級で、準上士という身分である。
「わかった。相住むのはあの魚みてぇな顎の武市半平太じゃな」
 龍馬は憂欝になった。正直、藩でも勤勉で知られる武市半平太と相住まいではやりきれないと思った。

  武市半平太を藩邸の者たちは「先生」と呼んでいた。
「なんじゃ? 大勢で」
 顔はいいほうである。
「先生の部屋に土佐から坂本龍馬という男がきました」
「龍馬がきたか…」
「龍馬という男は先生を学者とばいうとりました」
「学者か?」武市は笑った。
「あの魚みてぇな顎……などというとりました。許せんきに!」
「まあ」武市は続けた。「どうでもいいではないか、そのようなこと」
「天誅を加えまする」
「……天誅?」
「ふとん蒸しにしてくれまする!」
 武市半平太は呆れて、勝手にせい、といった。
 なかまのうちひとりが龍馬の部屋の襖をあけた。すると驚いた。ふんどし姿の裸で、のっそりと立っている。「なんじゃ?! 坂本その格好は?!」
「わしは馬鹿じゃで、こうなっちゅう」
「このお!」
 大勢がやってきた。「かかれ!」
 龍馬に大勢でとびかかった。行灯がかたむき、障子が壊れ、龍馬は皋丸をけったりしたため気絶する者まででる。四半刻ばかりどたばたとさわいでいるうちにヘトヘトになり、龍馬はふとん蒸しで、みんなが乗りかかった。息ができず、死ぬような苦しみになる。
「もうよかが! あかりをつけいや」
 武市半平太がやってきていった。不機嫌な声でいった。龍馬は解放されると部屋を出ていった。

「なぜ先生は龍馬の無礼を咎めなかったのです?」
 と、事件のあときくものがあった。
 武市半平太は「徳川家康も豊臣秀吉も、だまっていてもどこか愛嬌があった。その点、明智光秀にはふたりより謀略性があったが、愛嬌がなかったために天下をとれなかった。英雄とはそういうものだ。龍馬のような英雄の資質のあるものと闘っても無駄だし、損でもある」
「龍馬は英雄じゃきにですか?」
「においはある。英雄になるかも知れぬ。世の中わからぬものぞ」
 そのころ「英雄」は、千葉道場で汗を流していた。
 竹刀をふって、汗だくで修行していた。相手は道場主千葉貞吉の息子重太郎で、龍馬より一つ年上の眼の細い青年である。
 そんな剣豪を龍馬は負かしてしまう。
「一本! それまで!」貞吉が手をあげる。
 重太郎は「いやあ、龍さんにはかなわないな」などという。もう、親しい仲になっている。龍馬は友達をつくるのがうまい。
  江戸での月日は早い。
 もう、龍馬は免許皆伝まじかである。
 そんな千葉道場主の貞吉の息子重太郎には、さな子という妹がいた。二つ違いの妹であり、幼少の頃より貞吉が剣を仕込み、免許皆伝とまではいかなかったが、才能があるといわれていた。色が浅黒く、ひとえの眼が大きく、体がこぶりで、勝気な性格だった。
 いかにも江戸娘という感じである。
 そんな娘が、花見どきの上野で暴漢に襲われかけたところをおりよく通りかかった龍馬がたすけた、という伝説が土佐にはあるという。いや、従姉だったという説もある。
 龍馬はさな子を剣でまかした。
 その頃から、さな子は龍馬に恋愛感情を抱くようになる。
 さな子が初めて龍馬をみたときは、かれが道場に挨拶にきたときだった。
「まぁ」とさな子は障子の隙間から見て「田舎者だわ」と思った。
 と、同時に自分の好むタイプの男に見えた。ふしぎな模様の入ったはかまをきて、髪は篷髪、すらりと背が高くて、伊達者のようにみえる。
「さな子、ご挨拶しなさい」父に呼ばれた。
「さな子です」頭を下げる。
「龍馬ですきに。坂本龍馬ですきに」
「まぁ、珍しい名ですね?」
「そうですろうか?」
「ご結婚はしてらっしゃる?」さな子は是非その答えがききたかった。
「いや、しとらんぜよ」
「まあ」さな子は頬を赤らめた。「それはそれは…」
 龍馬は不思議そうな顔をした。そして、さな子の体臭を鼻で吸い、”乙女姉さんと同じ臭いがする。いい香りじゃきに”と思った。
 さな子はそのときから、龍馬を好きになった。

    
 この頃、龍馬は佐久間象山という男に弟子入りした。
 佐久間象山は、最初は湯島聖堂の佐藤一斉の門下として漢学者として世間に知られていた。彼は天保十年(一八三九)二十九歳の時、神田お玉ケ池で象山書院を開いた。だが、その後、主君である信州松代藩主真田阿波守幸貫が老中となり、海防掛となったので象山は顧問として海防を研究した。蘭学も学んだ。
 象山は、もういい加減いい年だが、顎髭ときりりとした目が印象的である。
 佐久間象山が麟太郎(勝海舟)の妹の順子を嫁にしたのは嘉永五年十二月であった。順子は十七歳、象山は四十二歳である。象山にはそれまで多数の妾がいたが、妻はいなかった。
 麟太郎は年上であり、大学者でもある象山を義弟に迎えた。

  坂本龍馬という怪しげな奴が長州藩に入ったのはこの時期である。桂小五郎も高杉晋作もこの元・土佐藩の脱藩浪人に対面して驚いた。龍馬は「世界は広いぜよ、桂さん、高杉さん。黒船をわしはみたが凄い凄い!」とニコニコいう。
「どのようにかね、坂本さん?」
「黒船は蒸気船でのう。蒸気機関という発明のおかげで今までヨーロッパやオランダに行くのに往復2年かかったのが…わずか数ヶ月で着く」
「そうですか」小五郎は興味をもった。
 高杉は「桂さん」と諌めようとした。が、桂小五郎は「まあまあ、晋作。そんなに便利なもんならわが藩でも欲しいのう」という。
 龍馬は「銭をしこたま貯めてこうたらええがじゃ! 銃も大砲もこうたらええがじゃ!」
 高杉は「おんしは攘夷派か開国派ですか?」ときく。
「知らんきに。わしは勝先生についていくだけじゃきに」 
「勝? まさか幕臣の勝麟太郎(海舟)か?」
「そうじゃ」 
 桂と高杉は殺気だった。そいっと横の畳の刀に手を置いた。
「馬鹿らしいきに。わしを殺しても徳川幕府の瓦解はおわらんきにな」
「なればおんしは倒幕派か?」
 桂小五郎と高杉晋作はにやりとした。
「そうじゃのう」龍馬は唸った。「たしかに徳川幕府はおわるけんど…」
「おわるけど?」 
 龍馬は驚くべき戦略を口にした。「徳川将軍家はなくさん。一大名のひとつとなるがじゃ」
「なんじゃと?」桂小五郎も高杉晋作も眉間にシワをよせた。「それではいまとおんなじじゃなかが?」龍馬は否定した。「いや、そうじゃないきに。徳川将軍家は只の一大名になり、わしは日本は藩もなくし共和制がええじゃと思うとるんじゃ」
「…おんしはおそろしいことを考えるじゃなあ」
「そうきにかのう?」龍馬は子供のようにおどけてみせた。
  桂小五郎は万廻元年(1860年)「勘定方小姓格」となり、藩の中枢に権力をうつしていく。三十歳で驚くべき出世をした。しかし、長州の田舎大名の懐刀に過ぎない。
 公武合体がなった。というか水戸藩士たちに井伊大老を殺された幕府は、策を打った。攘夷派の孝明天皇の妹・和宮を、徳川将軍家・家茂公の婦人として「天皇家」の力を取り込もうと画策したのだ。だが、意外なことがおこる。長州や尊皇攘夷派は「攘夷決行日」を迫ってきたのだ。幕府だって馬鹿じゃない。外国船に攻撃すれば日本国は「ぼろ負け」するに決まっている。だが、天皇まで「攘夷決行日」を迫ってきた。幕府は右往左往し「適当な日付」を発表した。だが、攘夷(外国を武力で追い払うこと)などする馬鹿はいない。だが、その一見当たり前なことがわからぬ藩がひとつだけあった。長州藩である。吉田松陰の「草莽掘起」に熱せられた長州藩は馬関(下関)海峡のイギリス艦船に砲撃したのだ。
 だが、結果はやはりであった。長州藩はイギリス艦船に雲海の如くの砲撃を受け、藩領土は火の海となった。桂小五郎から木戸貫治と名を変えた木戸も、余命幾ばくもないが「戦略家」の奇兵隊隊長・高杉晋作も「欧米の軍事力の凄さ」に舌を巻いた。
 そんなとき、坂本龍馬が長州藩に入った。「草莽掘起は青いきに」ハッキリ言った。
「松陰先生が間違っておると申すのか?坂本龍馬とやら」
 木戸は怒った。「いや、ただわしは戦を挑む相手が違うというとるんじゃ」
「外国でえなくどいつを叩くのだ?」
 高杉はザンバラ頭を手でかきむしりながら尋ねた。
「幕府じゃ。徳川幕府じゃ」
「なに、徳川幕府?」 
 坂本龍馬は策を授け、しかも長州藩・奇兵隊の奇跡ともいうべき「馬関の戦い」に参戦した。後でも述べるが、九州大分に布陣した幕府軍を奇襲攻撃で破ったのだ。
 また、徳川将軍家の徳川家茂が病死したのもラッキーだった。あらゆるラッキーが重なり、長州藩は幕府軍を破った。だが、まだ徳川将軍家は残っている。家茂の後釜は徳川慶喜である。長州藩は土佐藩、薩摩藩らと同盟を結ぶ必要に迫られた。明治維新の革命まで、後一歩、である。


嘉永六年六月三日、大事件がおこった。
 ………「黒船来航」である。
 三浦半島浦賀にアメリカ合衆国東インド艦隊の四隻の軍艦が現れたのである。旗艦サスクエハナ二千五百トン、ミシシッピー号千七百トン……いずれも蒸気船で、煙突から黒い煙を吐いている。
 司令官のペリー提督は、アメリカ大統領から日本君主に開国の親書を携えていた。
 幕府は直ちに返答することはないと断ったが、ペリーは来年の四月にまたくるからそのときまで考えていてほしいといい去った。
 幕府はおたおたするばかりで無策だった。そんな中、勝海舟が提言した『海防愚存書』が幕府重鎮の目にとまった。麟太郎は羽田や大森などに砲台を築き、十字放弾すれば艦隊を倒せるといった。まだ「開国」は頭になかったのである。
 勝海舟は老中、若年寄に対して次のような五ケ条を提言した。
 一、幕府に人材を大いに登用し、時々将軍臨席の上で内政、外政の議論をさせなければならない。
 二、海防の軍艦を至急に新造すること。
 三、江戸の防衛体制を厳重に整える。
 四、兵制は直ちに洋式に改め、そのための学校を設ける。
 五、火薬、武器を大量に製造する。
  勝海舟が幕府に登用されたのは、安政二年(一八五五)正月十五日だった。
 その前年は日露和親条約が終結され、外国の圧力は幕府を震撼させていた。麟太郎(勝海舟)は海防掛徒目付に命じられたが、あまりにも幕府の重職であるため断った。麟太郎は大阪防衛役に就任した。幕府は大阪や伊勢を重用しした為である。
 幕府はオランダから軍艦を献上された。
 献上された軍艦はスームビング号だった。が、幕府は艦名を観光丸と改名し、海軍練習艦として使用することになった。嘉永三年製造の木造でマスト三本で、砲台もあり、長さが百七十フィート、幅十フィート、百五十馬力、二百五十トンの小蒸気船であったという。
  次の日の早朝、朝靄の中、龍馬が集合場所に向かって歩いていた。人通りはない。天気はよかった。
「いゃあ、遅刻したぜよ」と坂本竜馬がやってきた。
 立派な服をきた初老の男が「坂本くん、遅い遅い」と笑った。
「すいません佐久間先生」竜馬はわらった。                      
 この初老の男が佐久間象山だった。佐久間は「おい坂本!」と龍馬にいった。
「黒船をみてみたいか?」
「は?」龍馬は茫然としながら「一度もみたことのないもんは見てみたいですきに」
「よし! 若いのはそれぐらいでなければだめだ。よし、ついてこい!」
 象山は「よいよい!」と笑った。
 象山は馬にのった。龍馬は人足にバケて、荷を運んで浦賀へと進んだ。
 途中、だんご屋で休息した。
 坂本竜馬はダンゴを食べながら「先生は学識があるきに、わしは弟子入りしたんじゃ」「おい坂本」象山はいった。「日本はこれからどうなると思う?」
 龍馬は無邪気に「日本はなるようになると思いますきに」と答えた。
「ははは、なるようにか? ……いいか? 坂本。人は生まれてから十年は己、それから十年は家族のことを、それから十年は国のことを考えなければダメなのじゃぞ」
 佐久間象山は説教を述べた。
  やがてふたりは関所をパスして、岬へついた。龍馬は圧倒されて声もでなかった。すごい船だ! でかい! なんであんなものつくれるんだ?!
 浦賀の海上には黒船が四船あった。象山は「あれがペリーの乗るポーハタン、あちらがミシシッピー…」と指差した。龍馬は丘の上に登った。近視なので眼を細めている。
「乗ってみたいなぁ。わしもあれに乗って世界を見たいぜよ!」
 全身の血管を、感情が、とてつもない感情が走り抜けた。龍馬は頭から冷たい水を浴びせ掛けられたような気分だった。圧倒され、言葉も出ない。
 象山は「坂本。日本人はこれからふたつに別れるぞ。ひとつは何でも利用しようとするもの。もうひとつは過去に縛られるもの。第三の道は開国して日本の力を蓄え、のちにあいつらに勝つ。………それが壤夷というものぞ」といった。
  その年も暮れた。
 正月から年号が嘉永から「安政」にかわり、龍馬も二十歳になった。
 龍馬にとっては感慨があった。
 ……坂本の泣き虫も二十歳か……
 われながら自分を褒めたい気分にもなる。しかし、女をしらない。相手は「坂本さん! 坂本さん!」とそそってくるさな子でもよかったが、なにしろ道場主の娘である。
 女を知りたいと思うあまり、龍馬はお冴のわなにはまってしまう。
 国元でも「女との夜」についていろいろきいてはいた。まるで初陣のときと似ちゅう… とはきいていたが、何の想像もつかない。
 遊郭でお冴に手をひかれふとんに入った。お冴は慣れたもので龍馬を裸にして、自分の服も脱いで「坂本さま」と甘い声をだす。
 そんなとき、龍馬は妙なことをいいだす。「……わしの一物が動かんぜよ」
「まぁ、本当」
 お冴は笑った。龍馬は余りの興奮でインポテンツになってしまったのだ。
「これじゃあ……お冴さんのあそこを突くことも出来んきに…」
 龍馬は動揺した。お冴は父親の仇を討ってくれとも頼んだ。
 それっきり、龍馬は夜の行為ができないままだった。
 さな子はそれをきいて笑ったが、同時に嫉妬もした。「あたしが相手なら大丈夫だったはずよ」さな子は龍馬にホレていた。夜のことまで考えていたくらいである。
 お冴とは二度目の「夜」をむかえた。
 こんどは勃起したが、突然、大地震が襲いかかってきた。
 安政元年十一月三日、江戸、相模、伊豆、西日本で大地震がおこった。
「いかん」
 龍馬はとっさに刀をひろいあげて、「お冴、中止じゃきに」といった。
 立ってることもできない。
 大揺れに揺れる。「逃げるぜよ! お冴!」龍馬は彼女の手をとって外にでると、遊郭の屋敷が崩壊した。
「あっ!」
 お冴は龍馬にしがみついた。
 ……これは大変なことになっちゅう。土佐もどうなったことじゃろう…
 龍馬の脳裏にそんな考えがふとよぎった。
 ………土佐に帰ってみよう

伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載10

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          鹿児島私塾




  明治六年十二月、鹿児島の西郷隆盛を頼って士族(元・武士)たちが大勢やってくる。 酒場でも鹿児島市内でもお祭りのような大騒ぎである。
 桐野利秋は酒を呑みながら「西郷先生をたてて、新政府つくりもんそ」と笑った。
 別府晋介も「そうでごわす」と頷いた。        
「そいでよかごわそ」篠原国幹は酒をぐいぐいと呑んだ。
 明治七年十二月、岩倉具視が暗殺されそうになって河に飛び込んだ。大久保は「土佐か?」と尋ねたという。犯人は斬首になった。
 政府は「廃刀令」を発した。廃藩置県いらいの大改革である。
 それからは、失業した士族(元・武士)たちが次々と乱をおこした。           
 熊本に「神風連」を結成した不平士族の挙兵。
福岡の秋月の乱。
 長州士族たちによる萩の乱
 佐賀の乱…………
 政府は猛然と乱がおこる度に鎮圧のため海陸軍を総動員して立ち向かった。
 乱がおこるたびに、西郷吉之助は「さそい」をうけているが、
「よしなはれ」
 というだけだったという。首謀者たちは捕らえられ、斬首の刑になった。
 西郷隆盛は「このままでは佐賀や熊本の二の舞でごわす」と危機感をもった。
 しかし、同時に
「もう内戦だけはごめんでごわす。維新で大勢の血が流れたのはわずか五年前ではなかが。こん以上、血はみたくなか」とも思った。
 ……自給自足の、政府に頼らない地方政治……
 いつしか、西郷の頭にはそれだけが浮かぶようになっていった。
 明治七年四月、西郷は仮設の学校に有志たちをよんだ。
「どげんしたでごわす? 西郷先生」
 桐野利秋がきいた。
「いよいよ戦でごわすか?」とは篠原国幹。
 別府晋介は「いよいよ新政府樹立でごわそ?」と興奮した。
 西郷は黙って首をゆっくり横にふった。
「利秋どん、晋介どん、国幹どん………はやまってはだめでごわすぞ」
「先生!」            
「おいは…」吉之助は続けた。「おいはこの鹿児島に学校をつくるつもりでごわす」
「……学校? どげなです? 西郷先生」桐野利秋がきいた。
「私学校でごわす。今、東京にいる兵はだめでもんそ。政府に頼らず、自給自足の私学校をここ鹿児島でつくるでごわす」
「私学校? そいはよいでごわすな!」
 桐野利秋たちは賛成した。「それで自給自足せば、政府などいらんでもうそ」
「校長らは利秋どん、晋介どん、国幹どん………おんしらでごわす」
「え?!」桐野たちは驚いた。「校長は西郷先生でごわそ?」
「いんや。利秋どん、晋介どん、国幹どん…おんしらど」
「なら…規則を」
 西郷は笑って「こん学校はおんしらが規則ど。学校では兵学、砲学、経済などを教える。そして開墾もしもうす。おんしらでなければだめでごわそ」
「それはいい西郷先生! おいもそん学校設立に力貸しもうす」
 鹿児島県令・大山綱良がサポートを約束した。
 西郷は顔をしかめ「世間では士族(元・武士)たちのために西郷がたつなどとばいうて……おいは困っとりもうす。じゃっどん、学校なれば文句はないもうそ?」
 やがて、米国に留学していた吉之助の子・菊次郎と村田新八の子・村田岩熊の両青年が戻ってきた。「おお! 菊次郎! 岩熊!」
 吉之助はおおいに喜んだ。
「鹿児島私塾ごて?」大久保は目を丸くして驚いた。「西郷どん…はやまってはならんど! おんしがいのうなれば誰が国守るど?」

  菊次郎は米国で測量などを学んでいた。開墾にはかかせない人材になる。
「米国では男女平等というのがあってごわす」菊次郎青年は西郷家の晩食でおおいに自慢した。「この国みたいに女子が失礼にあつかわれない。むしろ女子は大事にされるとです」           
 イトが「ほんてごて? 女子が?」ときいた。
 西郷吉之助はにこりとしたまま御飯をほうばって何もいわない。
「そうでごす。女子にはレディ・ファーストといって先にすわらせるとか、踊り…ダンスも女子が優しくされるでごわす」
 菊次郎青年は続ける。「それに米国には汽車というのがあって、それで移動するんど。蒸気で動いてそりゃあ早いでごわす」
 団欒には西郷隆盛の妹・市の子・市来亮介青年と従兄弟・大山巌の子、辰之助の姿もあった。みんなはわきあいあいと食事を食べた。
 西郷吉之助はひとことも発せず、只、にこにこと食べ続けた。
 吉之助とイトは寝室で話した。
「旦那はん」
「……何ごて?」
 イトは言葉につまりながら「あ…愛加那さん? 奄美の……文でも書いてあげたらどげんです?」といった。
「おんしが気をつかうことなか」
 吉之助は諭すようにいった。
「でも、菊次郎も無事にもどったことですから…」
「文ならいつでん出せもうそ?」
「そげんこつ……」      
「何ごておんしは愛加那に拘るでごわすか?」
 イトは言葉をのんだ。そして「そりゃあ……菊次郎が…」と何かいいかけた。
「そげんこつ気にすることなか!」
 吉之助はそう強くいった。イトは抵抗をあきらめた。旦那のいう通り、気にすることはないのだ。島妻はしょせん愛人の域をでない。自分が本妻じゃなかか。

  私学校生徒の希望で開墾がはじまった。
 開墾の測量には菊次郎たちが役だった。生徒たちの自発的行動に西郷吉之助も喜び、
「おいも力を貸しもそ」
 といい、開墾地へむかった。
「若い者が、百姓に苦しみ、よろこびを共にするのはもっとも大切でごわす」
 共に泥まみれになって鍬をふるい、西郷を神のごとく敬う青年たちの感動はひとしおのものがあった。学生の数はしだいに増え、ピーク時には二万人にまでなったという。
 西郷と桐野利秋たちの話しの中で「ナポレオンの話」が話題にのぼった。
 すると西郷が「革命をおこし、領土を広げたのはよかばってん。最後に自ら皇帝になりもうしたのは晩節を汚したことでごわす」
 と顔をしかめた。
 別府晋介も「そうでごわす」と頷いた。
「西郷先生はナポレオンみたいにならんでごわそ」篠原国幹はいった。
「……国幹どん。おいはナポレオンみたいにならんでごわす。おいには野心などごわさん」 吉之助は謙虚にいった。                              
 陸軍少将西郷従道(吉之助の弟)はマラリアを理由に、鹿児島へ船で向かっていた。
「兄さん……馬鹿な連中に御輿にのせられておかしなことせんでもうせよ」
 従道は軍服のまま遠くに見えてきた桜島をみて、呟いた。
 彼は遠くをみるような目になった。不安は隠せない。
 しかし、そんな不安も、吉之助と再会して消し飛んだ。             
「兄さん! ひさしうござる!」
「おお! 慎吾(従道)! 慎吾じゃなかが!」
 ふたりは抱き合った。
「……兄さん。馬鹿なことしよっとじゃなかと心配しよったとでごわすぞ」
 吉之助は笑って「馬鹿んごつて?」
「士族たちに御輿に乗せられて戦ばしよっとばってん。東京中のうわさじゃ」
「そげなことなか!」吉之助は強くいった。「おいは学校つくって開墾しておるだけじゃ。生徒の中に士族たちもおるが……戦なんとぞ馬鹿らしか」
「そんでごつか? そげんこつきいて安心したでごわす」
「くだらんこと心配しおって…」
「やっぱり兄さんは兄さんじゃ。よかばってん。偉きひとじゃ」

                      
  西郷従道(吉之助の弟)はイトといるとき、ごほごほと咳をした。 
「風邪でごわすか? 従道はん」
 イトは、風邪薬もっときますか? といった。
 が、従道は断った。
「従道はんは陸軍少将でごわそ? 重要な人材なんでごわすから体には気いつけとうせ」 イトの優しい言葉に、兄を疑っていた自分が恥ずかしくなった。
 なぜか、涙腺が潤んだ。
 従道は涙を、上を向いて堪えた。
「学校で開墾して…この薩摩を日本一の豊かな国にするばってん」
  深夜、ふとんの中で、息子の辰之助がいった。おいっ子の菊次郎も「おじさん。みててくれもうそ。薩摩は日本一になるでごわす」といった。
 暗くてわからないが、ふたりと村田亮介青年たちは笑っている気がした。
 従道は「そいはよか。そいはよか」といった。
  翌朝、西郷従道は帰京することになった。
「慎吾(従道)……あんさんは国を背負っちょる。体に気いつけて頑張りもうせ」
 吉之助は励ました。
「……兄さん」
 市は土産をさしだした。「これをもっておいてくれやす」
「そげん気いつかわんでもよかとに」
「気持ちですけぇ」
「……ありがたく頂きもうそ」
 西郷従道は頭を下げた。そして、菊次郎たちに「おいの分も兄さんを助けてもうせ!」 と、頼んだ。
 これが、西郷吉之助と従道兄弟の最後の別れとなる。

  明治三年四月、ふたたび開墾が始まった。
 菊次郎の妹・菊草少女が五年ぶりに鹿児島にやってきた。「菊草! 菊草じゃなかが!」「兄さん! 兄さん!」菊草少女が手をふってやってきた。
 愛加那はこなかった。
 私学校では竹刀での稽古もあった。
 多くの青年たちが竹刀で稽古をしている。そこに現れたのが出羽(山形県)元・庄内藩の青年ふたりである。名を篠原政治と伴兼之といった。
「おんしら一緒に稽古できるがか?」薩摩の青年たちは山形県人を笑った。
 伴は「稽古ぐらいでぎる!」といった。
「伴ちゃん! 挑発にのっではだめだで…」
「んだども! こいつら俺らを馬鹿にしでるぞ。俺らもでぎるって示すんだず」
 薩摩隼人たちは、純朴な東北の青年に興味を抱いた。       
  明治九年七月、大久保らは閣議を開いた。「鹿児島は火薬庫じゃ」
 大久保利通(一蔵)や木戸考允らは危機感をもっていた。
「西郷どんがいるかぎり……本当の維新はおわらん。鹿児島で戦でも起こりゃあどげんすっとか?」
 鹿児島県令・大山綱良は「おいは辞めもうす。鹿児島にもどって西郷先生とともに開墾するばってん」といった。 
 木戸考允(桂小五郎)は苛立った。
「私には長州士族を征伐した苦い経験があります。薩摩のことは薩摩だけで片付けてもらいたい!」
「……木戸どん」大久保が諫めた。
 すると、日頃の激務が祟ってか、木戸考允(桂小五郎)はふらりと倒れてしまった。
「木戸どん! 木戸どん! 誰か医者じゃ!」
  全国で次々と乱が起こる。
「西郷先生、たってくだされ! われらの頭に!」
 明治政府に不満をもつ士族たちが、しきりに西郷隆盛(吉之助)に「さそい」をかける。 東京では、西郷隆盛のいとこ・大山巌(弥助)が、鹿児島征伐長官に任命される。
 大山巌は、
「西郷さんは本当にたつじゃろか?」と西郷従道にきいた。
「兄さんは馬鹿ではなか。たつ訳ありもさん」
 従道は強くいった。
「しかし、従道どん……西郷先生は人がよすぎるところがありもうそ?」
「…じゃっどん…」
「勢いに乗せられて、御輿に担がれてってこともありもうそ?」
「たつことはなか! 兄さんは馬鹿ではなか! たつ訳ありもさん!」
「なにごてそういいきれもんそ?」
「わしは兄弟じゃ。兄さんのことは一番よく知っちょる」
 大山巌は、頷いた。
「確かじゃな? 西郷先生は立たぬのじゃな?」
「そげんこつ心配するだけ杞憂というもんじゃで」
 西郷従道は強くいった。
 ようやくわかりかけた大山巌は、心配ないとわかりながら、

 ……”サイゴウセンセイ タツナ”……

  と、鹿児島の西郷吉之助の元に電文を打った。

  西郷吉之助はそれを見て、「おいはたたん!」と強くいった。
 西郷と桐野利秋たちの話しの中で「明治維新の話」が話題にのぼった。
 すると西郷が「維新をおこし、幕府をつぶしたのはよかばってん。まだ維新はおわっちょらんでごわす」
 と顔をしかめた。
 別府晋介も「そうでごわす」と頷いた。
「西郷先生はナポレオンみたいにならんでごわそ」篠原国幹はいった。
「……国幹どん。おいはナポレオンみたいにならんでごわす。おいには野心などごわさん」 吉之助はまた謙虚にいった。
「まだ明治政府のおもいどおりの近代国家にこの国はなっとらんじゃなかが?」
「そうでごわす。まだ士族たちが暴れまくっちょりもうす」
 別府晋介は吉之助の言葉に答えた。
 篠原国幹は「ハネっかえりどもはおいが叩き潰しもうそ」といった。
 すると桐野利秋は「それはこの”人斬り半次郎”の役目でごわそ?」とにやりとした。 一同は笑った。
 しかし、全国の士族たちの熱気は冷めることはない。
「おいはたたん!」
 西郷吉之助は強くいった。
「おいはそげな簡単に御輿に乗せられるような馬鹿ではなか!」
 しかし、時代は西郷吉之助を暗黒の渦の中へ巻き込んでいく。
 ………おいはたたん!
 西郷吉之助は、そののち「西南戦争」へとまきこまれていく。
 それは、維新の英雄・西郷隆盛が時代に捨てられるプロローグでも、あった。




          維新三傑の死と政争
         





「………西郷さんが」
 大久保利通(一蔵)の妻・清子は嘆いた。
「ほんてごつ…必要な戦じゃろうがか?」
 利通は複雑な思いだった。
「西郷どんが士族たちの御輿にのせられもうして……こげんこつに…」
 やりきれない思いだった。西郷どんはもう……生きては帰ってこんじゃろうか?
  鹿児島県警の牢屋では、ひとり喜ぶ者があった。
 中原尚雄である。
「はははは…」牢屋で大笑いである。「おいの策にはまりおって……何が維新の英雄ぞ! まんまとおいの策にはまって……戦ば始めおった。馬鹿じゃ」
 もはや鹿児島では「西南戦争」の煽りで混乱しており、もはや中原尚雄の処分どころではない。
 ……まんまとおいの策にはまって……馬鹿ばい! 馬鹿ばい!
 牢屋の外の、行軍の無事を祈るラッパの音、をききながら中原は腹を抱えて笑った。
  三月十日、鹿児島城に政府軍がやってきた。
 前の藩主・島津久光は下座にいて、いきおい平伏のようになっている。
 黒田清隆は久光に「廃藩」の書と、「西郷隆盛軍討伐」の書を上座からみせた。
「そいでは、おいはこれで」
 黒田が場を去ろうとすると、久光が、
「偉うなったもんじゃのう。え? 黒田清隆! 元々はおんしはわしの家来じゃやなかど」 と嫌味をいって、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「……時代が違いもうす」
 黒田清隆はそういった。「もうこの国に殿様はいらんがかでごわす」
「おのれ! 呪ってやる! のろってやる!」
 久光が暴れるのを尻目に、黒田清隆は城を後にした。
 そののち、元鹿児島県令・山本綱良が警視庁に逮捕され、東京に護送された。そして数か月後、山本は処刑されてしまう。
 雨が激しく降る。田原坂では、武力に勝る官軍も薩摩軍の勇猛さに手を焼いた。警視庁隊に警視庁一等大警部・佐川官兵衛がいた。彼のシャツには会津戦争で死んだ戦友たちの名がかかれている。新選組の土方歳三をして「鬼の官兵衛」といわれて恐れられた男である。彼はいった。
「勝てば官軍、負ければ賊軍。俺はかならず勝つしかないと思う!」
 佐川官兵衛は警視官たちに激を飛ばした。
 しかし、そんな官兵衛も戦死してしまう。
 三月二十日、雨……
 薩摩軍と政府軍との戦い。山形から参戦した伴兼之が、弾丸を受けて死んだ。政府軍の中には伴の兄・鰄成信がいた。弟を探していた。そして、
「?!」となった。弟の死体を発見したからだ。山林に弾丸や大砲が乱れ飛ぶ。
「おい! おい!」成信は血だらけの弟の死体にすがりついた。
 しかし、悲劇はその後に起こる。伴が殺されたと思って、怪我して彷徨っていた篠原政治は、鰄成信を背後から斬り殺した。
 が、そんな篠原政治も流れ弾に当たって死んだ。
 菊次郎は大砲の爆風で、右脚を失った。ぎゃあああ~っ!
 菊次郎は激痛で悲鳴をあげた。
 四月六日、激戦。死骸の山が山林に大量に横たわっていた。
 四月十九日、薩軍は敗走しだす。
 陸軍三番隊隊長・永山弥一郎は、
「もはやこれまででごわす」と弱音をはいた。
 政府軍の大砲の音が轟く。部下は、
「西郷先生を守りもうそ! 隊長!」とすがった。
 永山は、「もう無理でごわそ? おいはもう駄目じゃと思う」
 と呟くようにいった。
「なにごて?! 西郷先生が生きておる限り、薩摩は負けもうさん」
「……じゃっどん。もう敵に囲まれとうぞ」
「先生は維新の英雄じゃっどん。負ける訳なか!」
 永山は「せからしか!」といい、脇差しをもち自刃した。
「隊長! おいたちも一緒にいきもうす!」
 部下たちも次々と自刃した。
  五月五日、薩摩軍と政府軍は鹿児島近くで激突した。薩摩軍はバタバタと敗れて数が少なくなった。鹿児島の西郷邸では逃げる状況にあった。
 川口雪篷は「はよう! 急いで逃げにゃ政府軍が来るとぜ」とせかした。
 イトたちは荷造りをしている。
「急がんせ!」川口はハッとなった。政府軍の制服さんたちが襲撃してきたからだ。
「なにごて?!」川口は文句をいった。「おいたちがなにしよっと?!」
 軍人たちはイトたちを連行して「人質」にしようとした。
「せからしか! 何すっとか?!」
 すると、西郷隆盛のいとこ大山巌が軍服のままきて「おんしら、去れ! さがりもうせ!」と怒鳴った。政府軍兵士たちは去った。
「……大山どん」川口は弱々しくそういってくたりこんだ。
 こうして、西郷隆盛の家族たちは助かった。
  またも薩摩軍と政府軍は鹿児島近くで激突した。
 銃にしても薩摩軍は旧式なのに対して、政府軍の銃はマシンガン連発銃である。
 薩摩軍は次々と敗走しだす。
 そんな中に銃弾を浴びて大怪我をした大山辰之助が、政府軍に捕まった。
「辰之助! 辰之助!」
 父親の大山巌が軍服のまま病院に駆けつけた。「しっかりしろ! 辰之助!」
 寝ている辰之助に、父・巌は声をかけた。「なんしても、死なんでよかとか」
 すると辰之助が目を開けて、父親にツバを吐きかけた。
 重体で起き上がることさえできない。
「何すっとか?! 辰之助!」巌は叱った。
 辰之助は「西郷のおじさんは政府と話しようと立ち上がったの…で…ごわす」
 と、あえぎあえぎいった。
「………辰之助!」
「政府……に……尋問…の…筋…これあり…」
 そうあえぎながらいうと、辰之助は息をひきとった。
「………辰之助! 辰之助!」
 父・大山巌は遺体にすがって泣いた。……なにごてこんな子供まで死なねばならんとがか?! こげんこつ許されていいかが?!

  京都で、木戸孝允は病のなかにあった。
 木戸はふとんで横になり、激しく咳き込んだ。大久保利道がみまっていた。
「…大久保さん……もう僕は駄目かも…知れないよ」
 木戸は弱音を吐いた。
「なにごて?」
「僕の役目はおわったってことだよ」
「何を弱気なことを……天下の木戸孝允が。天下の桂小五郎が」
「…ぼ…僕らはね歴史に選ばれたのだよ。だから維新の動乱…を…生き抜けた」
「…木戸どん!」
「でもね」
 木戸孝允は咳こみながら「でもね。維新がおわって必要となくなったら……神仏は僕らを天に召されるのではないかい? 必要なくなれば僕らは歴史の波に流されてしまうのだよ」といった。
 大久保は「弱気はいかんがど。木戸どん」
「……国づくりは新しいひとに…まかせ…よう。大久保さん」
 木戸は激しく咳こんだ。
 ………何を弱気なことを……天下の木戸孝允が。天下の桂小五郎が…
「木戸どん。維新を無駄にしてはならんとぞ」
 大久保利通は木戸にいった。
 こののち木戸は病死し、あの”殺戮集団”新選組ともわたりあった木戸孝允(桂小五郎)はあの世のひととなった。
  八月二日、西郷隆盛の弟・従道は船で鹿児島へ向かった。といっても戦争に参加するためではなく、天皇の巡幸の警護のためだった。
 従道は甲板に立ち、悲運な最期をとげるであろう兄・西郷隆盛(吉之助)のことを思った。……なにごて兄さんは御輿に乗ってしもうたがとです?
 ……惜しか。兄さんは維新の功労者…英雄じゃなかとでわないがか。そんな兄さんがつまらん戦をおこして自決するのはみたくなか。……
 従道の頭の中に走馬燈のように「西郷隆盛」の言葉が、勇姿が、浮かんでは消えていった。小さいときに鹿児島の野山で遊んだことも。
 ……惜しか。あまりにも惜しかひとじゃっどん。犬死にみていなのは兄さんには惜しかことじゃ。じゃっどん、もうとりかえしがつかなか。……     
  八月十四日、政府軍は熊本の薩摩軍支配地を占領、薩軍は鹿児島へ遁走しだした。
 薩摩軍の病院には、大勢の怪我人が運び込まれ治療を受けていた。
 その中には右脚を失った西郷菊次郎(吉之助の息子)の姿もあった。
「みんな、すまんかったど」
 突然、電撃的に西郷吉之助(隆盛)が病院にやってきた。軍服姿である。
「…さ…西郷先生!」
 病人も怪我人も一同が驚きの声をあげた。中には泣き出す者まででる始末だ。
「明日はおいが指揮をとる。駄目なら全軍は解散じゃっどん」
 西郷吉之助はいった。
 すると、菊次郎が「おいもいき申す」とあえぎながらいった。
「菊次郎……もうおまはんの軍人としての役目はおわったが。今はこの病院を守るのがおまはんの仕事ぞ」
 西郷吉之助は優しい微笑みを浮かべて、息子にいった。
 そして、一同に「政府軍の中には鹿児島の仲間も大勢いっと。おんしらを殺すようなことは絶対にありもうさん。安心せい」と激を飛ばした。
 西郷は紙に筆で『病院』と書いた。
「これを玄関に貼ってもうせ。せば間違いはおからんじゃろう」
 吉之助は、無理に口元に笑みを浮かべた。
「……菊次郎。今度はおまはんが皆を守る番じゃっどん」
「父上!」
 菊次郎は涙を流した。これが、西郷親子の永遠の別れとなった。
「では、もうひと暴れしてくるもんそ」
 西郷隆盛は去った。
  八月十五日、薩摩軍と政府軍がはげしく激突する。
 西郷は犬をつれて軍服で、別府晋介や桐野利秋らと歩いていた。
 銃弾や流れ弾が飛び交う。
 血で血を洗う戦の中、西郷家の下僕や親類たちも自刃していった。
「こげんこつ負け戦とばなるとは、思っちょりもうさんでごわした」
 西郷隆盛は弱音を吐いた。
「西郷先生! 戦は勝つも負けるもときの運でごわそ?」
 桐野利秋は自分にいいきかせるようにいった。
「じゃっどん。もう薩軍はほとんど壊滅状態じゃなかが」
 桐野は言葉がでなかった。
「篠原国幹どんの死を……無駄にしないで頑張ってやりもうそ」今度は、別府晋介が口をはさんだ。
 西郷は顔を変えずに「国幹どんは自ら死を選んだごて。赤い派手なマントを着て、銃弾をうけて死んだとでごわす。自殺と同じど」
 といった。
 ……篠原国幹どんの気持ちばわからんでもなか。……
  政府軍は、薩軍の病院までやってきた。
 館の玄関に『病院』と書いてある。西郷隆盛の手書きだ。
 政府軍兵の突入に怪我人たちもいきり立ち、「薩摩への裏切り者!」
 との声があがった。
 菊次郎は脇差しを手にもち、自決しようとした。
「よさんか!」
 それを止めたのは西郷従道だった。
「……叔父上! 死なせてくれもうそ!」
 西郷従道は「いかんがど!」と菊次郎を諫めた。「いかん! 命を無駄にしてはならんど!」
「じゃっどん……おいどんらは負けたとでごわす」
 菊次郎は涙を浮かべた。
「あの『病院』いう字は兄さんの字ではなかが? 兄さんはおんしらに生き抜いてほしいて思ってあれ書いたとばい」
「……じゃっどん」
「もうよか!」従道は強くいった。「もうよか! もう誰も死ぬことなか!」

  大山巌と西郷従道は鹿児島へ入った。
 従道は「天皇陛下にことの次第をご報告しない訳にはいかぬ」と顔をしかめた。
「陛下はなんとお言葉を述べられるであろうか?」
 大山巌は素直にきいた。
「知るものか。天皇陛下は只おききしているだけであろう」
「そうでごわそうか?」
 従道の言葉に、巌は口をはさもうとした。「陛下は吉之助どんを許して生かしてくれんじゃろうか?」
「無理でごわす! それでは維新は本当にはおわらん。また士族たちの御輿に乗せられて兄さんは暴走するだけじゃど」
「……じゃっどん。吉之助どんは維新の英雄じゃなかが」
 従道は「維新の英雄でも、今は朝敵になっておる。このまえ勝海舟先生におおたら、西郷さんは情に弱すぎるから御輿にまんまと乗せられたんでい……とばいうちょった。兄さんのはひとつの病気みたいなものじゃ。負けねばわからんのよ」
「従道どん。それではあまりにも吉之助どんが馬鹿みてぇなことになるじゃっどん?」
 従道は首を横にふって、                    
「おいは兄さんを馬鹿扱いなどしとらんど」と否定した。
「…ならなして吉之助どんを批判する?」
「挙兵が無謀だっただけじゃというとる。おいも兄さんに生きて帰ってきてほしか。榎本武揚は捕まっても殺されなんだ。兄さんも白旗あげて投降すれば命だけは助けられるかも知れん」
 大山巌も「そいがよか。投降してくれればありがたか」と同意した。

  西郷はついに全軍を解散して、八月十九日朝……わずか五百人の兵をひきいていた。 紐につないでいた秋田犬・シロとクロをの縄を解いてやり、逃がした。
「どこんぞでも好きな場所で暮らせ。銃弾にあたってはつまらんぞ」
 西郷は駆ける犬たちに笑顔で手をふった。
 桐野は「まるで主人のいうことをよくきいているように駆けていくじゃっど」
 と関心した。
「西郷先生の犬は賢こか」        
 別府がいうと、一同は笑った。もう皆肝がすわっている。
 ………もう戦に勝つことはできない。元武士らしく潔く自決しよう…… 
「鹿児島?」          
 山県有朋は部下にききかえした。
「西郷とその側近らは、九月十九日、鹿児島へもどったそうです!」                      
 部下の言葉に、有朋は「鹿児島? いよいよ西郷先生も意を決したでごわすな」
 と神妙な面持ちになった。                     
「旦那さんが鹿児島に戻ってきたそうな!」川口はイトにつげた。
「……旦那はんが?! 勝つたのでごわすか?」
 川口は深い溜め息をつき、肩を落とし「いやぁ、負け戦じゃっど。先生はわずか五百余りの兵に守られて岩城に立て籠もっとるそうじゃ」
「旦那…はん……やはりもうあんさんにはあえんとでごわすなぁ」
 イトは涙を浮かべた。
  西郷たちは私学校校舎に向かい、破壊された校舎を茫然と眺めた。
 鹿児島中パニックの中、涙の西郷残党軍は、武器を城山へと移した。
 城山は、旧島津家の居城……鶴丸城の背後にある標高一、五キロメートルのちいさな山であるが、天然の森林と多数の亜熱帯植物がおいしげり、冬でも鬱蒼な緑に覆われている。 西郷隆盛は、政府軍の砲撃をさけるため、城山の祠にわずかな残党兵たちをひきいて山頂に陣取っていた。籠城である。堂々たる薩軍を率いて……?
 いや、もう戦には負けたのだ。
 薩摩の女たちも「西郷先生がお気の毒じゃ」と岩城に食事や酒を運んだりしたという。 官軍(政府軍)はそれを見て見ぬふりをした。
「そのまんまにしてとうせ」
 官軍もなかなか理解がある。
 政府軍の中にも「西郷ファン」が多い。………西郷先生が死ぬことなく降伏してくればおいも嬉しか……

「西郷先生!」桐野は軍服のままで「何考えちょっとごわす?」ときいた。
「なんも……ただ、死あるのみ」
 桐野利秋は泣いた。「すみません先生! おいらがふがいないせでこげんなこつに…」「いや、利秋どんのせいではなか」
 河野圭一郎は「おいが先生を命がけで助けもうす! 官軍に降伏すれば先生の命だけは助かりもうそ」といった。
 西郷は首をゆっくりと横にふり、「おいだけ生き残ったら……死んだ同志たちに顔向けできもうさん」といった。
「じゃっどん……」
「もうよか。もうよか」吉之助は覚悟をきめていた。
 政府軍は完全に岩城を包囲してじらし作戦をしていた。
 薩摩軍から投降した中津によって、西郷隆盛が生きて城山にいることがわかった。
「城山への総攻撃は九月二十八日である」山県有朋は籠城する西郷軍残党に告げた。
 九月二十七日、西郷吉之助の下僕・熊吉爺が、イトに着物を渡された。麻染の新しい着物だった。イトは「旦那はんの軍服も汚れちょうだろうからこの服を城山に籠城している旦那はんに……届けておくれ」と頼んだ。
「わかりもうした!」
 熊吉爺は了解した。
 そして、熊吉爺は官軍に狙撃されながらも、銃弾の中を城山へ到着、吉之助の妻・イトの差し入れでもある「新しい服」を吉之助に手渡した。
「熊吉爺! よくきてくれた!」
 西郷は風呂敷をあけて、中の新しい服をみた。「イト……」涙がこぼれそうになった。 その夜、焚き火をして円陣を組んでいると、誰かがハーモニカを吹きはじめた。
 ♪タタタッタッタッタッタータタ、タタタタッタータタター
 西郷は興味をもち、「そいは何の曲ぞ?」と尋ねた。
「革命の曲でごわす。フランス革命でごわす」
「そいはいい」
 一同は円陣を組み、腕をからませて「革命」の曲にもりあがった。
 西郷は少年兵たちを逃がし、いよいよ西郷隆盛の近辺にはわずか百にもみたない兵だけになった。西郷隆盛は「こいでよか……」と、悟りの境地でもあった。

  明治十年九月二十四日、午前三時五十五分。
 号砲が鳴り渡るとともに、政府軍は城山の岩崎谷を目指して総攻撃を開始した。
 砲弾や銃弾が乱れ飛ぶ。
 空が紫色になり、朝がやってきた。
 政府軍は、城山から徒歩で降りてきた西郷たちに大砲や銃弾を浴びせかける。
 西郷隆盛は、浅黄縞の単衣に紺の脚絆、わらじばきの姿で、腰に短刀をさし、杖をついて整列した桐野、村田、別府、池上らとともに、
「そろそろいきもうそ」
 いった。ときに五十一歳である。
 この朝の猛攻撃は二時間もかかったという。
 政府軍の銃声や大砲はやまらない。
「おいが防ぐ。そのあいだに西郷先生を守りとうせ!」
 桐野が別府にいった。
 そして、桐野は刀を抜いて駆け出した。
 進軍のラッパがきこえる。
「………行きもうそか」
 誰にいうでもなく、西郷隆盛は歩きだす。
 岩崎谷では砲弾、流弾がとびかい、死ぬ者も続出する。西郷はのろのろと歩き続けた。 このとき、西郷に付き添うのは別府晋介と辺見十郎太のふたりのみとなっていたという。 村田も池上も、その他の幹部たちも銃弾にたおれ、バタバタと死んでいった。
 岩崎谷を出た。
 急に展望がひらける。
 桜島の噴煙がみえた。
 別府晋介が駆け寄り、
「西郷先生。この辺で、ゆわでごわそ?」ときいた。
 この辺で自決しましょう、ということだ。
 政府軍の喚声と銃弾が飛び交う。銃弾しきりだった。
 西郷隆盛の巨体がくずれたのはこのときだったという。
 西郷は弾丸に腹と脚をやられた。血がしたたり落ちる。
「西郷先生!」
「別府どん。弾にやられもうしたばい」
 と、西郷隆盛はいう。
「先生! ここで、ゆわごわんすか?!」
「別府どん……おいの首はねもうせ…」
「はっ!」
 別府は刀を抜き、地面に崩れてうなだれた西郷隆盛の首に狙いを定めた。
「ごめん!」
 打ちおろした別府の一刀で、西郷隆盛の首は落ちた。
「……先生の首を渡すな!」
 午前九時頃、城山に、まったく銃声は消こえなくなった。
 西郷の首は、熊吉によって埋められたが、のちに発見された。これより先、首のない西郷の遺体が政府軍により発見されたが、年少のころに右腕に受けた刀痕と病気によって肥大した巨大な皋丸によって、西郷の死が確認されたそうである。
  イトたち西郷家の女たちは城山を遠くでみていた。
「……銃声がなりやんだど」イトは遠くの岩山に思いをはせた。
 やがて、馬にのって大山巌がやってきた。
「大山どん! 戦は?! 旦那はんは?!」
 大山はやりきれない思いで、「戦はおわりもうした。皆、死にもうした…」といった。「……これで、西郷家の女たちはみな後家になりもうした…」
 イトは放心状態で呟いた。
「大山どん、ありがとうごぜえました。わざわざ伝えて頂いて……」
「いやあ」大山巌は首をふった。「西郷先生は軍服ではなく羽織着ちょったそうでごわす」「……羽織り? あたしが届けさせたもんじゃろうか?」
「姉さん。わしは用があるので……これで失礼する」
 大山巌は馬にのって去った。
 イトの全身の血管の中を、悲しみが駆けめぐった。それは冷たいなんともいいようもない悲しみ、絶望で、身がちぎれるほどの痛みが胸にきた。
 ……旦那はんが戦死しよったばい……
 イトの瞼を涙が刺激した。小刻みに震えた。そして、号泣した。
 旦那はん! 旦那はん!
 これが、イトと西郷隆盛との別れである。

  イトは、奄美大島の愛加那に、西郷隆盛の死をしらせる文をおくった。その愛加那は明治三十五年に六十五歳で亡くなる。その子、菊次郎と菊草も長生きして、六十歳の天寿をまっとうする。西南戦争では薩摩軍兵士六千七百人が戦死した。
 のちに供養塔がたてられたのも当然のことである。
 大久保利通は、その後も政治にたずさわり、励んで一歩一歩日本を近代国家に近づけるために邁進した。が、明治十一年五月十四日の朝、馬車に乗り赤坂・紀尾井坂を通過したところ襲撃され、石川県士族・島田一郎らに刀で何度も斬りつけられた。
 馬車の乗員は逃げ、大久保は早朝、血だらけのまま馬車からころげ落ち、のたうった。「……木戸どん……おんしの…い…う通りに…なりもうしたばい…所詮おいどんら…は…歴史の波に流され…ただけじゃっどん…」
 大久保利通暗殺……
 享年四十七歳。
 こうして、西郷、大久保、木戸という真に維新に貢献した維新三傑の英雄たちは新政府発足後わずか十年でこの世を去ったのである。
  そののち、西郷隆盛の名誉回復につとめた勝海舟も世を去った。
 そして、維新はこれで、本当におわった。

  維新三傑の死後、政権の中枢にあったのは伊藤博文と井上聞多、大隈重信だった。長肥政権である。長州は伊藤博文と井上聞多(馨)、山県有朋、薩摩からは西郷隆盛の親族の西郷従道、肥前からは大木喬任。ちなみに伊藤博文が初代内閣総理大臣になった第一次伊藤内閣のメンバーは、

   太政大臣    三条実美  
   右大臣     岩倉具視
   左大臣     空席
   内務(内閣総理大臣)伊藤博文(長)
   大蔵      大隈重信(肥)
   外務      井上馨(長)
   司法      大木喬任(肥)
   文部      寺島宗則(薩)
   工部      山田顕義(長)
   陸軍      西郷従道(薩)
   海軍      川村純義(薩)
   北海道開拓長官 黒田清隆(薩)
   参謀本部長   山県有朋(長)

 である。オールスター・キャストであった。そののち、伊藤博文は欧米視察後、「脱亜入欧論」を発表、「明治憲法」を制定した。そのときのドジは明治天皇を「国家元帥」とし、またしても「錦の御旗」を掲げたことだ。このときに伊藤博文は「天皇制」など「無力だ」とわかっていた筈である。所詮は「帽子飾りに過ぎない」と。
 しかし官軍よろしく、「錦の御旗」として明治天皇を「元帥」とした。
 天下の愚策であり、このことが「日本の軍事大国化」「侵略論」へとつながっていったのは言うまでもない。明治の世はこうしてスタートした。


竜馬とおりょうがゆく 樽崎龍の波乱の生涯<維新回天特別編>ブログ連載小説5

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  江戸にいるうちにいつの間にか龍馬は、「おなじ土佐藩士でも、上士は山内家の侍であり、郷士は日本の侍じゃ」と考えるようになっていた。
 土佐城への忠誠心は、土佐郷士は薄いほうである。
 江戸から戻り、土佐を歩くうちに「なんだ。これなら帰らずともよかったぜよ」と思った。土佐では先の大地震の被害がみられない。地盤がかたいのだ。
 龍馬が帰宅すると、「ぼん!」と源おんちゃんが笑顔で出迎えた。
「ぼんさん、お帰りんましたか」
「帰ったきに」龍馬はいった。「おいくりまわりの者(ぶらぶらしている人という意味。土佐弁)じゃきに」
「ぼんが帰りましたえ!」おんちゃんは家のものをよんできた。
 家の者に挨拶した龍馬だったが、やはり乙女はいなかった。嫁いだという。
 龍馬はさびしくて泣きたくなった。
  さっそく龍馬は岡上の家へと向かった。
 すると乙女が出てきて「あら? 龍馬」と娘のような声でいった。可愛い顔で、人妻のようには思えない。「いらっしゃい! あがっていって。主人は外出中だけれど…」
「おらんとですか?」
「ええ」
 龍馬は屋敷の中に入った。
「姉さんとふたりきりだと恥ずかしいぜよ」
「なんで? 姉弟じゃきによ。また昔みたいに足すもうでもやるか?」
「いや」龍馬はにやりと笑った。「また、姉さんの大事なところをみてしまいそうじゃ」 乙女は頬を赤らめ、「他の女のあれはみとらんじゃろうな?」ときいた。
「いや。もうすこしでみれるところじゃったが、みれんかった」
「龍馬も大きくなったね。そんなことまで考える年頃になったきにか」
「もう二十歳じゃもの」
 龍馬は笑った。
  まもなく乙女の旦那、岡上新輔が帰ってきた。かれは龍馬に「おんしは壤夷派か?」 ときく。痩せた背の低いやさ男である。もう四十代のおっさんで禿げである。
 また浮気して乙女に箒で叩かれては逃げた。
「違いますきに」この頃の龍馬には『譲夷』など頭にない。
 龍馬は気を悪くしながら実家へと戻った。
 ……あげな男が旦那では乙女姉さんもかわいそうじゃ…
 実家にいくと客が来る来る。「黒船はみたか?」「江戸にはいい女がいたか?」
 龍馬は馬鹿らしくなって「みとらん。知らん」などといって部屋にもどった。
  しばらくするとお田鶴さまがやってきた。
「龍馬どのに会いにきました」
「え?」
「江戸から帰ってきたときいております。黒船のことについてしりとうごさります」
 龍馬とお田鶴は部屋で向かいあって話した。世間ばなしのあと、
 お田鶴は「汚のうございますね?」という。
「朝から顔を洗ってないですき」
「いいえ。部屋がです」彼女は笑った。
 ふいにお田鶴は「幕府など倒してしまえばいいのです」などと物騒なことをいった。
「いかんきに! お田鶴さま! 物騒なことになるき」
「では、龍馬どのは幕府を支持するのですか? 幕府は腐りきってますよ」
「…じゃきに。たしかにわしもこのままでは日本は滅ぶと思うきに。しかし、家老の妹さまがいうと物騒じゃからいわんほうがいいぜよ」
「わたしは平気です。田鶴が、このひとのためなら、というひとがひとりいます。そういうひとがいれば、田鶴は裸で屋敷を駆け回っても、幕府を批判しても怖くはありませぬ」「………それは誰です?」
「そのひとはあまりにも子供っぽくて、田鶴のことなど何とも思っていないかも知れませぬ」田鶴は龍馬の目をじっとみた。そそるような表情だった。
 ……まさか。わしか?
 純粋無垢な少年のような考えを龍馬はもった。お田鶴さまがわしを好いちゅう?

  龍馬とは妙な男である。
 せっかくお田鶴との逢引までことが進行したのに、見知らぬ医者の娘の屋敷に忍びこんだ。相棒の馬之助も屋敷に忍びこんだ。「どうぞ。雨戸を外しますから」
「相手は誰じゃ?」
「お徳という娘です」
 龍馬はお徳の部屋へと忍びこんだ。「誰です?」
「龍馬というき。夜ばいにきよった」
 お徳は相手をしてくれた。初めて女を抱く龍馬は興奮しきりだった。インポにはならなかった。ちゃんと勃起した。お徳は寝巻を脱ぎ、あられもない姿になった。
 龍馬も裸になり、オッパイを揉んでしゃぶりついた。そして、あそこをまじかにみて愛撫した。しだいに濡れてくる。お徳は「はあ、はあ…」と息が荒くなる。
 これは突かねば……龍馬はクリトリスを愛撫しながらおもった。                                  
 腟の位置がわからない。するとお徳は龍馬の”いちもつ”を腟へと導いてくれた。
 …はあ、はあ、はあ、龍馬さま…
 …お徳! お徳! ……
 挿入してピストンするまで時間がかかったが、なんとか無事に射精することができた。 龍馬は初セックスで気持ちよかった。が、お徳のほうはいまひとつだったようだ。
 こうして、龍馬は本当の「女」を知った。
 その壮快感のまま、龍馬は江戸へと戻っていった。

  江戸の千葉道場に戻ると、貞吉も重太郎も涙をにじませてよろこんで出迎えてくれた。 ……土佐もいいが、江戸っこは人情がある…
 龍馬はしみじみ思った。
 土佐に帰っている間に、重太郎は妻をもつようになっていた。               
「お八寸というのだ。せいぜい用をいいつけてくれ」
「お八寸です。どうぞよろしくおねがいします」頭を下げる。
 涼しい眼をした、色白の美女である。龍馬のすきなタイプの女性だった。
 ……こりゃいかん。わしがすきになってはいかんぜよ
「龍さんはどうだい? 結婚は……相手ならいないでもないぞ」
「待った!」
 龍馬はとめた。さな子の名がでそうだったからである。

  龍馬がひとを斬ったのはこの頃である。夜、盗賊らしき男たちが襲いかかってきた。龍馬は刀を抜いて斬り捨てた。血のにおいがあたりを包む。
 しかし、さすがは龍馬の剣のすごさである。相手からの剣はすべて打ち返した。
 ひとりを斬ると、仲間であろう盗賊たちはやがて闇の中へ去った。
 腕を龍馬に斬られた男も逃げ去った。
「なんじゃきに! わしを狙うとは馬鹿らしか」
 龍馬はいった。刀の血を払い、鞘におさめた。只、むなしさだけが残った。
 ひとの話しではお冴がコレラで病死したという。お徳より先に、龍馬の初めての女になるはずだった女子である。龍馬は「そうか」といたましい顔をしたという。
 武市半平太はしきりに龍馬に、
「おんしは開国派か? 壤夷派か?」ときく。
「わからんぜよ。わしは佐久間先生のいうことに従うだけじゃきに」龍馬は頭をかいた。 そんな最中、飛脚から手紙が届いた。
 龍馬は驚愕した。父・八平が死んだというのだ。
「どげんした? 坂本くん」武市が尋ねた。
「父が死んだ……みたいです」
 龍馬は肩を落とした。
「それはご愁傷さまだ」武市は同情して声をかけた。「土佐に戻るのかね?」
「いいや。戻らぬき」
 龍馬にはものすごいショックだったらしい。二十二歳になっていた龍馬は、その日から翌年にかけてほとんど剣術修行をするだけだったらしい。逸話が何もないという。
 それだけ父親の死が龍馬にとってはショックだった訳だ。
 ほどなく北辰一刀流の最高位である免許皆伝を受けた龍馬は、千葉道場の塾頭になった。 この当時、長州藩の桂小五郎(のちの木戸考允)は斎藤のもとで神道無念流の塾頭になり、土佐の武市半平太は桃井春蔵(鏡心明智流)の塾頭となっていた。
 ひとくちに、”位は桃井、枝は千葉、力は斎藤”というのだそうだ。
 桂小五郎は、龍馬より二つ年上の二十五歳だった。
「坂本くん。一本どうだい?」
「稽古きにか?」
「そうだ。どちらが強いかやろうじゃないか」桂小五郎には長州(山口県)訛りがない。「あんたと勝負するちゅうんか?」
「そうだ!」
 やがて、仕方なく防具をつけて、ふたりは試合をすることになった。
 対峙すると、この桂小五郎という男には隙がない。龍馬には気になることがあった。自分の胴があいているのだ。桂の剣が襲いかかる。
 龍馬より桂のほうが一枚上手のようである。
 ……どういう手で倒すか?
 桂と対峙して、龍馬に迷いが生じた。……このまんまでは負けるきに!
 龍馬は片手上段でかまえた。桂はびっくりする。こんな手はみたこともない。
 龍馬はさそった。
 ……打つか?
 桂に迷いが生じたところで龍馬は面を打った。
「面あり!」
 あっけなく、桂の負けである。
 ……なんだあれはただの馬鹿胴だったのか…片手上段といい、この男は苦手だ…
 桂は残念がった。
「わたしの負けだよ、坂本くん」桂は正直にいった。
「桂さんもすごかったぜよ」
 ふたりは笑った。

  大阪から一路、龍馬は土佐に戻った。
 途中、盗っとの藤兵衛とわかれて、単身土佐にかえってきた。龍馬にとって江戸出発以来二度目に帰郷である。今度は北辰一刀流の免許皆伝ということもあって、ひとだかりができる。せまい城下では大変な人気者である。
 武市半平太はすでに土佐に戻っていて、城下で郷士、徒士などに剣術を教えていた。その塾の名は「瑞山塾」といい、すでに土佐では人気のある私塾になっていた。瑞山とは武市の雅号のことである。
 龍馬の兄・権平は「龍馬、おんしも塾を開け。金なら出してやる」という。
 すると龍馬は「わしはやめときます。ぶらぶらしときますきに」という。
「ぶらぶら?」
 権平は不満だった。何がぶらぶらじゃきにか? 北辰一刀流の免許皆伝者が…
  龍馬は珍しもの好きである。
 さっそく噂をきき、絵師・河田小竜という男のところへ向かった。
 河田小竜は唯一、日本中を旅して学識をもち、薩摩の砲台や幕府の海軍訓練所にもくわしい。また、弟子のジョン万次郎から米国の知識まで得ていた。
 河田邸はせまっくるしい。そのせまい邸宅にところせましと大きな絵がかざられている。「おんしは坂本のはなたれじゃなかが? 何しにきた?」
 絵を描きながら、河田小竜は龍馬にきいた。「絵師にでもなりたいきにか?」
「いいや。先生の話しばうかがいたいき、きたとです」
「話し?」
「はい。世界の話しです」龍馬はにこにこいった。
 河田小竜は「しょうがないやつだな」と思いながらも、米国の男女平等、身分制度のないこと、選挙のことなどを話した。龍馬に理解できるだろうか?
 小竜は半信半疑だったが、龍馬は「米国には将軍さまも公家もなく、男も女も平等きにかぁ……いやあおどろいた」と感心してしまった。
 龍馬のこのときの感動が、日本を動かすことになるのである。
 そんなとき、一大事が江戸で起こった。
 ……伊井大老が桜田門外で水戸浪人たちに暗殺されたというのだ。伊井直弼大老は幕府の代表のようなものだ。伊井大老が暗殺されるということは幕府の力がなくなるということである。「龍馬! 一大事じゃ!」兄は弟に暗殺のことを伝えた。
 ………これは大変な世の中になるぜよ……龍馬の全身の血が逆流して、頭がくらくらした。眩暈を覚えた。生涯、これほど血のわいたときはない。
 ……よし! わしも何かでかいことするぜよ!
 龍馬はそう思い、興奮してしまった。


         3 脱藩と寺田屋事件




 上海から長崎に帰ってきて、高杉晋作がまずしたことは、船の買いつけだった。
 ………これからは船の時代だ。しかも、蒸気機関の。
 高杉は思考が明瞭である。
 …ペリー艦隊来訪で日本人も目が覚めたはずだ。
 ……これからは船、軍艦なんだ。ちゃんとした軍艦をそろえないとたちまちインドや清国(中国)のように外国の植民地にされちまう。伊藤博文の目は英会話だった。
 一緒に上海にいった薩摩の五代は同年一月、千歳丸の航海前に蒸気船一隻を購入したという。長崎の豪商グラバーと一緒になって、十二万ドル(邦価にして七万両)で買ったという。
 いっているのが薩摩の藩船手奉行副役である五代の証言なのだから、確実な話だ。
 上海で、蒸気船を目にしているから、高杉晋作にとっては喉から手がでるほど船がほしい。そこへ耳よりな話がくる。長崎に着くと早々、オランダの蒸気船が売りにだされているという。値段も十二万ドルとは手頃である。
「買う」
 即座に手にいれた。
 もちろん金などもってはいない。藩の後払いである。
 ……他藩より先に蒸気船や軍艦をもたねば時流に遅れる。
 高杉の二十三歳の若さがみえる。
 奇妙なのは晋作の革命思想であるという。
 ……神州の士を洋夷の靴でけがさない…
という壤夷(武力によって外国を追い払う)思想を捨てず、
 ……壤夷以外になにがあるというのだ!
 といった、舌の根も乾かないうちに、洋夷の蒸気船購入に血眼になる。
 蒸気船購入は、藩重役の一決で破談となった。
「先っぱしりめ! 呆れた男だ!」
 それが長州藩の、晋作に対する評価であった。
 当然だろう。時期が早すぎたのだ。まだ、薩長同盟もなく、幕府の権力が信じられていた時代だ。晋作の思想は時期尚早過ぎた。

  蒸気船購入の話は泡と消えたが、重役たちの刺激にはなった。
 この後、動乱期に長州藩は薩摩藩などから盛んに西洋式の武器や軍艦を購入することになる。
 藩にかえった晋作は、『遊清五録』を書き上げて、それを藩主に献上して反応をまった。 だが、期待するほどの反応はない。
「江戸へおもむけ」
 藩命は冷ややかなものだった。
 江戸の藩邸には、桂小五郎や晋作の上海航海を決めた周布政之助がいる。また、命令を下した藩世子毛利元徳も江戸滞在中であった。
 晋作は、
「しかたねぇな」と、船で江戸へ向かった。
 途中、大阪で船をおり、京に足をのばし藩主・毛利敬親とあった。敬親は京で、朝廷工作を繰り広げていた。
 晋作は上海のことを語り、また壤夷を説くと、敬親は、
「くわして話しは江戸でせい」
 といって晋作の話しをとめた。
「は?」
 晋作は唖然とする。
 敬親には時間がなかった。朝廷や武家による公武合体に忙しかった。
 京での長州藩の評判は、すこぶる悪かった。
 ……長州は口舌だが、実がない!
 こういう悪評を煽ったのは、薩摩藩だった。
 中でも謀略派藩士としても知られる薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)が煽動者である。
 薩摩は尊皇壤夷派の志士を批判し、朝廷工作で反長州の画策を実行していた。
 しかし、薩摩とて尊皇壤夷にかわりがない。
 薩摩藩の島津久光のかかげる政策は、「航海遠略策」とほとんど変りないから質が悪い。 西郷は、
「長州は口舌だが、実がないでごわす」と、さかんに悪口をいう。
 高杉は激昴して、「薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではないか! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけだ!」
 といった。
 そして、続けて、
「壤夷で富国強兵をすべし!」と述べる。
 ……時代は壁を乗り越える人材を求めていた。
 晋作は江戸についた。
 長州藩の江戸邸は、上屋敷が桜田門外、米沢上杉家の上屋敷に隣接している。
 その桜田門外の屋敷が、藩士たちの溜まり場であったという。
 ………薩摩こそ「航海遠略策」などをとなえながら、その実がないではない! 長州は行動している。しかし、薩摩は口で愚痴ってるだけです。
 ……壤夷で富国強兵をすべし!
 ……洋夷の武器と干渉をもって幕府をぶっつぶす!
 討幕と、藩の幕政離脱を、高杉はもとめた。
 ……この国を回天(革命)させるのだ!
 晋作は血気盛んだった。
 が、藩世子は頷いただけであった。
「貴公のいうこと尤もである。考えておこう」
 そういっただけだ。
 続いて、桂小五郎(のちの木戸考允)や周布にいうが、かれらは慰めの顔をして、
「まぁ、君のいうことは尤もだが…焦るな」というだけだった。
「急いては事を仕損じるという諺もあるではないか」
 たしかにその通りだった。
 晋作は早すぎた天才であった。
 誰もかれに賛同しない。薩摩長州とてまだ「討幕」などといえない時期だった。
「高杉の馬鹿がまた先はしりしている」
 長州藩の意見はほとんどそのようなものであった。
 他藩でも、幕府への不満はあるが、誰も異議をとなえられない。
 ……わかってない!
 高杉晋作は憤然たる思いだったが、この早すぎた思想を理解できるものはいなかった。
 長州の本城萩は、現在でも人口五万くらいのちいさな町で、長州藩士たちがはめを外せる遊興地はなかった。そのため、藩士たちはいささか遠い馬関(下関)へ通ったという。 晋作は女遊びが好きであった。
 この時代は男尊女卑で、女性は売り買いされるのがあたり前であった。
 銭され払えば、夜抱くことも、身請けすることも自由だった。
 晋作はよく女を抱いた。
 そして、晋作は急に脱藩を思いたった。
 脱藩にあたり、国元の両親に文を送るあたりが晋作らしい。
「私儀、このたび国事切迫につき、余儀なく亡命仕り候。御両人様へ御孝行仕り得ざる段、幾重にも恐れ入り候」
 晋作は国事切迫というが、切迫しているのは晋作ひとりだった。余儀も晋作がつくりだしたのである。この辺が甘やかされて育ったひとりよがりの性格が出ている。
 晋作は走った。
 しかし、田舎の小藩に頼ったが、受け入れてもらえなかった。
 口では壤夷だのなんだのと好きなだけいえるが、実行できるほどの力はない。
「人間、辛抱が肝心だ。辛抱してれば藩論などかわる」
 晋作はとってつけたような言葉をきき、おのれの軽率を知った。
 ……ちくしょう!
 晋作は、自分の軽率さや若さを思い知らされ、力なく江戸へと戻った。


  龍馬は一八六一年に「土佐勤王党」に参加したが、なんだか馬鹿らしくなっていた。「土佐だけで日本が動く訳じゃなかが。馬鹿らしいきに」
 龍馬は土佐の田舎で、くすぶっていた。
 ……わしは大きなことを成したいぜよ!
 龍馬は次第に「脱藩」を考えるようになっていた。
 ……藩の家来のままじゃ回天(革命)は成らぬがぜよ。
 兄・権平の娘(つまり姪)春猪はいつも「叔父さま! 叔父さま!」と甘えてくる。利発な可愛い顔立ちの娘である。
 春猪には計略があった。龍馬叔父さんと知り合いの娘とを交際させる…という計である。その計は九分まで成功している。
 げんに春猪は、ともかくも龍馬叔父さんを五台山山麓の桃ノ木茶屋までおびきよせたではないか。龍馬が遠くから歩いてくる姿を確認してから、
「ほら!」
 と、春猪は「きたわよ」とお美以にいった。
 お美以は下を向いて恥かしがった。
「お美以さん、だまっていてはだめよ。ちゃんと叔父さんに好きだっていわなきゃ」
 春猪はにこりといった。
「ええ」
 お美以は囁くようにいった。恥ずかしくて消えてしまいそうだ。
 九つのとき、お美以は龍馬に連れられて梅見にいっている。あのころ、龍馬は江戸から一度目にかえってきたときである。龍馬は、お美以の手をひいたり、抱き抱えたりした。しかし、なにしろ十一歳も年上である。九つのお美以としては龍馬は大人である。
 しかし、女の子は九つでもおませである。龍馬を好きになった。
 まあ、これは「はしか」みたいなものである。年頃の女の子は年上の男性を好きになるものだ。まだ子供であるお美以は母に、
「わたくしは、龍馬おじさまのお嫁様になります」といってあわてさせた。
 今、お美以は十代の美少女である。
 しかし、龍馬は彼女を子供扱いした。「お美以ちゃんはいつまでも子供の頃のままじゃきにな」といった。
「そんな……」お美以は泣きそうな顔をした。
「龍馬おじさまは、お美以さんに御無礼ではありませんか?!」
 それを知って春猪は叔父龍馬に食ってかかった。
 龍馬は「子供は子供じゃきに」と笑ったままだ。
 そののち龍馬は源おんちゃんにめずらしく怖い顔をして、
「春猪に、人間の娘をおもちゃにしちゅうなといってくれ」といった。
「おもちゃに?」
「いえばわかるきに。わしは忙しいので出掛ける」
 龍馬は出掛けた。
 春猪は複雑な気持ちでもあった。じつは春猪は龍馬叔父に好意をもっていたのである。 ……初恋……? そうかも知れない。私は龍馬おじさんのお嫁さんになりたい!
 しかし、当の龍馬にはそんなことは知らない。


『脱藩の準備』を龍馬はしはじめた。
 とうぜんながら脱藩には金がいる。刀もほしい。
 龍馬の家は土佐きっての裕福な武家だけに、名刀がしまってある。だが、兄の権平が脱藩を警戒して、刀箪笥に錠をして刀を取り出せなくしていた。
「どげんするきにか…」
 龍馬は才谷屋を訪ねた。才谷屋は坂本家の分家である。坂本家のすぐ裏にあって、こちらも商業を営んでいる。北門が坂本家、南門が才谷屋の店口となっていた。
「伯父さんはいるきにか?」          
 龍馬は暖簾をくぐり、中にはいった。
「ああ、坂本のぼんさま」
 番頭は用心深くいった。というのも、権平に、”龍馬が金か刀の無心に来るかもしれぬが、あれのいうことに応じてはならんぞ”と釘をさされていたからだ。
「あるじはただいま留守でごります」
「伯母さんは?」
「いらっしゃいますが、何やら気分が悪いとおやすみでございます」    
「なら、刀蔵の鍵をもってきてくれんがか」
「……それは」
「本家のわしが頼むのだぞ。わしは奥で酒飲んじゅるきに、持ってきとうせ」
 どんどん入りこむ。
 やがて夕方になった。
「おや、めずらしい。龍馬じゃないかが」
 お市おば(龍馬の祖父の従弟の妻)がいった。その姪の久万、孫の菊恵をつれて朝から遊びにきていたが、龍馬をみつけると笑顔になった。
 しかし、お市おばも龍馬の算段を知っている。……脱藩はなりませぬ!
 散々説教するが、龍馬は(何を寝言ば、ゆうちゅるがか)と思いながら頷いているだけだ。やがて伯父の八郎兵衛が帰ってきた。
「伯父さん。刀ば見せとうせ」
「あっ、龍馬がか」
 龍馬をみただけで顔色を変えた。本家からの情報をすでに掴んでいたからだ。
「刀は駄目だ。それより、家の娘を嫁にしちゅうがかか?」
「嫁などいらん。それより刀みせとうせ」
「これという、刀はないきに」
 嘘だった。豪商だけあって名のある刀が蔵にたんとある。
 しかし、本家との約束で、龍馬には刀を渡さなかった。    
 ……鈍刀だけもって発つか
 龍馬が帰宅すると、兄の権平が「龍馬、才谷屋に何しにいったがぜよ?」といった。
「ほんの、遊びじゃ」
 こんなに警戒されては策も尽きたか……龍馬は部屋で寝転がり一刻ばかり眠った。
 手蝋燭をもってくる人物がいる。それを龍馬の部屋にいれ、行灯に火を移した。
「あぁ、なんだお栄姉さんか」龍馬はほっとした。
 坂本家には女が多い。
 一番上の姉が千鶴で、これは城下の郷士高松家に輿入れして二男一女の母である。三番目の姉が龍馬を育ててくれた乙女で、これも輿入れしている。
 二番目の姉がこのお栄であるが、このお栄は不幸なひとで郷士の柴田家に嫁いだが離縁されて坂本家に出戻ってきていた。
 ……坂本の出戻りさん。
 といえばこのお栄のことで、お栄は出戻りらしくせまい部屋で慎ましく生活していた。華奢な体で、乙女とくらべれば痩せていて、本当に姉妹なのか? と思いたくなる女性だ。「存じてますよ、龍馬。あなたの脱藩がどれだけ家族に迷惑をかけるかかわらないのですか?」
「そげんまでのんきじゃないき」
「脱藩したら二度とお国にもどってこれませんのよ」
「弱ったな」おとなしいお栄姉さんからこんな説教をうけるとは思ってなかった。
「じゃきに、わしは男じゃきに。野心をかなえるためには脱藩しかないんぜよ」
「野心って何?」
「回天ですき。日本をいま一度洗濯するんじゃき」
「……わかりました」
「ほな、姉さん勘弁してくださるのんか」
「勘弁します。それにあなたが欲しがっている陸奥守吉行もわたくしからの贈物としてさしあげます」
「え? なんきに姉さんが陸奥守吉行もっちゅう?」
 龍馬は半信半疑だった。……陸奥守吉行というのは名刀である。
「これはわたくしが離縁したとき、前の夫(柴田義芳)からもらったものです。坂本家のものでも才谷家のものでもありません。あたくしのものです」
 龍馬はお栄姉さんより名刀をもらった。
 これが、お栄の不幸となった。
 龍馬の脱藩後、藩丁の調べで、柴田家の陸奥守吉行の一刀をお栄からもらったことが判明し、柴田義芳は激怒した。坂本家まできて、
「なぜそなたはわしの形身を龍馬にやったのじゃ?!」とお栄をせめた。
 お栄は、そのあと自殺している。
 天命としかいいようがない。天がひとりの姉を離縁とし刀を英雄に授け、そして自殺においこんだ。すべては日本の歴史を変えるために………

  土佐藩参政吉田東洋が、武市の勤王党の手で暗殺された。
 文久二年四月八日、夜、十時過ぎであったという。
 この日は、夕方から雨がふっていた。東洋は学識もあり、剣のうでもすごかった。が、開国派でもあった。そのため夜、大勢に狙われたのだ。
 神影流の剣で立ち向かったが、多勢に武勢、やがて斬りころされてしまう。
「吉田殿、国のために御成仏!」
 東洋は殺された。
  このころ、龍馬は高知城下にはいなかった。
 龍馬の兄の権平は呑気なもので「龍馬はどこいったんぜよ?」などという。武市一派の東洋暗殺にさきだつ十五日前の文久二年三月二十四日、闇にまぎれて脱藩してしまっていた。「いよいよ、龍馬は脱藩したのかのう?」
 もはや公然の秘密である。
 龍馬は神社にお参りしたあと、連れの沢村惚之丞とともにふもとの農家にいった。
「龍馬あ、旅支度せい」
「いや、ひょうたんひとつで結構じゃ」
 ふところには金十両があり、ひょうたんには酒がはいっている。腰にはお栄からの陸奥守吉行がある。「よし! いくぜよ!」
 脱藩とは登山のことであるという。
 土佐の北には四国山脈がある。険しい山道、けもの道を駆けていかねば脱藩は成らぬ。山道には関所、人の目があり、みつかれば刑務所行きである。民家にもとまれない。役人に通報されるからである。寝ず、駆けどおしで、闇の中を駆けた。
 ………”武士がかわらなければ日本はかわらんぜよ”…
 ………”国をかえるには自分がかわらんなきゃならぬ”…
 龍馬は、寝ず、駆けどおしで、けもの道を、闇の中を、駆けた、駆けた。
 こうして、龍馬は脱藩したので、ある。


伊藤博文 炎にたずねよ!伊藤博文波乱万丈の生涯ブログ特別連載11

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         7 伊藤博文の暗殺






   彰義隊討伐の日、麟太郎の屋敷に官軍が乱入し、小銃を発射、刀槍雑物を掠奪して立ち去った。その件につき、麟太郎はただちに大総督府参謀海江田武次(信義)に、徳川慶頼を通じ、
「小拙(麟太郎)何等の罪科にて御沙汰これあるや」と問い合わせたという。不当な官軍の行為をなじった訳である。
 海江田ら、大総督府参謀は何も知らなかった。大村益次郎が、麟太郎を抹殺せよなどと指令を出したという推測が、麟太郎の周囲で流れていたようである。
 麟太郎はたまたま慶頼の屋敷にいたので命拾いしたが、それから七日間、氷川の屋敷に帰らなかった。
 榎本武揚から麟太郎に書状がきたのは二十一日のことである。館山に碇泊している艦隊を率いて脱走する、という。麟太郎は返書を送った。
「大廈が倒れるときは、一本の木が支えられるものではないというのは、ほんとうだ。
 官軍が入城して以来、軍艦引き渡しの処置が遅れたが、その後はなんとかはかどった。   だが船橋、木更津で幕兵が軽挙をおこし、官軍と戦ったが瓦解した。
 その後、大総督府と交渉を重ね、遅々として進まなかったが、ようやく平穏のうちに、慶喜公に対する寛典が下されようとしたとき、彰義隊が暴挙をおこし、事態は急変してしまった。
 官軍の行動はふたたび盛んになり、わが方の士気は屈し、きもがすわらなくなり、相手の術中に陥り、どんな対策をおこなうこともできなくなり、味方がたがいに疑いぶかくなり、将来どのような手を打つべきか知らない。
 ああ私の徳川家に対する尽力は、三度やぶれ、血涙を流すのみである。
 上様のご苦慮を思えば、気がめいるばかりである。誰がこの苦心を理解できるだろうか」  麟太郎が二十二日に帰宅すると、大総督府参謀であった海江田が訪れ、告げた。
「おいは官軍参謀を罷めさせられ申した」
「大村益次郎のやりかたにそぐわなかったためかね」
「そうでごわす」
 西郷吉之助(隆盛)も参謀を辞任するという、海江田はいった。
「西郷どんは、近頃じゃやる気ないごつ見え申す。薩摩へ帰りたかというと申す」
「いい男がつぎつぎといなくなるじゃねぇか。残念なことでい」
 麟太郎は、すべてが終わったと思った。
 そう思うと切なくなり、身がしめつけられる思いだった。

  徳川家の領地四百石は取り上げられ、領地はわずかに七十万石にさせられた。一橋大納言(慶喜)、田安中納言(慶頼)が皇室の藩屏に列して告げられたのだ。
 六月になって、榎本武揚と行動をともにしている元陸軍副総裁白戸石助が麟太郎のところを訪ねてきた。仙台、米沢、会津を中心とする東北藩連合軍が朝廷に嘆願書を出し、官軍と一戦まじえる気であるという。
 麟太郎はいった。
「おれには別の考えがある。これから大事をなしとげるには、国が大きいこと、人民が多いことが有利とはいえねえよ。
 いちばん大事なのは人材だなぁ。いま東北藩連合軍にはどれだけの人材がいる?
 官軍にしても悪戯に力に頼るばかりで、会津藩などは徳川に忠義を尽くしているように見えて、じつは忠義などしちゃいねぇさ。徳川家がこんなになっちまったのも、もとはといえば会津藩に誤られたためだ。おれは官軍との戦いには賛成できねぇよ」

 品川沖に艦隊を碇泊させていた榎本武揚は、将軍が駿河に追われ、たった七十万石になったことを受けて激怒し、かねてからの提案だった蝦夷に共和国をつくることに決めた。 富士山丸を官軍に引き渡したため、つかえる艦隊は、開陽丸、回天丸、千代田形、蟠龍丸、咸臨丸の五艦だけだった。咸臨丸はすでに老朽化していた。
 榎本武揚は、オランダから届いたばかりの開陽丸でなら、官軍側との海戦にのぞんでも勝てると見ていた。
 大総督府からは、山岡鉄太郎(鉄舟)らを呼び出し命じたという。
 一、駿府へのお引移り、精々取急ぐ候よう致すべく候事。
 一、駿府へのお召し連れあいなり候ご家来、姓名取り調べ差し出し申すべき事。
 麟太郎が慶喜の供をして駿河へ出向き、おこなうのは開墾事業であるという。
 水戸では慶喜が謹慎しており、会津と気脈を通じ、官軍と戦うという者が出ているので、麟太郎たちが移住を急いだのであるという。
 幕府艦隊が脱走したのち、麟太郎は官軍の猜疑を一身にうけた。脱走の計画をたてたのが麟太郎であるというデマが流れたためである。
 麟太郎は、鉄舟とともに協力して、奥州(東北)へ脱走しようとする幕兵たちの集団を説得、解散させることに努めた。
 品川沖から姿を消した艦隊の動向を、麟太郎は常に気づかっていた。
 消息をたっていた、榎本武揚の指揮する幕府艦隊のうわさが、麟太郎のもとに届くようになったのは、明治と改元された九月八日以降であったという。
 なんでも美加保丸という速力がでない船が荒波で沈み、開陽丸も破損したという。
 官軍の三艦が去ったあと、港には血にそまった死骸が流れ、賊名を負う死骸を葬ることもなく、皆気味悪がった。そのため清水の次郎長が、部下をひきつれて始末にあたった。 麟太郎は旧旗本を静岡へ移転させるのに苦労した。
 官軍では、榎本が艦隊を率いて蝦夷に向かったのは麟太郎の計画であるという噂がまた流れた。薩摩人は麟太郎に好意をもっているが、海軍とは薄い長州人は麟太郎に不満をもっていた。
 米沢藩が官軍に降伏し、会津若松城は籠城、南部藩も降伏、東北連合軍はバラバラになりかけた。が、榎本武揚の指揮する幕府艦隊の到着で、活気をとりもどした。
 榎本の元には新選組の土方歳三がいて、大鳥らとともに二千五百の兵士を率いていた。 麟太郎は静岡藩では、幹事という役職についた。同僚は鉄太郎である。
 江戸開城のとき陸軍総裁だった麟太郎は、いまでは家老平岡丹波守のもとで、中堅役人をしていた。しかし、ひんぱんに東京にもいき、官軍と交渉もするのだった。
 麟太郎はいつしか官軍と徳川家のあいだをひんぱんに行き来する役目になった。徳川家の家臣であると同時に、新政府の知恵袋として扱われていた。

 榎本武揚の指揮する幕府艦隊は蝦夷(北海道)に着いた。そして、数日後、暴風雨のため開陽丸、千代田形を失った。最大の軍艦開陽丸を失ったのは大きいダメージだった。回天丸は米国旗を掲げ宮古湾に侵入し、接近して幕府軍艦旗に変え、甲鉄艦の左舷を乱射し、陸軍が乱入し、占領しようとしたが失敗し、艦長加賀源吾が戦死した。
 榎本艦隊が全滅したのは、明治二年五月十一日。蟠龍、回天は最後まで戦ったが、撃沈された。新選組の土方歳三は馬上で官軍の弾丸により倒れ、死んだ。榎本武揚は大鳥圭介らとともに投降し、東京に身柄を移された。
 本当ならば榎本武揚は斬首であった。が、あまりにも高い知識と学識をもっていたため新政府は彼を重用し、殺さなかった。
 勝麟太郎(勝海舟)が明治政府の要人となると、旧幕臣からは「それでも幕臣か?」と問われた。しつこく言ったのはどうも福沢諭吉らしいが、麟太郎は只、一言、
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず」というのみである
 行蔵…つまり出所進退は自分が決めることで、他人がどういおうが勝手だ! という。麟太郎は、安房守の安房をとって安芳と名を変えた。アホウという意味である。
 安芳はのちに『海舟翁一夕話』でこういう。
「人はよく方針々々というが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下の事は、あらかじめ知りうることができないものだ。
 網を張って鳥をとっていても、鳥がその上を飛んだらどうするのか。我に四角い箱をつくっても、天下には丸いものもあれば三角なものもある。
 丸いものや三角なものを四角い箱にいれようとしても、さてさて苦労千万の事だ」
 七月二十日、安芳は大久保利通へ前上様慶喜の謹慎をといてもらいたい、と書状で頼んだ。二十一日には大久保が来訪し、安芳の胸中を聞いた。右大臣三条実美も、安芳の外務大丞就任を喜んでいるという。
 安芳は『氷川清話』でこう記す。
「政治は理屈ばかりでゆくものではない。実地について、人情や世態をよくよく観察し、その事情に精通しなければだめだ。下手な政論を聞くよりも、無学で文字を知らない連中を相手に話をするほうが、大いにましだ。無学なやからの話は純粋無垢で、しかもその話のなかには人生の一大道理がこもっているよ。いつぞや話した通り、おれも維新前には種々の仲間と交際したよ。官軍が江戸におしよせたときは本当に骨が折れたよ。毎日役所から戻ると駕籠にのり、あの中で親分とよばれる奴らどもを尋ねてまわったが、骨が折れるというものの、なかなか面白かったよ。
 官軍が江戸にはいっても盗賊や火つけが少なかったのも俺が連中の親分に話をつけていたからさ。(中訳)つまり、人のみようによって、善となり悪となり、利ともなり害ともなるものだ。そこがまた世の中のおもしろいところさ。
 しかし、今の政治家には、こんなささいなところまで注意する人はあるまい。行政学を一冊読んで、天下の機関がうまく回転すれば、世の中楽なものだ。
 御前とか閣下とか、そんな追従ばかり聞いておらずに、大臣などはすこしは飾り気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」
  十二月七日、安芳は大久保利通に、御暇願書をさしだしたが、受け入れてもらえなかった。安芳の屋敷には次から次へと「お知恵拝借」とばかりに客人がくる。
 十二月十四日になって、政府から、東京に至急戻るように、と命令までくる忙しさであった。安芳は静岡に隠居屋敷をつくり、そこで余生を過ごす気であった。
 しかし、何度も新政府から東京へこいと呼びだしがくる。
 そんな中、母信子が倒れ、亡くなった。
 安芳が海軍大輔に任官したのは、明治五年五月十日だった。廃藩置県で、徳川藩が亡くなったので、藩に残留する必要もない。旧幕臣に「裏切り者」とみられ、住みにくい静岡にいるよりも東京に住むと決めた。
 同年六月十五日、従四位に任じられた。
 福澤諭吉が幕臣だった勝麟太郎を批判したとき、有名な『やせがまんの説』をいう。勝は「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せず」という。
 つまり、行蔵…出所進退は自分自身が考えることで、誉められようがけなされようが関係はない。ということだ。諭吉は激怒して顔を真っ赤にして「勝手にしろ!」という。

  勝海舟(勝安芳)は、明治六年十月、征韓論が破裂して西郷隆盛が失脚したのち、参議兼海軍卿の勅命をうけたという。
 征韓派の西郷、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、福島種臣ら参議五人が辞職、三条太政大臣の率いる内閣は、参議が卿を兼任した。
 大久保利通が内閣をつくり、そこに伊藤博文、大隈重信、勝安芳がくわわった。大隈重信が財務大臣、勝安芳は外務大臣といった役職だった。勝は中流官僚として実務にあたっている旧幕府家臣の代表でもあった。日本を近代化する。それが勝の目標になった。
 安芳は長崎に出張した際、かつての愛人・お久の子、梶梅太郎をひきとった。安芳には他にも愛人の子がいた。安芳は年老いてもなお絶倫だったという。
 内閣で客員削減の議論がでると、勝は「それなら大官を削減したほうがよい。私がお手本になろう」といって、その後内閣に出席することもなくなった。
 安芳は閣議出席をとりやめたのち、明治八年四月二十五日、辞表を提出して野に下った。そののち安芳は東京の豪商大黒屋(榎本六兵衛)の助けをかり、『徳川銀行』ともいうべき金融機関を設立する。
「ものごとを始めるには金がなければならない」安芳はいった。
 廃藩置県で全国の武士が職を失い、安芳はそれら武士に政府から支払われる”一時金”を金融機関でとりあつかわせた。そんななか西郷が鹿児島で乱をおこす。
 警視庁は西郷と勝が、なんらかの関係があるかも知れないと捜査した。が、用心深い安芳は警察に証拠をつかまれるようなことはなにもしていなかった。


徳川宗家はかつて数百万石ともいう大大名であった。しかし、大政奉還と、最後の将軍・徳川慶喜の「恭順姿勢」「謹慎」による、いわゆる薩長官軍への敗北により領地は七十万石に下賜(かし・身分の高い者が低い者に与えること)された。場所は現在の静岡県である。そこが幕臣たちの領地になった。
一橋大納言(慶喜)、田安中納言(慶頼)は皇室の藩屏に列する。
『岩倉公実記』には、
「七十万石はわずかに尾(州)藩(六十一万九千五百石)の上に位するのみ。これ百万石を越ゆべからずとの説によれるものの如し」
と記されている。
つまり、禄高を大激減され静岡に移封(いほう)されたのだ。だが、官軍は錦の御旗を掲げて、天子さま(天皇のこと)を担いでいる。「恭順姿勢」「慶喜謹慎」「江戸無血開城」「大政奉還」「王政復古の大号令」「戊辰戦争」で白旗あげたんだ、仕方なし、である。
米沢藩も仙台藩も会津藩も東北奥羽越列藩同盟もひどいことになった。
幕臣は彰義隊などや浪人軍団・新撰組は戦ったが、幕臣旗本は無傷、降伏して静岡に島流しにされた。恭順も徳川無抵抗も、勝海舟の策だったが、馬鹿な幕臣は「勝海舟の裏切り者!奸臣勝海舟!」とひどく勝をうらんだようである。
維新の際、旧旗本の人々を静岡に移したのは、およそ八万人もあった。勝海舟は幕臣たちの仕事のあっせんを懸命にやった。だが、所詮は武士である。畑をたがやせ、茶をつくれ、商いをしろ、技能を身につけよ…どうにも頑固でいけねえ。勝海舟は元・侍(いわゆる士族)のバカげたプライド(誇り)と面子に、苦い顔をする。
「変においらは元・武士だ。畑仕事などできねえ、などといってもしなきゃ飢え死にするだけだ。だから耕せってんだ!なんでわかんねえのかねえ。呆れるぜ!」
静岡では「勝海舟の裏切り者!」と道から投石する幕臣もでるし、玄関の門に「奸臣 勝海舟」と落書きする馬鹿までいる。「馬鹿野郎!俺が幕引きしなけりゃ、江戸城無血開城も戊辰の早期終結もなかったんでぃ!馬鹿野郎はお前らだってんだ!」
勝海舟は言った。

  榎本武揚の指揮する幕府艦隊は蝦夷(北海道)に着いた。そして、数日後、暴風雨のため開陽丸、千代田形を失った。最大の軍艦開陽丸を失ったのは大きいダメージだった。回天丸は米国旗を掲げ宮古湾に侵入し、接近して幕府軍艦旗に変え、甲鉄艦の左舷を乱射し、陸軍が乱入し、占領しようとしたが失敗し、艦長加賀源吾が戦死した。
 榎本艦隊が全滅したのは、明治二年五月十一日。蟠龍、回天は最後まで戦ったが、撃沈された。新選組の土方歳三は馬上で官軍の弾丸により倒れ、死んだ。榎本武揚は大鳥圭介らとともに投降し、東京に身柄を移された。
 本当ならば榎本武揚は斬首であった。が、あまりにも高い知識と学識をもっていたため新政府は彼を重用し、殺さなかった。
 勝麟太郎(勝海舟)が明治政府の要人となると、旧幕臣からは「それでも幕臣か?」と問われた。しつこく言ったのはどうも福沢諭吉らしいが、麟太郎は只、一言、               
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず」というのみである
 行蔵…つまり出所進退は自分が決めることで、他人がどういおうが勝手だ! という。           
 麟太郎は、安房守の安房をとって安芳と名を変えた。アホウという意味である。
 安芳はのちに『海舟翁一夕話』でこういう。
「人はよく方針々々というが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下の事は、あらかじめ知りうることができないものだ。
 網を張って鳥をとっていても、鳥がその上を飛んだらどうするのか。我に四角い箱をつくっても、天下には丸いものもあれば三角なものもある。
 丸いものや三角なものを四角い箱にいれようとしても、さてさて苦労千万の事だ」
 七月二十日、安芳は大久保利通へ前上様慶喜の謹慎をといてもらいたい、と書状で頼んだ。二十一日には大久保が来訪し、安芳の胸中を聞いた。右大臣三条実美も、安芳の外務大丞就任を喜んでいるという。
 安芳は『氷川清話』でこう記す。
「政治は理屈ばかりでゆくものではない。実地について、人情や世態をよくよく観察し、その事情に精通しなければだめだ。下手な政論を聞くよりも、無学で文字を知らない連中を相手に話をするほうが、大いにましだ。無学なやからの話は純粋無垢で、しかもその話のなかには人生の一大道理がこもっているよ。いつぞや話した通り、おれも維新前には種々の仲間と交際したよ。官軍が江戸におしよせたときは本当に骨が折れたよ。毎日役所から戻ると駕籠にのり、あの中で親分とよばれる奴らどもを尋ねてまわったが、骨が折れるというものの、なかなか面白かったよ。
 官軍が江戸にはいっても盗賊や火つけが少なかったのも俺が連中の親分に話をつけていたからさ。(中訳)つまり、人のみようによって、善となり悪となり、利ともなり害ともなるものだ。そこがまた世の中のおもしろいところさ。
 しかし、今の政治家には、こんなささいなところまで注意する人はあるまい。行政学を一冊読んで、天下の機関がうまく回転すれば、世の中楽なものだ。
 御前とか閣下とか、そんな追従ばかり聞いておらずに、大臣などはすこしは飾り気のない巻き舌でも聞いてみるが薬だよ」
 十二月七日、安芳は大久保利通に、御暇願書をさしだしたが、受け入れてもらえなかった。安芳の屋敷には次から次へと「お知恵拝借」とばかりに客人がくる。
 十二月十四日になって、政府から、東京に至急戻るように、と命令までくる忙しさであった。安芳は静岡に隠居屋敷をつくり、そこで余生を過ごす気であった。
 しかし、何度も新政府から東京へこいと呼びだしがくる。
 そんな中、母信子が倒れ、亡くなった。
 安芳が海軍大輔に任官したのは、明治五年五月十日だった。廃藩置県で、徳川藩が亡くなったので、藩に残留する必要もない。旧幕臣に「裏切り者」とみられ、住みにくい静岡にいるよりも東京に住むと決めた。
 同年六月十五日、従四位に任じられた。

徳川慶喜は、麟太郎が慶喜のため、死の危険を冒してはたらいてきた苦労を認めようとせず、彼が官軍にあらかじめ頼み、そのような芝居をさせたのであろうといった。
これにはさすがの勝海舟も開いた口が塞がらなかった。歴史的偉業もわからず、勝海舟は阿呆だ、等という。
「こまったひとだな」
勝の言葉はこれだけだった。
内務卿・岩倉具視(いわくら・ともみ)が士族に暗殺されそうになって、川に飛び込んで逃げ、暗殺が未遂におわったのはこの頃であるという。
勝海舟の努力もあって、慶喜の長期謹慎がとかれ、囹圄の人となっていた榎本武揚や、長井尚志(なおゆき)、大鳥圭介ら箱館戦争の政治犯たちも釈放された。
彼らはその知識で、明治政府の要人に出世していく。
勝海舟はもう退官しようと思ったが、大久保利通がなかなか辞めさせてくれない。
勝には経済政策やインフラ整備や軍事力、国防などにみるものがあった。プロシアとフランスの仲が悪く、戦火が飛び火したら?大久保はどこまでも現実主義だ。
ちょっというが、歴史的に大久保利通や岩倉具視は、行った大偉業の割には正しく評価されていない。確かに高い理想も大事だ。竜馬や久坂や高杉、吉田松陰のような。
だが、理想だけで世界が、現実世界が動く訳ではない。
理想を計画として予算を付けて、実行する現実主義者がいなければ瓦解するだけだ。
現実主義者は憎まれ、怨嗟の対象にもなる。
だが、綺麗事だけいって現実社会が動けば簡単だ。が、世の中甘くない。
スローガンや目標を達成させるのは粘り強い現実主義者、でしかない。
 勝海舟は明治三年二月二十八日、静岡の町はずれ門屋村に、豪邸を建てた。
とたんに母親が死ぬ。勝海舟の力を頼って政治犯が「たすけてほしい。匿って欲しい」と大勢くるし、静岡では「裏切り者・勝海舟」を恨む元・幕臣が多すぎた。
嫌になって勝海舟は静岡に見切りをつけて東京で大家族(愛人や妾との子供や親戚や孫など)と東京の一角に豪邸を建てて住んだ。廃藩置県で徳川藩が消滅したのもおおきな理由である。優雅な隠棲生活、である。


  勝海舟(勝安芳)は、明治六年十月、征韓論が破裂して西郷隆盛が失脚したのち、参議兼海軍卿の勅命をうけたという。
 征韓派の西郷、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、福島種臣ら参議五人が辞職、三条太政大臣の率いる内閣は、参議が卿を兼任した。
 大久保利通が内閣をつくり、そこに伊藤博文、大隈重信、勝安芳がくわわった。大隈重信が財務大臣、勝安芳は外務大臣といった役職だった。勝は中流官僚として実務にあたっている旧幕府家臣の代表でもあった。日本を近代化する。それが勝の目標になった。
 安芳は長崎に出張した際、かつての愛人・お久の子、梶梅太郎をひきとった。安芳には他にも愛人の子がいた。安芳は年老いてもなお絶倫だったという。
 内閣で客員削減の議論がでると、勝は「それなら大官を削減したほうがよい。私がお手本になろう」といって、その後内閣に出席することもなくなった。
 安芳は閣議出席をとりやめたのち、明治八年四月二十五日、辞表を提出して野に下った。そののち安芳は東京の豪商大黒屋(榎本六兵衛)の助けをかり、『徳川銀行』ともいうべき金融機関を設立する。
「ものごとを始めるには金がなければならない」安芳はいった。
 廃藩置県で全国の武士が職を失い、安芳はそれら武士に政府から支払われる”一時金”を金融機関でとりあつかわせた。そんななか西郷が鹿児島で乱をおこす。
 警視庁は西郷と勝が、なんらかの関係があるかも知れないと捜査した。が、用心深い安芳は警察に証拠をつかまれるようなことはなにもしていなかった。
 大政奉還、鳥羽伏見の戦い、王政復古の大号令、江戸城無血開城、会津戦争、箱館戦争、廃藩置県、帯刀禁止令、東京へ遷都、明治政府、佐賀の乱、萩の乱、秋月(福岡)の乱、神風連の乱、西南戦争………おおきな歴史の波が勝海舟の横を爆音とともに駆け抜けていった。
勝海舟は西郷隆盛を人物として高く買っていたので「西南戦争」で、西郷自刃と知ると思わず「てやんでぃ、馬鹿野郎!」と声が出たという。


  若き将軍・家茂が死んで、後家となり静寛院宮と号していた和宮は、天璋院(篤姫)の働きに感銘を受けていた。天璋院は徳川幕府崩壊後、失業した大奥女中たちを庶民の嫁として嫁がせ、私財を投げ受って天下安寧に勤めた。一度は京に戻った和宮ではあったが、天皇が東京に移ると東京に戻って生活した。明治時代になって、徳川家の子孫を英国に送ったのは天璋院・篤姫である。天璋院と和宮が御飯の配分で争い、しゃもじを取り合って「私が…」「…いえ。私が…」と譲っていると、勝海舟が「じゃあ、もう一本しゃもじを」 といって収めたという有名なエピソードがある。
あるとき船宿で天璋院が火鉢に鉄瓶がかけてあって、差し出されたお茶が美味しかったので邸宅でも鉄瓶を火鉢にかけた。それを発見した勝海舟が「これ(鉄瓶)は下司(ゲス・身分の卑しい者)の使うものです。銀瓶がありますから銀瓶をつかってください」と言ったというエピソードもある。また天璋院は外出先で、風呂上りに浴衣を着たところ肌にべとつかないと気に入り、普段でも浴衣を着るようになり、舶来のシャツも買ったという。御台所(将軍の正室)と仰がれ、女中たちにかしずかれてきた人とは思えぬ変貌ぶりである。
 天璋院は徳川家の後継者は旧・島津藩主の子と結婚することと遺言を残して逝った。天璋院篤姫は義父・島津斉彬にもらった「薩州桜島真景図」という屏風絵をみては故郷の薩摩(鹿児島県)をおもったことだろう。今、彼女の魂は薩摩にあるに違いない。
「……家茂さん。家茂さん!」静寛院宮(和宮)は脚気で静養し、和宮は死ぬ直前まで環翠楼という寺で静養していたという。そして1877年9月2日亡くなった。享年三十二歳………また西郷隆盛も、この年、西南戦争などという馬鹿げた内戦を起こして自決した。享年五十一歳……そして大久保利道も暗殺される……
 和宮の葬儀は箱根阿弥陀寺で行われた。
 天皇家から歴史上初めて将軍家に嫁いだ和宮はこうして最期までヒロインとして生き、ヒロインとして死んだ。時代に翻弄された皇女ではあったが、最期の顔には笑顔があったという。そののち明治十二年(1933年)、二十歳の徳川家達が留学から帰ると、許嫁と結婚させて「すべてがおわった」とばかりとなった。そして、天璋院は脳溢血で倒れた。 明治16年(1886年)11月16日、五十七歳で眠るように亡くなる。私財はわずかな銭だけだった。こうして江戸から明治へと駆け抜けたふたりの女性の物語は幕を閉じた。
「江戸中見渡しても、天璋院さんや和宮さんの悪口いうやつはいねぇぜ」
 勝の言葉はそれだけである。



  安芳の元には福沢諭吉が「学校を設立したい」と金を借りにきた。だが、安芳は貸さなかった。「勝の馬鹿野郎!」に金を貸してもらえなかった諭吉は怒鳴った。
 維新後、三傑といわれた西郷隆盛、木戸孝允、大久保利道は暗殺や悲惨な死を迎える。 いよいよ伊藤博文の出番となった。若くして英語の天才といわれた伊藤は、外国語の技術で抜群の才を発揮した。明治時代にそんなに英語を解する者も珍しいから、伊藤はまず外務省に勤め、それから兵庫県知事(民間選出ではなく当時は官選)に選ばれた。
  勝安芳は、天下を治めるには経済が第一だ、という。
「天下の富をもってして、天下の経済に困ることがないというのが、こっちの落付きだ。 昔のひとでも、皆経済には苦労しました。信長は経済の着眼がよかったので、アレだけになった。信玄も、甲州の砂金をそっと掘りだしたり、色々な法をたてた。南朝でさえ、北朝に細川頼之という経済家があって敗れた」
 安芳は大久保一翁、永井尚志、鉄舟、木村芥舟らと連携して徳川宗家の経済基盤を確立させようと努めた。徳川勢力を維持するために、安芳は土地、家屋、田畑、山林から画書骨董によって利殖をはかる。旧幕臣たちの再就職の斡旋もした。
 明治十七年七月七日、華族令が制定され、公・候・伯・子・男の五段階の勲位が設けられたという。安芳が受勲したのは明治二十年である。ともに受勲したのは、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、伊藤博文らである。
  三傑亡き後は、内閣議に空白が生まれた。伊藤の盟友だった井上馨(聞多)が「これからの首相は赤電報(外国語新聞)が読めなければ駄目だ」と口火をきる。と、山懸有朋が「なら伊藤くんしかいないなあ」といい、伊藤博文が内閣総理大臣になった。
 第一代の初代日本の大総理である。すぐに伊藤は大日本帝国憲法(明治憲法)を発足。『学問のススメ』で『天はひとの上にひとを作らず、ひとの下にひとを作らず…』などと高尚なことを書いた福澤諭吉は、実際には自分の娘の嫁ぎ先は『金持ちの家』とした。
 明治33年(1900年)には立憲政友会を創設した。初代総裁となった。何でも一番先が好きな伊藤博文はまた、贅沢な暮らしをしていたという。
 どうやら政党助成金を搾取していたらしいが、当時は政治家など皆そんなものだった。『立憲民主主義の父』として明治憲法を作った男として称えられることの多い博文だが、外国の見方は違う。韓国人から見れば、韓国を併合し植民地化した張本人である。
 安重根は韓国では文武に優れ、キリスト教の信仰の厚い愛国の志……と教科書に載っているという。伊藤博文は西欧に留学し、近代民主主義や議会制民主主義を研究したのに、絶対君主としての天皇制を憲法に埋めこんでしまった。第二次世界大戦の原因は伊藤博文にある……といっても過言ではない。


 戦火


第二次伊藤内閣が発足し、明治天皇に御前会議で伊藤博文は深々と上座の椅子に座る明治天皇に頭を垂れた。伊藤博文は極端な「天皇崇拝」と「恐露病(ロシアへの恐れ)」になっていた。内閣閣僚の中の陸奥宗光は嫌われ者で人望もない。坂本龍馬の「海援隊」にいるときも嫌われていた。だが、伊藤博文は陸奥宗光の才能を買っていた。
 帝国日本は西欧軍備を固め「軍国主義」と軍事大国になっていった。「富国強国」「産めよ増やせよ」。日清戦争に関して言えば巨大帝国・プロシア(ロシア)の恫喝に恐れを持って「とにかく緩衝地帯としての清国(中国)、朝鮮を奪っておけ」ということでしかない。
「朝鮮併合」から150年たった現代でもあまり日本人が中国、朝鮮に侮蔑にも似た感情を抱くのもここから来る。第三次伊藤内閣では自由党と進歩党との連立内閣になった。伊藤博文の首相としての位置は磐石ではなかった。山県有朋、陸奥宗光、松方(若手のホープ)、大隈重信、桂太郎(桂小五郎の息子)、小村寿太郎などに揺さぶられ「内憂外患」状態である。
 景気も悪い。打算で結んだ日英同盟は第一次世界大戦勝利という思わぬ「瓢箪から駒」となった。伊藤博文は陰で「恐露病」と嘲笑されながらもロシア帝国の皇太子・ニコライ二世と外相・ロバノフらと会談した。スーツに勲章をこれでもか、とつけて平伏したのである。
  伊藤博文は眠れぬ夜を過ごした。悪夢ばかりみる。「朝鮮と清国だけで充分だ」
 明治天皇との御前会議でも西欧列強の脅威、特にロシアの脅威を諭すが、「バカども」が暴走していく。伊藤は総理をやめた。引退後、伊藤博文、山県有朋らは「元老」となった。
 伊藤博文は「朝鮮総聯」になった。
 伊藤は暗殺されるのを知っていたのか?ともいえる言葉を家族に贈っている。
「人はみな持って生まれた才能がある。俺は畳の上では死ねまいよ」   

  日露戦争から04年で百年となった。
 先の日清(中国戦争)で勝利した東郷平八郎は陸軍総司令官となり、乃木希典は陸軍参謀となった。乃木は中国の旅順に進駐して、ロシア軍艦隊やロシアと対峙していた。
 しかし、湾に浮かぶロシア艦隊を砲撃するには二〇三高地を奪取するしかない。
 だが、そこはロシア軍の要塞があって苦戦しそうだ。
 このままロシアのバルチック艦隊が欧州地方からやってくればはさみうちだ。
 乃木は白髪頭をぼりぼりかいた。
 乃木希典はもう年寄りで、皺も目立つ。戊辰戦争(明治維新)のとき参戦し、西郷の乱(鹿児島戦争)では天皇からの旗をうばわれている。
 また東郷も箱館(函館)戦役…つまり榎本武揚・幕府脱走軍対官軍の戦争で、薩摩艦隊にのって、ときの新選組副長・土方歳三らにアボルタージ(第三国の旗をたてて近付き、接近して自国の旗をたてて艦隊を攻撃する戦法)され、あやうく死にかけている。
 ともに維新を生抜き、なぜか軍部の要職についていた。
 とにもかくにも二〇三高地をおさえないことにはロシアに勝てない。
「ふ~っ」
 乃木は溜め息をついた。
 さすがの乃木にも、死傷者がどれだけでるかもわからない。
 実際の話、この日露戦争では日露合わせて八千名が戦死している。
 圧倒的に日本兵が多く死んだ。
 ロシア側は要塞と艦隊などの戦死者だけでまだ戦えた……
 だが、日本側はもう戦える余裕もなかった。
 ちなみに日露戦争は明治二十七(一九〇四)年二月四日に勃発している。
 八千名も死んだのだからあとで高地に碑が建てられたのも納得である。
「しかし……」
 乃木は軍服のまま呟いた。
「わしは…日清戦争(対中国戦)で勝ったではないか…」
 そう、たしかに乃木希典は日清戦争(対中国戦)で勝っている。
 司令官として勇ましい采配をふるった。
 しかし、勝って当然なのである。
 清国は腐敗し、西皇太后が独裁し、のちに孫文や毛沢東に滅ぼされてしまうし、ロシアにしたって狂人の思想家・レーニンによって「ロシア革命」と称して滅ぼされてしまう。 中国、ロシアの後の思想、政策は最低の「共産主義」である。
 この頃、日本は富国強兵を掲げ、脱亜入欧をも掲げ、西洋諸国のマネをして侵略行為を繰り返していた。
 ……朝鮮、台湾、沖縄、中国東北部、海南島、インドシナ、シャム(タイ)…

 なぜ日露戦争が起こったのか?
 それは当時のロシア帝国が清国(現在の中国)まで侵略してきて南侵してきて日本が対抗しようとしたことからはじまっている。
 日本海軍は艦隊を中国・旅順に向かわせた。
 そこでロシア艦隊と対峙したのである。
 だが、おちおちしてると欧州からのロシア艦隊(バルチック艦隊)がきてハサミうちにされてしまう。
 そこで、送り出されたのが日清戦争の英雄、乃木希典であった。
「まず陸軍が湾内のロシア艦隊を砲撃できる場所までいかなくてはならない」
 乃木はいった。
 中国・旅順は平地が少なく、ほとんどをこ高い丘で囲まれている。
 いまいる日本陸軍の位置では、ロシア艦隊がわからない。
 つまり砲撃できない。
 このままではロシア艦隊(バルチック艦隊)がきてハサミうちにされてしまう。
 日本軍はロシア側のつくった要塞の前で、銃幕で蠅のように殺されていく…
 明治三十九年六月六日、乃木は陸軍司令官となった。
 ……この危機をのりこえてくれ!
 ……日本を西洋列強と同じような国にしてくれ!
 乃木はこのような日本軍の期待を肩に背負っていた。
 日清戦争に勝った乃木なら勝てるかも知れない……
 なんともない重圧である。
 乃木は自分がつぶれるのではないか? というほどプレッシャーを受けていた。
 老人にとっては重い荷物だ。しかし、ここで諦めれば日本は西洋に追いつき追い越すことが出来なくなる。
 当時の日本人はそんな傲慢な気持ちをもっていたという。
 だからのちに真珠湾攻撃などと馬鹿なこともやらかす訳だ。
 乃木には読めていた。
 ……ロシアの兵器は旧式なものばかりだ…
 ……ロシアは金が足りず、武器や軍艦をそろえられない……
 ……ロシアは共産党テロリズムに悩まされ、王政を維持できなくなりつつある…
 彼にはロシアがどんな国か最初から読めていた。
 チーフーから日本軍に連絡がきた。
 暗号を解読したのだ。
 乃木はいさんでやってきた。
「ロシア側の暗号解読成功か?!」
「はっ!」
 内容はこうである。
 ……旅順要塞は強固。ざんごうが三段あって、コンクリートで覆われている。ロシア軍は砲台や機関銃台まで装備してあり、コンクリートで防護されている。
 高圧鉄条網で囲まれて侵入困難……
 つまり二〇三高地の要塞は難攻不落ということだ。
「なんたることだ!」
 乃木は呟いた。
 しかし、東京の陸軍や大本栄は、
「二〇三高地を取れ! 取れ!」
 と、ばかり馬鹿のひとつ覚えのようにいってくる。
 乃木は迷ったことだろう。
 このままでは日本兵士たちの負け……膨大な戦死者を覚悟しなければならない。
 しかし、浮かれやすい日本人たちは「勝てよ! 勝てよ!」
 などと提灯踊りで盛り上がるばかり……
「この国は腐ってるんだ」
 思わず乃木はいいそうになった。
 弱体化した清国(現在の中国)にかっただけで、もうこの日本という国は尚武の国…やれ神の国ぞ、神風ぞなどとうかれる。
 うかれやすく冷めにくい日本人はどこまでも愚鈍だった。
 彼等は原爆の洗礼を受けるまで自分たちの国の犯罪を反省しようともしない。
 喉元過ぎれば熱さ忘れるで、それから六十年以上経つと今度は「侵略なんてなかった」「従軍慰安婦なんていなかった」「虐殺などなかった」
 などとほざく。
 乃木はこうした日本人の幼稚なメンタリティを理解していた。
 だから重荷に思えた。
 ……負けなきゃわからないんだ日本という国は…


          二〇三高地






「この局面を打開するにはこの作戦しかない」
 日本軍軍幹部は、暗い部屋で薄明りの中いった。皆、軍儀で黒い軍服姿である。
 いったのはそのうちの幹部の老人だった。東郷平八郎である。
「二〇三高地占領! これしかない」
「しかし…」
 軍儀に同席していた軍服の、乃木希典は何かいいかけた。
 乃木はプロシアに留学した経験があり、露国の軍事力、兵力、技術力を熟知していた。その結論が、日本の力では露軍には勝てない……
 というものだった。
 しかし、軍儀ではみな集団ヒステリーのようになっている。天皇(明治天皇・睦仁)でさえ戦争反対ともいえない状態にあった。
 乃木はためらった。
 自分の力では戦争を止める力はない。天皇陛下が「戦争回避」といってくれればいいが、天皇は何ひとつ発しない。現人神だから、自分の、人間としての言葉を発しないのは当たり前なのだ。乃木は……”短期決戦なら勝てるかも知れない”と甘くよんだ。
 長期戦となれば、圧倒的に軍事力が違うから勝つ見込みはほとんどない。
 乃木希典は意を決した。
「わしも二〇三高地攻略には賛成いたす。ただし、奇襲ではいかん」
「……もちろんだとも」
「まず、露国外務省に電報で”攻撃”を知らせてそれから開戦だ!」
 乃木はいった。

「司令官、わが日本は勝てるでしょうか?」
 あるとき、部下がきいてきた。
「日本と露国の差は歴然……短期決戦なら勝てるかも知れない」
「しかし」
 部下は訝しがった。「わが日本帝国は清国(中国)にも勝ちました。わが国は尚武の国です。まける訳がないじゃないですか?」
 乃木は何もいわなかった。
 ……負けなきゃわからぬのだ。この国の人間は…

  日本が日露戦争に踏み切ったこと自体、考えれば、国家戦略などなかったことを物語っている。ちゃんとした戦略があったなら、あの時点で、ロシアと戦うなど考えられなかったからだ。
 当時の日本はロシアと比較すると生産力は十分の一でしかなく、領土は三十四分の一、人口は半分、島国のうえ原料はほとんど輸入に頼っており、補給路を絶たれたらそれでおわりである。
 これではちゃんとした戦略などたてられる訳がない。
 少なくても生産力がロシアの二分の一、原料、とくに石油の自給率が七十パーセントくらいならまだちゃんと勝てるチャンスがあったかも知れない。
「この絶対的不利である日本国をすくうために開戦するのだ!」
 軍部の老人はいきまいた。
「自衛の戦争である!」
 老人たちはいう。
 確かに、彼等のごく狭い視野からみればそうであったかも知れない。
 日本はいきずまっていた。
 原料確保のためにはなんとか行動をおこさなければならない。
 そこで南方進出を決定する。
 ブルネイやインドネシアには石油がある。フィリピンには天然ガスが……
(当時、日本は満州国を保有していたが、石炭しかでなかった。また侵略していた中国では長期戦に引き摺りこまれていた)。
「この戦争はなんとしても勝たなければならない!」
 日本軍部はいきまいた。

*******続く(刊行本あるいは電子書籍に続く)続く********
                              

【スマホ跋扈の陰でPCオンチ増加】パソコンもまともに扱えない若者。ビジネスではPCの技術が成果直結!!

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現在の日本人の若者のほとんどがパソコンを扱えない状態であるという。


結論から書くとスマホがあれば事足りるから(笑)


わざわざ自宅に電話線や光回線をひくのは費用がかかるという

笑えない話(ビジネスではPCの技術が成果と直結するから)だ。


スマホ程使えない道具もない。


プログラム一つ組めない。




緑川鷲羽そして始まりの2016年2017年へ!臥竜  緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

【ついにゲス&ベッキー引退解散】 ベッキー芸能界引退へ 事務所コントロール不能

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【ついにゲス&ベッキー】 ベッキー芸能界引退へ 事務所コントロール不能
2016年02月11日
スキャンダル







1: 影のたけし軍団ρ ★@\(^o^)/
『ゲスの極み乙女。』のボーカル・川谷絵音(27)との不倫騒動でいまやお茶の間の敵と化したベッキー(31)が休業を発表した。
不倫騒動がいまだ収束しない中、所属事務所がレギュラー番組を持つ各テレビ局に申し入れ、最低でも数カ月単位で収録参加を見合わせる。
ところが、そんなベッキーを巡って急浮上しているのが芸能界引退説。なんとベッキー自らが引退を申し出ているという。

「正直、今のベッキーは糸の切れた凧のような状態だ。誰も彼女をコントロールできない。
デビュー当時から彼女を見守ってきたM女史の言葉にも耳を貸さないありさまですよ」
と顔を曇らせるのはさるプロダクション関係者。そこにはかつて“芸能界一の優等生”と言われたベッキーの姿はどこにも見当たらない。

「川谷との不倫愛を『貫く』と言って譲らないそうです。なんたってあの司会ぶりやリアクションは天下一品。
実力はこの数年間でバラエティー番組やCMでそれぞれ10本のレギュラーを持ち、女王の座を射止めたことでも明らか。
ベッキーの損失はテレビ界にとっても痛い。本当に残念だ」(キー局編成マン)

業界関係者の期待とは裏腹に、ベッキーの引退決意は固いという。
ベッキーと長年に渡り苦楽を共にしてきた事務所関係者や番組スタッフ、果ては親しい芸能人らが入れ代わり立ち代わり川谷と別れるよう説得しても、彼女は決して首を縦に振らないのだ。

「恋は盲目と言うが、まさか初スキャンダルでベッキーがハマってしまうとは…。
正直言って、これまで何度も話し合いが持たれてきたんです。でも、結論は毎回同じになってしまう。
ベッキーはオウム返しのように『彼とは絶対に別れない。死んでも別れたくない』と繰り返すんです。

親しい番組プロデューサーが『川谷も現在の奥さんと泥沼状態だ。そもそも奥さんは別れるつもりなど微塵もないらしい。
離婚裁判が始まれば誰も得をしないんだよ』と優しく諭しても『彼は一緒になると約束してくれた。信じています』と泣き出してしまう。

業を煮やした事務所幹部に『芸能界で仕事がなくなるかもしれないよ』と畳みかけられると、『誰にも迷惑を掛けたくない。責任を取る形で仕事も辞めたい…』などと言い出す始末」(芸能プロ関係者)

なぜ、ベッキーはそこまで川谷に嵌ったのか? ちょっと下世話な話しにも触れておこう。
なんとベッキーにとって川谷が初めての男だったという噂が浮上しているのだ。

「一連の騒動を振り返れば、身も心もトロトロにされていることは明白。そうじゃないとすべての事に合点がいかない。
しかも、音楽関係者の間ではゲス川谷は超プレイボーイのテクニシャン。色々な意味で川谷の虜なんですよ」(同)
http://wjn.jp/article/detail/8710106/

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6: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
いよいよベッキーからレイボーンに戻るのか。

7: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
代わりは他にもいるだろ。

8: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ベッキー可哀想
早く引退させてやれよ

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
村本出番だよ

12: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ギリギリまで引退で押し通す予定!笑

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ベッキーの後輩から擁護の声が全く出てこないw

32: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
川谷に捨てられたらどうするつもりなんだろう

34: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
清原が先かベッキーが先か

38: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
ベッキーは好感度しか武器なかったんだからもう無理だろ

39: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
数年後、天下一品のフロアで接客をしているが
誰にも気が着かれないバッキーであった…

83: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
カリビアンコム「待ってるで~」

ベッキーの心のとびら
ベッキーの心のとびら


引用元: ・【芸能】 ベッキー芸能界引退へ 事務所コントロール不能、CM10社撤退、テレビ局に苦情電話殺到・・・もうもたない!

タグ :ベッキー不倫裁判降板CM引退

【これは臭い】清原逮捕は「サウナ好き」が仇に!薬物常用者特有の体臭

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【これは臭い】清原逮捕は「サウナ好き」が仇に!薬物常用者特有の体臭
2016年02月12日
事件・事故





1: 砂漠のマスカレード ★@\(^o^)/
 球界のヒーローであり、人気プロ野球選手だった清原和博が、法律違反の薬物所持の現行犯で逮捕された。以前から様々な奇行が話題になっていたが「法律違反の薬物常習者には他にも特徴がある」と警察関係者は言う。

「テレビの警察密着番組で、よく“駐車している車の中にいる人に職務質問をしたら、法律違反の薬物が見つかった”という場面があります。
あれはどういうことなのかというと、違法薬物をやっているかどうかが“におい”でわかるからなんです」

一般の人には知られていないが、違法薬物を常用すると独特のにおいがするという。

「呼気や体から甘酸っぱい臭いがして、中には腋臭のような悪臭を放つようになる人もいます。中毒者と接する機会のある警察官は、そのにおいを知っている。
だから、職質した人からそのようなにおいがすれば、持ち物やポケットの中身などを検査するわけです。
ただ、一般の人には“単に体臭の強い人”としか思われないかもしれませんね。
清原容疑者はよくサウナに通っていたようですが、一緒に入っていた人はにおいがきつかったと思いますよ」(前出・警察関係者)

他にも違法薬物常習者には特徴がある。数多くの人と面談をしてきた、ある企業の元人事部だった人はこう話す。

「目です。薬物常習者もしくは常習していた人は、黒目と白目の境がにじんでいて、くっきりとした線になっていないんです。
違法薬物から脱しても、この特徴は消えないので、そういったものには手を出さない、ということは言うまでもありません」

一度手を染めると、なかなか脱するのが難しいクスリの世界。たとえ無事脱したとしても、その過去は消えないようだ。

http://dailynewsonline.jp/article/1086998/
アサ芸プラス

irezumi










5: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
くさそう

11: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
テレ朝近くのあのサウナは、芸能人とヤクザと警察官しかいない
間違って一度行ったことがあるけど、ヤバ過ぎて30分で退店したわ

14: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
個室サウナだから他人は分からんだろう

29: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
麻薬犬をサウナに常駐させたほうが手っ取り早いな

32: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
サウナはむしろ体臭は感じ難いと思うんだけどなー

36: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
サウナ好き芸人あやしい

38: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
そもそも清原は墨入ってるから普通のサウナはいけないでしょ

63: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
清原見たことあるけど、むちゃくちゃ怖かった
あんな露骨に怖い人間はなかなかいないと思う

69: 名無しさん@恐縮です@\(^o^)/
それならここまで重症になる前に逮捕してやれよww

週刊文春が報じた 清原和博「薬物疑惑」直撃取材のすべて【文春e-Books】
週刊文春が報じた 清原和博「薬物疑惑」直撃取材のすべて


引用元: ・【野球】清原逮捕は「サウナ好き」が仇となったか!?法律違反の薬物常用者特有の体臭とは?

タグ :清原和博逮捕薬物奇行薬物中毒

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説1

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新島八重の桜と、白虎隊と


                にいじまやえのさくらと、びゃっこたいと 会津藩の義の戦い!
               ~少年たちの決断!
               松平容保の「会津戦争」はいかにしてなったか。~
                フィクション小説
                 total-produced&PRESENTED&written by
                  MIDORIKAWA washu
                   緑川  鷲羽

         this novel is a dramatic interoretation
         of events and characters based on public
         sources and an in complete historical record.
         some scenes and events are presented as
         composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”
                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ

*(本作中の歴史説明文群は一部インターネットによるウィキペディア記事「ネタバレ記事」等を参照しています。なお、この物語の参考文献は池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰せず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」「白虎隊」「勝海舟」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、NHK大河ドラマ「八重の桜 ガイドブック」NIKKO ムック、他の複数の歴史文献。『維新史』東大史料編集所、吉川弘文館、『明治維新の国際的環境』石井孝著、吉川弘文館、『勝海舟』石井孝著、吉川弘文館、『徳川慶喜公伝』渋沢栄一著、東洋文庫、『勝海舟(上・下)』勝部真長著、PHP研究所、『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄』荻原延寿著、朝日新聞社、『近世日本国民史』徳富猪一郎著、時事通信社、『勝海舟全集』講談社、『海舟先生』戸川残花著、成功雑誌社、『勝麟太郎』田村太郎著、雄山閣、『夢酔独言』勝小吉著、東洋文庫、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎著、名著刊行会、ほか。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。裁判とか勘弁してください。盗作ではなくあくまで引用です。)
          
             あらすじ

<記事の一部に「ネタバレ」からの引用がある為「出版時」に印税の0.39%を引用元に>
 
1868年10月6日(慶応4年8月21日)に新政府軍が国境の母成峠を突破して会津に侵攻する。これの一報を受けた会津藩は1868年10月7日の朝と夜の2回、「屋並触(やなみぶれ)」を行った。
屋並触(やなみぶれ)とは、会津藩の役人が藩士の家々を戸別訪問して廻り、会津藩の方針や指示を告げていく行為である。役人は夕方の屋並触で、藩士の家を一軒一軒廻り、留守を守る婦女子に「鐘が鳴ったら、若松城の三の丸へ集まれ」と籠城に関する指示をしていく。
やがて、山本家にも役人がやってきた。屋並触を受けた母・山本佐久は、「女は足手まといになる。無駄に食料を消費するのは忍びない。市外へ逃げよう」と言うが、山本八重は「死んだ弟・山本三郎のため、主君のため、私は決死の覚悟で入城します」と言い放った。
それを聞いた屋並触の役人は、山本八重の意見を絶賛し、「女性は女中の仕事を頼みます。男が女中の仕事をしていては戦力が減ります」と言い、山本佐久にも入城を促した。こうして、母・山本佐久も若松城で籠城することを決めた。
山本八重は自宅で飼っている馬に乗って威風堂々と入城しようとしたのだが、役人に「状況は切迫している」と止められたため、馬での入城を中止して歩いて入城することにした。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、台風の影響で雨が降りしきるなか、若松城の城下町に早鐘が鳴り響く。
早鐘の音は、屋並触で通達した通り、城に逃げ込めという相図だったが、大砲や鉄砲の音にかき消されていた。既に新政府軍は戸ノ口原を突破し、そこまで迫っており、城下町は大混乱となった。
一方、山本八重は、山本家に寄宿していた仙台藩士の内藤新一郎と蔵田熊之助を見送っていた。
仙台藩は新政府軍との戦争に備えて、仙台藩士の内藤新一郎ら40数名を会津藩へ砲術修業へ出していた。
そして、内藤新一郎らに砲術を指南したのが、山本八重の夫・川崎尚之助であった。
戦争が近づくと、砲術修業に来ていた40数名は仙台へ戻ったが、内藤新一郎と蔵田熊之助は連絡役として会津に残ることを命じられ、山本家に寄宿していた。
やがて会津戦争が始まり、新政府軍は一気に会津領内に進入してきた。内藤新一郎らはこの状況を報告するため、仙台へと引き上げたのである。
内藤新一郎らを見送ると、山本八重は亡き弟・山本三郎の形見の紋付袴を着て、両刀を腰に差し、7連発スペンサー銃を担ぎ、飛んでくる銃弾をくぐり抜けながら、母・山本佐久や姪「山本峰(山本覚馬の娘)」と嫂「山本うら(覚馬の妻=樋口うら)」を伴って若松城へと向かった。
飛んできた鉄砲の弾が山本八重の耳元をかすめると、山本八重は思わず怯んだ。すると、母・山本佐久は「それでも藩士の家族ですか」と叱咤し、若松城を目指し、無事に若松城までたどり着いた。
なお、山本八重(新島八重)は54歳のとき、周囲の人間に促され、紋付き袴を着て若松城に入城した時の姿を再現し、写真を撮影している。
会津藩士の家族が取った行動は主に「若松城へ入城する」「食料を消費するのは申し訳ないため、自害する」「市外へ逃げる」の3つであった。
しかし、市外へ逃げようとした者は、卑怯者として身内の手で殺される者もいた。乳飲み子は足手まといになるとして、乳飲み子を殺して若松城へ向かう母親も居た。西郷頼母の一族のように、一族揃って自害する者も居た。
若松城に入城した会津藩士の家族には、着物が鮮血で染まった者も多く、山本八重が入城したとき、城内は殺伐としていた。
新政府軍の進軍は早く、若松城の直ぐに閉ざされた。若松城に入れなかった者も多かった。城外に残された者は市外へと逃げた。自宅に火を放ち、自刃に倒れた者も居た。
国境の母成峠が破られたことは、早々に若松城にも伝わっていたが、薩摩藩などから「鬼の官兵衛」と恐れられている会津一の猛将・佐川官兵衛が「敵を戸ノ口原で防ぎ、十六橋の東へ追い払う」と豪語して戸ノ口原へ出陣したため、城下町に避難命令は出ていなかった。
もし、前日に会津藩の役人が屋並触(やなみぶれ)を行った時に避難していれば、籠城初日の大混乱を起こすことは無かったに違いない。
黒船来航…幕末、松平容保は幕府の京守護職に抜擢された。会津藩主の殿様である。奮起して新選組とともに京都を守っていく。先進国を視察した容保にとって当時の日本はいびつにみえた。彼は幕府を批判していく。だが彼は若き将軍徳川家茂を尊敬していた。しかし、その将軍も死んでしまう。かわりは一橋卿・慶喜であった。勝海舟に不満をもつ榎本武揚らは海軍を保持するが、やがて長州藩による蛤御門の変(禁門の変)がおこる。幕府はおこって軍を差し向けるが敗走……龍馬の策によって薩長連合ができ、官軍となるや幕府は遁走しだす。やがて官軍は錦の御旗を掲げ江戸へ迫る。勝は西郷隆盛と会談し、「江戸無血開城」がなる。だが、会津藩の容保は官軍と戦う。幕府残党は奥州、蝦夷へ……
 そして会津戦争勃発。松平容保の「会津藩」は五ケ月で官軍につぶされる。切腹しようとしてとめられれた容保は官軍に投降、やがて投獄されるがあまりの知識をもっていたため新政府の要職へ。少年たちの死をもとに容保は明鏡止水の心だった。
 今から百数十年前、福島県・会津藩、戊辰戦争は会津戦争終結の明治二年夏までまたなくてはならない。その会津に共和国をつくったのが松平容保である。
「会津には心儀がある! 官軍何するものぞ!」
 幕府海軍副総裁の榎本武揚らは薩長官軍に反発して、奥州(東北)、そして蝦夷(北海道)まで旧幕臣「榎本脱走兵」たちとともにいく。そこで共和国をつくるが、わずか五ケ月で滅ぼされてしまう。
 その間も松平容保は会津の鶴ケ城で官軍と対峙する。松平容保の戦略とは何だったのか?
「白虎隊」と呼ばれて組織された少年たちとは何だったのか?
 それを拙書であきらかにしたい。幕末の英雄・松平容保とは………


         1 江戸最後の日


 いわゆる戊辰戦争の末期、会津藩(現在の福島県)に薩長官軍が「天皇の印」である「錦の御旗」を掲げて、会津城下まで進攻し、会津藩士たちや藩主・松平容保の籠城する「鶴ヶ城(会津若松城)」に雨霰の如く大砲弾や鉄砲を浴びせかける。「いいが?!よぐ狙っで撃ちなんしょ!」若松城には、この物語の主人公・山本八重が、スペンサー銃で武装し、男装して少年鉄砲隊を率いている。銃弾が飛び交い、八重の近くでも大砲の砲弾がさく裂する。会津若松城はもう砲撃でぼろぼろだ。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!……会津は渡さねえ。会津の地を土足で踏み荒らす薩長をわだすは許さねえ。ならぬものはならぬものです」そういって城壁から官軍の指揮者を狙った。さすがに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」である。官軍指揮者の獅子舞のかつらのようなものをかぶった大山巌(西郷隆盛のいとこ)の脚に弾丸を命中させる。
「よし、命中んだ」少年兵たちも笑顔になった。「やっだあ!薩摩の大将に当だっだ!」「さすけねが、ほれ、にしらもようっぐ狙っで撃ちなんしょ」「はい!」
 会津藩の戊辰戦争はまだまだおわりそうもない。八重は髪も短くして、若い少年兵のリーダー的な存在にまでなった。「なして会津が逆賊なんだず!会津は京の都で天子さま(公明天皇のこと)や幕府を守っで戦っだのだべした。なら会津に義があるべず!会津の地を渡ざねえ!」八重は男装のまま下唇を噛んだ。
この物語の参考文献はウィキペディア、ネタバレ、堺屋太一著作、司馬遼太郎著作、童門冬二著作、池宮彰一郎著作「小説 高杉晋作」、津本陽著作「私に帰せず 勝海舟」、日本テレビドラマ映像資料「田原坂」「五稜郭」「奇兵隊」、NHK映像資料「歴史秘話ヒストリア」「その時歴史が動いた」大河ドラマ「龍馬伝」「篤姫」「新撰組!」「八重の桜」「坂の上の雲」、「花燃ゆ」漫画「おーい!竜馬」一巻~十四巻(原作・武田鉄矢、作画・小山ゆう、小学館文庫(漫画的資料))、他の複数の歴史文献。「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではありません。引用です。
なおここから数十行の文章は小林よしのり氏の著作・『ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり「大東亜論 第5章 明治6年の政変」』小学館SAPIO誌2014年6月号小林よしのり著作漫画、72ページ~78ページからの文献を参考にしています。
 盗作ではなくあくまで引用です。前述した参考文献も考慮して引用し、創作しています。盗作だの無断引用だの文句をつけるのはやめてください。
  この頃、決まって政治に関心ある者たちの話題に上ったのは「明治6年の政変」のことだった。
 明治6年(1873)10月、明治政府首脳が真っ二つに分裂。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の五人の参謀が一斉に辞職した大事件である。
 この事件は、通説では「征韓論」を唱える西郷派(外圧派)と、これに反対する大久保派(内治派)の対立と長らく言われていきた。そしてその背景には、「岩倉使節団」として欧米を回り、見聞を広めてきた大久保派と、その間、日本で留守政府をに司っていた西郷派の価値観の違いがあるとされていた。しかし、この通説は誤りだったと歴史家や専門家たちにより明らかになっている。
 そもそも西郷は「征韓論」つまり、武力をもって韓国を従えようという主張をしたのではない。西郷はあくまでも交渉によって国交を樹立しようとしたのだ。つまり「親韓論」だ。西郷の幕末の行動を見てみると、第一次長州征伐でも戊辰戦争でも、まず強硬姿勢を示し、武力行使に向けて圧倒な準備を整えて、圧力をかけながら、同時に交渉による解決の可能性を徹底的に探り、土壇場では自ら先方に乗り込んで話をつけるという方法を採っている。勝海舟との談判による江戸無血開城がその最たるものである。
 西郷は朝鮮に対しても同じ方法で、成功させる自信があったのだろう。
 西郷は自分が使節となって出向き、そこで殺されることで、武力行使の大義名分ができるとも発言したが、これも武力行使ありきの「征韓論」とは違う。
 これは裏を返せば、使節が殺されない限り、武力行使はできない、と、日本側を抑えている発言なのである。そして西郷は自分が殺されることはないと確信していたようだ。
 朝鮮を近代化せねばという目的では西郷と板垣は一致。だが、手段は板垣こそ武力でと主張する「征韓論」。西郷は交渉によってと考えていたが、板垣を抑える為に「自分が殺されたら」と方便を主張。板垣も納得した。
 一方、岩倉使節団で欧米を見てきた大久保らには、留守政府の方針が現実に合わないものに見えたという通説も、勝者の後付けだと歴史家は分析する。
 そもそも岩倉使節団は実際には惨憺たる大失敗だったのである。当初、使節団は大隈重信が計画し、数名の小規模なものになるはずだった。
 ところが外交の主導権を薩長で握りたいと考えた大久保利通が岩倉具視を擁して、計画を横取りし、規模はどんどん膨れ上がり、総勢100人以上の大使節団となったのだ。
 使節団の目的は国際親善と条約改正の準備のための調査に限られ、条約改正交渉自体は含まれていなかった。
しかし功を焦った大久保や伊藤博文が米国に着くと独断で条約改正交渉に乗り出す。だが、本来の使命ではないので、交渉に必要な全権委任状がなく、それを交付してもらうためだけに、大久保・伊藤の2人が東京に引き返した。大使節団は、大久保・伊藤が戻ってくるまで4か月もワシントンで空しく足止めされた。大幅な日程の狂いが生じ、10か月半で帰国するはずが、20か月もかかり、貴重な国費をただ蕩尽(とうじん)するだけに終わってしまったのだ。
 一方で、その間、東京の留守政府は、「身分制度の撤廃」「地租改正」「学制頒布」などの新施策を次々に打ち出し、着実に成果を挙げていた。
 帰国後、政治生命の危機を感じた大久保は、留守政府から実権を奪取しようと策謀し、これが「明治6年の政変」となったのだ。大久保が目の敵にしたのは、板垣退助と江藤新平であり、西郷は巻き添えを食らった形だった。
 西郷の朝鮮への使節派遣は閣議で決定し、勅令まで下っていた。それを大久保は権力が欲しいためだけに握りつぶすという無法をおこなった。もはや朝鮮問題など、どうでもよくなってしまった。
 ただ国内の権力闘争だけがあったのだ。こうして一種のクーデターにより、政権は薩長閥に握られた。
 しかも彼ら(大久保や伊藤ら)の多くは20か月にも及んだ外遊で洗脳されすっかり「西洋かぶれ」になっていた。もはや政治どころではない。国益や政治・経済の自由どころではない。
 西郷や板垣らを失った明治政府は誤った方向へと道をすすむ。日清戦争、日露戦争、そして泥沼の太平洋戦争へ……歴史の歯車が狂い始めた。
(以下文(参考文献ゴーマニズム宣言大東亜論)・小林よしのり氏著作 小学館SAPIO誌7月号74~78ページ+8月号59~75ページ+9月号61~78ページ参考文献)
この頃、つまり「明治6年の政変」後、大久保利通は政治家や知識人らや庶民の人々の怨嗟(えんさ)を一身に集めていた。維新の志を忘れ果て、自らの政治生命を維持する為に「明治6年の政変」を起こした大久保利通。このとき大久保の胸中にあったのは、「俺がつくった政権を後から来た連中におめおめ奪われてたまるものか」という妄執だけだった。
西郷隆盛が何としても果たそうとした朝鮮使節派遣も、ほとんど念頭の片隅に追いやられていた。これにより西郷隆盛ら5人の参議が一斉に下野するが、西郷は「巻き添え」であり…そのために西郷の陸軍大将の官職はそのままになっていた。この政変で最も得をしたのは、井上馨ら長州汚職閥だった。長州出身の御用商人・山城屋和助が当時の国家予算の公金を使い込んだ事件や……井上馨が大蔵大臣の職権を濫用して民間の優良銅山を巻き上げ、自分のものにしようとした事件など、長州閥には汚職の疑惑が相次いだ。だが、この問題を熱心に追及していた江藤新平が政変で下野したために、彼らは命拾いしたのである。
江藤新平は初代司法卿として、日本の司法権の自立と法治主義の確立に決定的な役割を果たした人物である。江藤は政府で活躍したわずか4年の間に司法法制を整備し、裁判所や検察機関を創設して、弁護士・公証人などの制度を導入し、憲法・民法の制定に務めた。
もし江藤がいなければ、日本の司法制度の近代化は大幅に遅れたと言っても過言ではない。そんな有能な人材を大久保は政府から放逐したのだ。故郷佐賀で静養していた江藤は、士族反乱の指導者に祭り上げられ、敗れて逮捕された。江藤は東京での裁判を望んだが、佐賀に3日前に作られた裁判所で、十分な弁論の機会もなく、上訴も認めない暗黒裁判にかけられ、死刑となった。新政府の汚職の実態を知り尽くしている江藤が、裁判で口を開くことを恐れたためである。それも斬首の上、さらし首という武士に対してあり得ない屈辱的な刑で……しかもその写真が全国に配布された。(米沢藩の雲井龍雄も同じく死刑にされた)すべては大久保の指示による「私刑」だった。
「江藤先生は惜しいことをした。だが、これでおわりではない」のちの玄洋社の元となる私塾(人参畑塾)で、武部小四郎(たけべ・こしろう)はいった。当時29歳。福岡勤皇党の志士の遺児で、人参畑塾では別格の高弟であった。身体は大きく、姿は颯爽(さっそう)、親しみ易いが馴れ合いはしない。質実にて華美虚飾を好まず、身なりを気にせず、よく大きな木簡煙管(きせる)を構えていた。もうひとり、頭山満が人参畑塾に訪れる前の塾にはリーダー的な塾生がいた。越智彦四郎(おち・ひこしろう)という。武部小四郎、越智彦四郎は人参畑塾のみならず、福岡士族青年たちのリーダーの双璧と目されていた。だが、二人はライバルではなく、同志として固い友情を結んでいた。それはふたりがまったく性格が違っていたからだ。越智は軽薄でお調子者、武部は慎重で思慮深い。明治7年(1874)2月、江藤新平が率いる佐賀の役が勃発すると、大久保利通は佐賀制圧の全権を帯びて博多に乗り込み、ここを本営とした。全国の士族は次々に社会的・経済的特権を奪われて不平不満を強めており、佐賀もその例外ではなかったが、直ちに爆発するほどの状況ではなかった。にもかかわらず大久保利通は閣議も開かずに佐賀への出兵を命令し、文官である佐賀県令(知事にあたる)岩村高俊にその権限を与えた。文官である岩村に兵を率いさせるということ自体、佐賀に対する侮辱であり、しかも岩村は傲慢不遜な性格で、「不逞分子を一網打尽にする」などの傍若無人な発言を繰り返した。こうして軍隊を差し向けられ、挑発され、無理やり開戦を迫られた形となった佐賀の士族は、やむを得ず、自衛行動に立ち上がると宣言。休養のために佐賀を訪れていた江藤新平は、やむなく郷土防衛のため指揮をとることを決意した。これは、江藤の才能を恐れ、「明治6年の政変」の際には、閣議において西郷使節派遣延期論のあいまいさを論破されたことなどを恨んだ大久保利通が、江藤が下野したことを幸いに抹殺を謀った事件だったという説が今日では強い。そのため、佐賀士族が乱をおこした佐賀の乱というのではなく「佐賀戦争」「佐賀の役」と呼ぶべきと提唱されている。その際、越智彦四郎は大久保利通を訪ね、自ら佐賀との調整役を買って出る。大久保は「ならばおんしに頼みたか。江藤ら反乱軍をば制圧する「鎮撫隊」をこの福岡に結成してくれもんそ」という。越智彦四郎は引き受けた。だが、越智は策士だった。鎮撫隊を組織して佐賀の軍に接近し、そこで裏切りをして佐賀の軍と同調して佐賀軍とともに明治政府軍、いや大久保利通を討とう、という知略を謀った。武部は反対した。
「どこが好機か?大久保が「鎮撫隊」をつくれといったのだ。何か罠がある」
だが、多勢は越智の策に乗った。だが、大久保利通の方が、越智彦四郎より一枚も二枚も上だった。大久保利通は佐賀・福岡の動静には逐一、目を光らせていて、越智の秘策はすでにばれていた。陸軍少佐・児玉源太郎は越智隊に鉄砲に合わない弾丸を支給して最前線に回した。そのうえで士族の一部を率いて佐賀軍を攻撃。福岡を信用していなかった佐賀軍は越智隊に反撃し、同士討ちの交戦となってしまった。越智隊は壊滅的打撃を受け、ようやくの思いで福岡に帰還した。その後、越智彦四郎は新たな活動を求めて、熊本・鹿児島へ向かった。武部はその間に山籠もりをして越智と和解して人参畑塾に帰還した。
「明治6年の政変」で下野した板垣退助は、江藤新平、後藤象二郎らと共に「愛国公党」を結成。政府に対して「民選議員設立建白書」を提出した。さらに政治権力が天皇にも人民にもなく薩長藩閥の専制となっていることを批判し、議会の開設を訴えた。自由民権運動の始まりである。だが間もなく、佐賀の役などの影響で「愛国公党」は自然消滅。そして役から1年近くが経過した明治8年(1875)2月、板垣は旧愛国公党を始めとする全国の同志に結集を呼びかけ「愛国社」を設立したのだった。板垣が凶刃に倒れた際「板垣死すとも自由は死せず」といったというのは有名なエピソードだが、事実ではない。
幕末、最も早く勤王党の出現を見たのが福岡藩だった。だが薩摩・島津家から養子に入った福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)は、一橋家(徳川将軍家)と近親の関係にあり、動乱の時代の中、勤王・佐幕の両派が争う藩論の舵取りに苦心した。黒田長溥は決して愚鈍な藩主ではなかった。だが次の時代に対する識見がなく、目前の政治状況に過敏に反応してしまうところに限界があった。大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)という幕府始まって以来の不祥事を機に勤王の志士の動きは活発化。これに危機感を覚えた黒田長溥は筑前勤王党を弾圧、流刑6名を含む30余名を幽閉等に処した。これを「庚申(こうしん)の獄」という。その中にはすでに脱藩していた平野國臣もいた。女流歌人・野村望東尼(ぼうとうに)は獄中の國臣に歌(「たぐいなき 声になくなる 鶯(ウグイス)は 駕(こ)にすむ憂きめ みる世なりけり」)を送って慰め、これを機に望東尼は勤王党を積極的に支援することになる。尼は福岡と京都をつなぐパイプ役を務め、高杉晋作らを平尾山荘に匿い、歌を贈るなどしてその魂を鼓舞激励したのだった。
この頃、坂本竜馬らよりもずっと早い時点で、薩長連合へ向けた仲介活動を行っていたのが筑前勤王党・急進派の月形洗蔵(つきがた・せんぞう、時代劇「月形半平太(主演・大川橋蔵)」のモデル)や衣斐茂記(えび・しげき)、建部武彦らだった。また福岡藩では筑前勤王党の首領格として羨望があった加藤司書(かとう・ししょ)が家老に登用され、まさしく維新の中心地となりかけていたという。だが、すぐに佐幕派家老が勢力を取り戻し、さらに藩主・黒田長溥が勤王党急進派の行動に不信感を抱いたことなどから……勤王党への大弾圧が行われたのだ。これを「乙丑(いっちゅう)の獄」という。加藤、衣斐、建部ら7名が切腹、月形洗蔵ら14名が斬首。野村望東尼ら41名が流罪・幽閉の処分を受け、筑前勤王党は壊滅した。このとき、姫島に流罪となる野村望東尼を護送する足軽の中に15歳の箱田六輔がいた。そして武部小四郎は「乙丑の獄」によって切腹した建部武彦の遺児であった(苗字は小四郎が「武部」に改めた)。福岡藩は佐幕派が多かったが、戊辰の役では急遽、薩長官軍についた。それにより福岡藩の家老ら佐幕派家老3名が切腹、藩士23名が遠島などの処分となった。そして追い打ちをかけるように薩長新政府は福岡藩を「贋札づくり」の疑惑で摘発した。当時、財政難だった藩の多くが太政官札の偽造をしていたという。西郷隆盛は寛大な処分で済まそうと尽力した。何しろ贋札づくりは薩摩藩でもやっていたのだ。だが大久保利通が断固として、福岡藩だけに過酷な処罰を科し、藩の重職5名が斬首、知藩事が罷免となった。これにより福岡藩は明治新政府にひとりの人材も送り込めることも出来ず、時代から取り残されていった。この同じ年、明治8年9月、近代日本の方向性を決定づける重大な事件が勃発した。「江華島(こうかとう・カンファンド)事件」である。これは開国要請に応じない朝鮮に対する砲艦外交そのものであった。そもそも李氏朝鮮の大院君はこう考えていた。「日本はなぜ蒸気船で来て、洋服を着ているのか?そのような行為は華夷秩序(かいちつじょ)を乱す行為である」
華夷秩序は清の属国を認める考えだから近代国家が覇を競う時代にあまりに危機感がなさすぎる。だからといって、砲艦外交でアメリカに開国させられた日本が、朝鮮を侮る立場でもない。どの国も、力ずくで国柄を変えられるのは抵抗があるのだ。日本軍艦・雲揚(うんよう)は朝鮮西岸において、無許可の沿海測量を含む挑発行動を行った。さらに雲揚はソウルに近い江華島に接近。飲料水補給として、兵を乗せたボートが漢江支流の運河を遡航し始めた時、江華島の砲台が発砲!雲揚は兵の救援として報復砲撃!さらに永宗島(ヨンジュンド)に上陸して朝鮮軍を駆逐した。明治政府は事前に英米から武力の威嚇による朝鮮開国の支持を取り付け、挑発活動を行っていた。そしてペリー艦隊の砲艦外交を真似て、軍艦3隻と汽船3隻を沖に停泊させて圧力をかけた上で、江華島事件の賠償と修好条約の締結交渉を行ったのだった。この事件に、鹿児島の西郷隆盛は激怒した。
「一蔵(大久保)どーん!これは筋が違ごうじゃろうがー!」
大久保らは、「明治6年の政変」において、「内治優先」を理由としてすでに決定していた西郷遣韓使節を握りつぶしておきながら、その翌年には台湾に出兵、そしてさらに翌年にはこの江華島事件を起こした。「内治優先」などという口実は全くのウソだったのである。特に朝鮮に対する政府の態度は許しがたいものであった。
西郷は激昴して「ただ彼(朝鮮)を軽蔑して無断で測量し、彼が発砲したから応戦したなどというのは、これまで数百年の友好関係の歴史に鑑みても、実に天理に於いて恥ずべきの行為といわにゃならんど!政府要人は天下に罪を謝すべきでごわす!」
西郷は、測量は朝鮮の許可が必要であり、発砲した事情を質せず、戦端を開くのは野蛮と考えた。
「そもそも朝鮮は幕府とは友好的だったのでごわす!日本人は古式に則った烏帽子直垂(えぼしひたたれ)の武士の正装で交渉すべきでごわす!軍艦ではなく、商船で渡海すべきでごわんそ!」
西郷は政府参与の頃、清と対等な立場で「日清修好条規」の批准を進め、集結した功績がある。なのに大久保ら欧米使節・帰国組の政府要人は西郷の案を「征韓論」として葬っておきながら、自らは、まさに武断的な征韓を行っている。西郷隆盛はあくまでも、東洋王道の道義外交を行うべきと考えていた。西郷は弱を侮り、強を恐れる心を、徹底的に卑しむ人であった。大久保は西洋の威圧外交を得意とし、朝鮮が弱いとなれば侮り、侵略し、欧米が強いとなれば恐れ、媚びへつらい、政治体制を徹底的に西洋型帝国の日本帝国を建設しようとしたのだ。西郷にとっては、誠意を見せて朝鮮や清国やアジア諸国と交渉しようという考えだったから大久保の考えなど論外であった。だが、時代は大久保の考える帝国日本の時代、そして屈辱的な太平洋戦争の敗戦で、ある。大久保にしてみれば欧米盲従主義はリアリズム(現実主義)であったに違いない。そして行き着く先がもはや「道義」など忘れ去り、相手が弱いと見れば侮り、強いと見れば恐れ、「WASPについていけば百年安心」という「醜悪な国・日本」なのである。

<ゴーマニズム宣言スペシャル小林よしのり著作「大東亜論 血風士魂篇」第9章前原一誠の妻と妾>2014年度小学館SAPIO誌10月号59~78ページ参照(参考文献・漫画文献)
明治初期、元・長州藩(山口県)には明治政府の斬髪・脱刀令などどこ吹く風といった連中が多かったという。長州の士族は維新に功ありとして少しは報われている筈であったが、奇兵隊にしても長州士族にしても政権奪還の道具にすぎなかった。彼らは都合のいいように利用され、使い捨てされたのだ。報われたのはほんの数人(桂小五郎こと木戸孝允や井上馨(聞多)や伊藤博文(俊輔)等わずか)であった。明治維新が成り、長州士族は使い捨てにされた。それを憤る人物が長州・萩にいた。前原一誠である。前原は若い時に落馬して、胸部を強打したことが原因で肋膜炎を患っていた。明治政府の要人だったが、野に下り、萩で妻と妾とで暮らしていた。妻は綾子、妾は越後の娘でお秀といった。
前原一誠は吉田松陰の松下村塾において、吉田松陰が高杉晋作、久坂玄瑞と並び称賛した高弟だった。「勇あり知あり、誠実は群を抜く」。晋作の「識」、玄瑞の「才」には遠く及ばないが、その人格においてはこの二人も一誠には遠く及ばない。これが松陰の評価であった。そして晋作・玄瑞亡き今、前原一誠こそが松陰の思想を最も忠実に継承した人物であることは誰もが認めるところだった。一誠の性格は、頑固で直情径行、一たび激すると誰の言うことも聞かずやや人を寄せつけないところもあったが、普段は温厚ですぐ人を信用するお人好しでもあった。一誠は戊辰戦争で会津征討越後口総督付の参謀として軍功を挙げ、そのまま越後府判事(初代新潟県知事)に任じられて越後地方の民政を担当する。
いわば「占領軍」の施政者となったわけだが、そこで一誠が目にしたものは戦火を受けて苦しむ百姓や町民の姿だった。「多くの飢民を作り、いたずらに流民を作り出すのが戦争の目的ではなかったはずだ。この戦いには高い理想が掲げられていたはず!これまでの幕府政治に代って、万民のための国造りが目的ではなかったのか!?」
少年時代の一誠の家は貧しく、父は内職で安物の陶器を焼き、一誠も漁師の手伝いをして幾ばくかの銭を得たことがある。それだけに一誠は百姓たちの生活の苦しさをよく知り、共感できた。さらに、師・松陰の「仁政」の思想の影響は決定的に大きかった。
「機械文明においては、西洋に一歩を譲るも、東洋の道徳や治世の理想は、世界に冠たるものである!それが松陰先生の教えだ!この仁政の根本を忘れたからこそ幕府は亡びたのだ。新政府が何ものにも先駆けて行わなければならないことは仁政を行って人心を安らかにすることではないか!」一誠は越後の年貢を半分にしようと決意する。中央政府は莫大な戦費で財政破綻寸前のところを太政官札の増発で辛うじてしのいでいる状態だったから、年貢半減など決して許可しない。だが、一誠は中央政府の意向を無視して「年貢半減令」を実行した。さらに戦時に人夫として徴発した農民の労賃も未払いのままであり、せめてそれだけでも払えば当面の望みはつなげられる。未払い金は90万両に上り、そのうち40万両だけでも出せと一誠は明治政府に嘆願を重ねた。だが、政府の要人で一誠の盟友でもあった筈の木戸孝允(桂小五郎・木戸寛治・松陰門下)は激怒して、「前原一誠は何を考えている!越後の民政のことなど単なる一地方のことでしかない!中央には、一国の浮沈にかかわる問題が山積しているのだぞ!」とその思いに理解を示すことは出来なかった。
この感情の対立から、前原一誠は木戸に憎悪に近い念を抱くようになる。一誠には越後のためにやるべきことがまだあった。毎年のように水害を起こす信濃川の分水である。一誠は決して退かない決意だったが、中央政府には分水工事に必要な160万両の費用は出せない。政府は一誠を中央の高官に「出世」させて、越後から引き離そうと画策。一誠は固辞し続けるが、政府の最高責任者たる三条実美が直々に来訪して要請するに至り、ついに断りきれなくなり参議に就任。信濃川の分水工事は中止となる。さらに一誠は暗殺された大村益次郎の後任として兵部大輔となるが、もともと中央政府に入れられた理由が理由なだけに、満足な仕事もさせられず、政府内で孤立していた。一誠は持病の胸痛を口実に政府会議にもほとんど出なくなり、たまに来ても辞任の話しかしない。「私は参議などになりたくはなかったのだ!私を参議にするくらいならその前に越後のことを考えてくれ!」
木戸や大久保利通は冷ややかな目で前原一誠を見ているのみ。
「君たちは、自分が立派な家に住み、自分だけが衣食足りて世に栄えんがために戦ったのか?私が戦ったのはあの幕府さえ倒せば、きっと素晴らしい王道政治が出来ると思ったからだ!民政こそ第一なのだ!こんな腐った明治政府にはいたくない!徳川幕府とかわらん!すぐに萩に帰らせてくれ!」大久保や木戸は無言で前原一誠を睨む。三度目の辞表でやっと前原一誠は萩に帰った。明治3年(1870)10月のことだった。政府がなかなか前原一誠の辞任を認めなかったのは、前原一誠を帰してしまうと、一誠の人望の下に、不平士族たちが集まり、よりによって長州の地に、反政府の拠点が出来てしまうのではないかと恐れたためである。当の一誠は、ただ故郷の萩で中央との関わりを断ち、ひっそりと暮らしたいだけだった。が、周囲が一誠を放ってはおかなかった。維新に功のあった長州の士族たちは「自分たちは充分報われる」と思っていた。しかし、実際にはほんの数人の長州士族だけが報われて、「奇兵隊」も「士族」も使い捨てにされて冷遇されたのだった。そんなとき明治政府から野に下った前原一誠が来たのだ。それは彼の周囲に自然と集まるのは道理であった。しかも信濃川の分水工事は「金がないので工事できない」などといいながら、明治政府は岩倉具視を全権大使に、木戸、大久保、伊藤らを(西郷らは留守役)副使として数百人規模での「欧米への視察(岩倉使節団)」だけはちゃっかりやる。一誠は激怒。
江藤新平が失脚させられ、「佐賀の役」をおこすとき前原一誠は長州士族たちをおさえた。「局外中立」を唱えてひとりも動かさない。それが一誠の精一杯の行動だった。
長州が佐賀の二の舞になるのを防いだのだ。前原一誠は激昴する。「かつての松下村塾同門の者たちも、ほとんどが東京に出て新政府に仕え、洋風かぶれで東洋の道徳を忘れておる!そうでなければ、ただ公職に就きたいだけの、卑怯な者どもだ!井上馨に至っては松下村塾の同窓ですらない!ただ公金をかすめ取る業に長けた男でしかないのに、高杉や久坂に取り入ってウロチョロしていただけの奴!あんな男までが松下村塾党のように思われているのは我慢がならない!松陰先生はよく「天下の天下の天下にして一人の天下なり」と仰っていた。すなわち尊皇である。天子様こそが天下な筈だ!天下一人の君主の下で万民が同じように幸福な生活が出来るというのが政治の理想の根本であり、またそのようにあらしめるのが理想だったのだ!孔孟の教えの根本は「百姓をみること子の如くにする」。これが松陰先生の考えである!松陰先生が生きていたら、今の政治を認めるはずはない!必ずや第二の維新、瓦解を志す筈だ!王政復古の大号令は何処に消えたのだ!?このままではこの国は道を誤る!」その後、「萩の乱」を起こした前原一誠は明治政府に捕縛され処刑された。


新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説2

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  さてさて物語は山本八重の籠城戦から始めようではないか。
1868年10月8日(慶応4年8月23日=籠城戦の初日)、籠城初日の会津城には老兵や予備隊のはか水戸藩の兵など約300人の兵士しか残っていなかった。
会津藩は主力部隊を国境に展開しており、帰城命令は出ていたが、主力部隊は未だに帰ってきていなかった。
会津藩は籠城戦を想定していなかったので、籠城の準備は出来ておらず、弾薬や食糧の搬入も出来ていなかった。
山本八重が若松城に入城したとき、会津兵は城内で刀を抜き、入城してきた婦女子に、
「例え女中でも、卑怯なまねは許しませんぞ」と叫んでいた。
足手まといになる乳飲み子を殺してきたのだろうか、入城してきた女性の中には服が血に染まった者も居り、城内は殺伐としていた。
会津藩は若松城三の丸に進入していた新政府軍の間者3人が捕まえ、拷問の末、首を切り、間者3人の首を廊下に吊して晒し首にしていた。
そのころ、若松城の外では、会津藩の家老・神保内蔵助と家老・田中土佐の2人が甲賀町口の守備にあたり、新政府軍を食い止めていた。
しかし、多勢に無勢で、敵に包囲されると、
「もうこれでおわりだべなあ」
「んだなあ、死んで会津の汚名が晴れだらいいげんじょなあ」
「悔やまれんのは若殿さまが京都守護職になられたどぎ、わしら家老が一斉に腹かっさばいでお止しどげば…」
「んだなあ、会津が守護職にさえならねば……いまさらながら悔やまれるべ」
「死んだあとに生まれ変わっても…会津……会津に生まれでくんべ」
長い沈黙の末、辞世の句を書くと、
 神保内蔵助や田中土佐は自害した。
町奉行の日向左衛門も出陣し、大町口郭門の守備について新政府軍を食い止めていた。
日向左衛門は、山本八重の幼なじみ日向ユキの父である。
日向左衛門は銃撃戦の末に負傷し、祖母の実家へ落ち延びて竹藪の中で自害した。(日向ユキ役は剛力彩芽でしたね(笑))
 若松城籠城戦は過酷を極めた。会津藩の必死の抵抗も空しく、新政府軍は怒濤のごとく若松城へ押し寄せた。
最初に若松城に到達したのは、甲賀町口郭門を突破してきた土佐藩であった。
雷鳴のごとく会津軍を切り裂いて侵攻した新政府軍であったが、ここで勢いが止まる。
天下の要塞・若松城の門は固く閉ざされていたのだ。
台風の影響で雨が降っていたため、城外では火縄銃や旧式の洋式銃は全く役に立たなかった。
が、若松城には狙撃用の窓があるため、火縄銃がようやく効果を発揮し、近づく新政府軍を寄せ付けなかった。
 一方、若松城へ入城した山本八重は、スペンサー銃を担いで戦闘が始まっている北出丸へ駆け付けた。
味方の兵に「女に何が出来る」と笑われたが、山本八重はスペンサー銃を構えると、次々と土佐兵を撃ち殺していく。
山本八重が持つスペンサー銃は、最新式の洋式銃で、元込め式の7連発のライフル銃だった。
元込め式なので弾の挿入も早く、バネ仕掛けになっており、7連射できる。火縄銃を2発撃つ間に、スペンサー銃は数発も撃てる。スペンサー銃は、当時「元込め7連発」と呼ばれて恐れられた銃である。
若松城へ詰め寄った新政府軍の土佐藩は、山本八重の正確な狙撃に苦しみ、後退を余儀なくされた。
「くそう、会津に軍師でもおるがか?!」新政府軍の軍事顧問は、まさか軍、しかも天子さまを掲げる官軍を後退させたのが、相撲取りのような巨漢の八重という女子とは思わない。
山本八重は見事に土佐兵を退けたのである。
「八重さん、藩校あだりでねがあ?火が」
「まさが、日新館を焼いだのがす?んだげんじょ、あそこには会津の兵隊さんたちがいるはずだべした?」
「放火?」
「んだんだ!火だあ」
1868年10月8日午前、会津藩は若松城の西隣にある藩校「日新館」が新政府軍の拠点に利用されることを恐れ、日新館に火矢を放って焼き払った(日新館の放火事件)。
さらに会津藩は新政府軍が隠れる場所を無くすため、城外の屋敷にも火矢を放って燃やした。
戸ノ口原へ援軍に向かった白虎隊(士中二番隊)のうち16人が、飯盛山へたどり着いたのは、会津藩が藩校「日新館」に火矢を放ったころだった。
1868年10月8日午前11時ごろ、戸ノ口原の戦いで敗走した白虎隊(士中二番隊)16名が飯盛山へと落ち延びた。
飯盛山から城下町を観ると、若松城は燃えており、城下町の至るところから火の手が上がっていた。
一説によると、藩校「日新館」は若松城の西に隣接しており、飯盛山から若松城を観ると、日新館が燃えると、あたかも若松城が燃えているように見えるという。
「し…城が!お城が燃えでる!!もう駄目だあ」
「んだげんじょ、お城が…もう負げだのがっす!俺だちのお城が燃えでる!…終りだあ」
少年兵士たちは愕然と地に膝をついて、泣き崩れた。
白虎隊(士中二番隊)の中には、
「敵陣に切り込んで討ち死にしよう」
という意見もあったが、「敵の手に落ちて辱めを受けては、主君の名を汚す」として、白虎隊(士中二番隊)16人は自害したのであった。その中で、トドメが浅く、生き残って「白虎隊の伝説」を後世に伝えたのは白虎隊隊士の飯沼貞吉少年であった。貞吉は老人になって後死亡、飯盛山墓入りした。実に七十数年ぶりの親友たちとの再会、となった。
 やがて、新政府軍の後続部隊が到着する。
攻めあぐねた土佐藩に変わり、若松城を攻撃するのが薩摩藩士・大山巌(おおやまいわお)である。
1868年10月8日(慶応4年8月23日)午後、大砲隊を指揮する薩摩藩士・大山巌は火縄銃の届かない安全圏に大砲を配置し、若松城をめがけて砲撃を開始した。
薩摩藩士・大山巌は火縄銃の射程外に布陣しているため、火縄銃しかない会津兵はなすすべ無く、砲撃を受けるだけだった。
しかし、山本八重はスペンサー銃を構えて1発の銃弾を放つと、薩摩兵の大砲が止んだ。山本八重が放った銃弾は薩摩藩士・大山巌の右大腿部を貫いたのだ。
「確かに薩長軍は数は多い。んだげんじょ、軍を指揮する敵を倒せばいいがら!……会津は渡さねえ。会津の地を土足で踏み荒らす薩長をわだすは許さねえ。ならぬものはならぬものです」
「よし、命中だ」
「やっだあ!薩摩の大将に当だっだ!」
「にしらもきばりんしゃい。敵にやられてはなんねえ。会津の底力みせでやるんだず!」
「はい!」
正確に言えば、山本八重が薩摩藩士・大山巌を撃ったという証拠は無いが、火縄銃の射程200メートルに対してスペンサー銃は射程800メートルあり、遠方の大山巌に弾が届く銃は山本八重のスペンサー銃だけだったため、山本八重が大山巌を狙撃したとされている。
山本八重に撃たれた薩摩藩士・大山巌は戦線を離脱し、新政府軍は攻勢を弱める。山本八重は再び新政府軍を退けた。
ちなみに大河ドラマでご覧になった方もいると思うが、薩長官軍の指揮官は歌舞伎の獅子舞のようなかつらをつけて、ものすごく目立つ。
一種の戦国時代の武将の甲冑のようなものである。
一方、国境の警備に当たっていた家老・西郷頼母や家老・原田対馬(はらだ・つしま)などの部隊が、敵の隙を尽きて若松城へ帰城した。
国境警備に当たっていた会津藩の主力部隊の一部だが、家老・西郷頼母らの帰城により、会津藩の士気があがった。
さらに、山本八重らは城壁の石垣を押し出し、穴を開けると、大砲を突っ込み、城壁に空いた穴から新政府軍を砲撃した。
「ほれ、にしらも撃ちなんしょ!よぐ狙うんだよ」
「はい!」少年兵鉄砲隊らは銃や大砲を発砲していく。だが、八重のようにはいかない。
この時に山本八重らが落とした石垣は、今も若松城のお堀に沈んでおり、お堀の水が少なくなると、石垣が出現する。
新政府軍はその後も攻撃を続けたが、日が暮れ始めたため、攻撃を終了し、一度兵を退いた。
会津藩は山本八重のおかげで、籠城戦の初日を無事に乗り切ったのである。
しかし、会津藩は籠城戦の備えをしていないうえ、多くの指揮官を失っており、首脳陣は抗戦派と降伏派に別れていた。
 1868年10月8日(籠城戦の初日)昼、土佐軍を退けた山本八重は藩主・松平容保に出陣を談判したが、藩主・松平容保は、
「女まで出陣させたとしては会津藩の恥だ」
と言い、山本八重の出陣を禁じた。
山本八重以外にも、多くの女性が薙刀を持ち、出陣の許可を求めたが、
「会津藩士が女の手を借りたとあっては、末代までの恥である」
として、誰一人として出陣は許可されなかった。
女を戦いに参加させることは、武士道を貫く会津藩士にとっては恥ずべき行為なのである。
「んだげんじょ、わだしは山本覚馬の妹だ!鉄砲の腕なら誰にもまげね!わだしを使わねのは武器もなぐ戦すんのと同じだ!戦わせでけらんしゃい。必ず会津の役にたずます。殺された弟の仇を討じでえのです!」
さらに、会津藩の家訓(御家訓・ごかきん)「会津家訓十五御家訓」の第4条には「婦人女子の言、一切聞くべからず」と記されており、女性の山本八重が出陣を懇願しても、一切、聞き入れてもらえるはずも無かった。
山本八重らがいくら談判しても女の出陣は認められない。
会津藩の教え「什の掟」にも「ならぬことは、ならぬものです」とある。
仕方なく出陣を諦めた山本八重は、負傷兵の治療にあたっていたが、会津兵が新政府軍に夜襲を行う計画があることを知る。
そこで、山本八重は夜襲なら、敵兵も女か男か判断できないと思い、髪を切り落として男装し、亡き弟・山本三郎として夜襲に加わることにした。
「今日がらわだしは八重でない。三郎…そう死んだ山本三郎だ」
「んだげんじょ、八重さあ、いいのがっし?」
幼馴染の時尾が止めるが、八重は
「会津に正義があるごどを示すのよっす。これは義の戦だんべ?!」というばかりだ。
「髪を切っでげなんじょ。髪を短ぐすれば男にみえるべ」
山本八重は髪を切り落とそうとするが、自分ではなかなか切れないため、自宅の裏側に住んでいる幼なじみの高木時尾(たかぎ・ときを)に頼んで髪を切り落としてもらった。
男装をして戦ったのは山本八重だけではなく、娘子隊(婦女隊)らも男装で新政府軍と戦った。
が、城内で断髪した女性は山本八重が初めだという。
 髪を切り落とした山本八重は腰に刀を差し、ゲベール銃を担いで、夜襲隊に加わって城外へ出ると、闇夜に紛れて敵兵に切り込んだ。
夜襲を受けた新政府軍は混乱して同士討ちを始めたが、援軍が到着すると、体制を立て直し、反撃してきた。
当初より、夜襲隊は深入りしないと決めていたため、山本八重らは適度に新政府軍の兵士に攻撃を加える。
と、裏道を通って早々と若松城へと引き上げた。
なお、山本八重はこのような活躍から、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれている。
しかし、当時、山本八重のことを「幕末のジャンヌダルク」と呼んだ事を示す文献はないため、「幕末のジャンヌダルク」は近代になってメディアが付けたキャッチフレーズだとされている。
むしろ大河ドラマのプロパガンダ(大衆操作)やPRであろう。
また、山本八重といえばスペンサー銃だが、若松城篭城戦の初日の夜襲からはゲベール銃を使用しており、以降はスペンサー銃は登場しない。
ゲベール銃は洋式銃だが、先込め式で火縄銃に毛の生えた程度の性能しかない旧式銃である。
最新式のスペンサー銃と比べれば、性能の差は雲泥である。
山本八重は最新式のスペンサー銃と銃弾100発を持って若松城へ入場していたが、初日に100発全てを撃ちつくし弾切れになったため、以降はゲベール銃を使用したとされている。
旧式銃の弾は若松城で製造できたのだが、スペンサー銃は最新式だったため、弾が製造できなかったのだ。


 話は少しさかのぼる。         
  八重の十八歳も年上の実兄・山本覚馬(やまもと・かくま)は幸運なひとである。
 学識がゆたかであり、語学に優れて生まれたため、京都守護職で幕府の援助で京都に君臨した会津藩主の松平容保の世話役や藩の砲術指南役にまでなった。しかも、無事に「会津藩の京都勢勢力」を組織し、多くの幕府や朝廷の信頼まで手にいれた。松平容保の本城は会津(福島県)藩であり、桑名藩とともに徳川幕府の守護だった。覚馬は二十七歳になっていた。面長だが、口髭を生やし、なかなかの色男である。
 覚馬は身分に似合わず、気さくで、愛想のいい男だったという。もっとも、寡黙というか無口なほうで、ほとんどいつも読書してるか、昼間採取してきた石や土の整理をしているか、さもなければぼんやりと物思いにふけっていた。鉄砲の射撃の腕や知識は豊富である。
 しかし、黙っていても、眼や口元がたえず誰かに話しかけるように表情に富んでいるので、愛想いいような印象を与えてしまう。
 寡黙な男も、酒には弱い。
 酒がはいると陽気になって、冗談をいう。自慢の口髭を軽く指で撫でながら、冗談をいったり歌を歌ったりしてひとの気をひくのに長けた人物だったようだ。
 そんな人望があったからこそ、旧会津藩士も松平容保も木戸孝允(桂小五郎・かつら・こごろう)もついていったのだろう。
 あの「鬼の土方」と恐れられた土方歳三をもひかれた覚馬とは何だったのだろう。
 あの痩身な口髭の知恵者は、幕府の要人も舌を巻くような、だが、気さくな、人に慕われる人物で、寡黙な敗者ではあるが英雄である。象山塾で近代文明から砲術などを学び、会津に新風を吹かせようという野心家である。
 英雄とは、人並み外れた頭脳と、体力と、ひらめき、霊感をもっているものである。覚馬にはそれがある。西郷隆盛(吉之助)にも、坂本龍馬にも、勝海舟(麟太郎)にも、高杉晋作にもそれがあった。大久保一蔵(利道)や桂小五郎(木戸孝允)にもそれがあったが、それは龍馬や高杉よりも大きな資質をもっていた。龍馬は若くして暗殺され、高杉晋作は若くして病死している。それにくらべて大久保利道や桂小五郎(木戸孝允)は維新を生き抜き、新政府の一翼を担った。西郷吉之助(隆盛)も新政府のメンバーに加わったが、士族(元・侍、武士、藩士)たちの御輿にのせられて、「西南戦争」などという馬鹿げた内戦をひきおこしている。西郷隆盛は英雄ではあったが、運がなかった。
 その点では、山本覚馬は敗者ながら運がよかった。大河ドラマを視聴された方なればご存じだろうが、覚馬は戦で失明し、脚も病気でよく動かず、車椅子状態になる。だが、それでも「幕末の知恵袋」とまでいわれた覚馬は、会津藩が「逆賊」の濡れ衣を着せられても必要とされ続けた。
 八重もまた幸運である。鶴ケ城に立て籠もり「会津戦争」を起こして官軍と対立したが、殺されず、戦死せず、のちに明治政府に、皇族以外で民間人女性初の勲章を授与された。その意味では、最期は、西郷はやぶれ、八重は勝った……
(大久保利道は維新後十年で暗殺され、木戸孝允も病死しているから、あながちふたりが成功者だった訳ではない。しかし、本当の成功者は最期まで生き残った大久保と木戸だ)

  慶応三(一八六四)年には容保は二十七歳になっていた。
 松平容保は江戸時代末期の大名・陸奥国会津藩九代藩主で、また最後の藩主でもある。
京都守護職。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳。弟は松平定敬などあり、高須四兄弟の一人。
 幼名は、之丞。官位は肥後守。号は祐堂、芳山。神号は忠誠霊神。正室は松平容敬の娘。子は松平容大(かたはる)長男、松平健雄(次男)、松平英夫(五男)、松平恒雄(六男)、松平保男(七男)。養子に松平喜徳。墓所は福島県会津若松市の松平家院内御廟。
 1846年(弘化三年)に八代藩主・容敬の養子となり、嘉永五年(1852年)に会津藩を継いだ………


  会津最期の日、天気は晴天で雲ひとつなかった。風もない。
 蒼い空からは太陽の陽射しがきらきらと差し込んでいた。
 従僕の助六は、見世物小屋へと向かった。
 見世物小屋では「手品」や、「落語」をやっている。粋な会津っ子たちは陽気にはしゃいで観席している。拍手とあくびが入り交じる。
「旦那さん、旦那さん」
 従僕の助六は静かに近付き、席に座っていた白髪の老人にひそひそと声をかけた。「なんだず? 助六」
 老人はひそひそと訝しがる。
「……覚馬さまが…会津についだっでことでず」
「んだが? それば本当が?」
「んだ」
「んだらば、落語などきいとるばあいじゃねぇず」
 老人は席をたった。
 この老人は山本覚馬の父、会津でも有名な砲術指南役の家系である。
 割腹のいい男で、もう老人だが、砲術指南役だけあって脳軟化はしていない。話し好きで、子供好きな陽気な男である。博識だ。
「覚馬がけえっできたなら……八重も大喜びだんべのう」
 老人は笑った。
 八重とは、老人の娘である。
「八重はおおはしゃぎじゃろうて」
 老人は笑いが止まらない。
「んだんだ。お嬢様は大変喜んでるみだいだなっし」
 助六は会津訛りでいった。助六は会津人である。
「あの娘にも困ったもんだず」
 老人は人力車に乗った。会津の町をさっそうと走る。従僕の助六は走ってついてきた。この男ほどの男ならもっとマシな従僕がいてもよさそうなものだが、要するに「こまつかい」など誰でもよいと老人は考えていたのである。
「んだげんじょ、覚馬は元気じゃろうかのう?」
 老人はひとりでにやりとなった。


「おとっつあま!」
 自宅に帰ると、さっそく噂の娘、八重が明るい声でやってきた。
 山本権八の娘・八重は美貌のひとではなかった。性格はいいが、2013年度の大河ドラマ「八重の桜」の主人公役の女優・綾瀬はるかさんのような美貌なら、「幕末のジャンヌ・ダルク」でいいかも知れない。だが、実際の山本八重は相撲取りのようにぶくぶくに太った赤い林檎ほっぺの田舎娘であった。重い米俵を2俵も楽々担ぎ上げる力持ち。徳富蘇峰によれば、八重の外見は「目尻の下がった顔が赤くてかてか光ってる巨漢な田舎女」で、「ねちねちした会津訛りで話す女性」だという。
 「八重! そんだに嬉しいが?」
 老人は歩きながら呆れ顔でいった。廊下を歩く。
「んだ! あんっつあま(お兄さん)にやっど会えるのですがら」
「ははは」老人は笑った。「あんっつあまは会津の砲術の先生だんべ?おれも鉄砲ば教えでもらいでえ」
 老人は上座に座った。「おめは駄目だ」母親はいう。
「なんでだず?おれも鉄砲ばやりでえ」
「これ、八重! おなごは薙刀をやるものだ…」母親は叱った。
 八重は頬を赤らめて、お転婆娘のようにはしゃいだ。
 八重はまだ十六歳の末通娘(処女)である。
「さすけねえ、さすけねえ(かまわない・かまわない)」父親は笑った。続けて、
「八重は鉄砲に夢中じゃのう」とほほ笑んだ。
「んだんだ。早ぐあんっつあまに鉄砲ば習いでえ」
 父は「んだげんじょ、八重はなじょして鉄砲なんだず?覚馬はいいっていってんだが?」
「……んだ」
 八重は頬を赤らめた。「京へあんっつあまがいがれでだどぎ、文通をしていたで」
「ほう。そでばいい話だのう」
 父は感心した。
 八重の母は、
「女子は結婚しで元気な赤子を産むのが仕事だ。女子に鉄砲なんで出来る訳ねえべした」
 と娘をたしなめた。
「んだげんじょ、あんっつあまは教えでくれるっで」
 父はにやりとして「さすけね、何でもやってみるがいいべ。どうせまだ三日坊主なんだがら」と笑った。
 場には、医学師の川崎尚之助もいた。
 川崎は「先生、八重さんをからかってはかわいそうです」といった。
「わしはからかってなどおらん。わしのいうごどに間違いがあるが?」
「……いやあ」
 川崎はにやりとして「かまいませんな、先生には…」
「ところで尚之助さん、覚馬は江戸で元気がね?」
「いや。覚馬さんは元気かときかれましても……まだ会津領土についてもおりませぬので…」
「なんだ。着いたんじゃなかったのか?」
「はい。これから会津領に入ると電報が届いただけなんです」
 老人は苦笑して「んだげんじょ、それだけでこの八重のお転婆娘ははしゃいどるのが」
「そのようですな」
 ふたりは笑った。
「いやですわ。おとっつあまも尚之助さんも、八重を馬鹿にして」
 八重はふくれっつらをした。
「ははは、いいではないか」
 老人は娘が可愛くてたまらない。
「ところで、覚馬さんは会津公…いや松平容保公と一緒だとか」
 川崎はいった。
「ほう、若殿さまど?」
「そうです。会津公は京都守護職になられたとか…」
「守護職? 会津公が徳川さまや天子さまや朝廷をお守りするんだが?」老人はいった。
 川崎は頷き「そうです」
「……守護職? んだげんじょいままでも天子さまや朝廷を守ってきだのは会津藩と桑名藩だべした」
「そうですね」川崎は頷き「会津さまは京を死に場所に選んだとの噂です」
「これ! めったなこというもんじゃない! 徳川幕府は守らなければならぬ。めったなことをいうと物騒なことになるぞ」
 権八は尚之助を諫めた。「まずわれらのすべきところは佐幕じゃ」
「すると先生は今の幕府に不満はないのですか?」
「これ!」
「会津公ならきっとこの国を回天(革命)させると私は思います」
 老人は「これ! 幕府を批判すれば吉田松陰らの二の舞になるぞ!」と諫めた。
 しかし、そんな大人たちの会話など八重の耳にははいらない。
 白黒の写真をみて、にやにやする。
「……あんっつあま。若殿さま」
「八重、本物の会津公はその写真よりも色男じゃぞ。だが、会津公には前に正室がおってのう。敏姫といったのじゃが十四歳で嫁にいき、十九歳で病気で御落命しておる。側室は浦乃局……じゃな」
 父はにこにこいった。娘が可愛くてたまらない。
 思えば、八重が兄と文通したのは四年前(文久二年(一八六二))のことである。
 容保は幕府の京都守護職として京に渡った。覚馬もついていった。そして、四年間勤しんだ。容保はなかなかに気骨ある者で、病弱であったが井伊大老暗殺の桜田門外の変のときには幕府の水戸征伐に反対もしている。
 若き将軍・徳川家茂が病死すると、薩摩藩や福井藩主・松平慶永(春嶽)とともに一橋慶喜の将軍就任に尽力し、文久の改革を補佐した。元来病弱で、京都守護職の官も、家臣の西郷頼団の反対で固辞していたのだが「これも幕府のため」と就任した次第である。

 話しはすこし飛ぶが、最後の将軍・徳川慶喜は会津公とともに江戸に遁走した話だ。
 容保たちは慶喜や新選組とともに開陽丸に乗り込み、一路、江戸へと向かった。
 この年「ええじゃないか」の大衆混乱がおこっていて、町では人々が仮装などして、わけもなく踊っていた。

 ♪ええじゃないか ええじゃないか
  かわらけ同志がはち合うて
  双方けがなきゃ
  ええじやないか

 ♪ええじゃないか ええじゃないか
  お前が瑣ならおれも瑣
  互いに吸いつきゃ
  ええじやないか


「なぜじゃ?! 近藤、土方! なぜじゃ?!」
 開陽丸の艦長室で、揺られながら容保は新選組局長・近藤勇や副長・土方歳三に問うていた。「この陣羽織りは前の天子さまの考明天皇さまより布を頂いてつくったものではないか?! なぜ会津藩や幕府が賊軍なのじゃ?!」
 近藤や土方たちは答えられなかった。榎本武揚は甲板で茫然と立っている。
 甲板では「富士山が見えた! 富士山が見えた!」と大騒ぎである。
「会津公!」
「ん?」
「富士山が見えました! 四年ぶりの江戸です!」
 そういって艦長室に飛び込んできたのは、家臣の太郎左衛門である。
「そうか! ついに江戸がみえたか!」
 容保ははしゃいだ。
 近藤は「江戸でもう一度官軍と一戦交えましょう」と強気だ。
「戦? 幕府は一度負けているのじゃぞ?」
 容保はがくりと膝をついた。「余は悔しい。悔しいぞ……近藤」
「だいじょうぶですか?」
「官軍には余は降伏しない。幕臣の榎本武揚も降伏しないという。余は江戸でそして駄目なら会津にもどり官軍……いや薩摩長州どもと戦う覚悟じゃ」
 グラスを差し出す。近藤は飲んだ。「……うまい!」
 容保ものんで、ふたりは「江戸への帰り祝い酒じゃ」と呑んで笑った。
「しかし、会津さま。祝ってはならないほど薩長は腐ってきてるようです」
「腐ってる?」
「はい、長州藩(山口県)と薩摩藩(鹿児島県)がふっついて幕府を倒そうと息巻いていて江戸にも迫ってくるとか…榎本さまがそう申しておりました」
「そうか」容保はいった。「そうさせないためにこうして軍艦を増やしてるのじゃ。幕府のほうが兵力は多い………負ける訳がない。三百年続いた徳川幕藩体制は不滅だ」
「しかし、この国は未曾有の国乱の中にあります。誰かが、この国をまとめなけりゃならないでしょう。残念ながら慶喜公では無理です」とは土方。
 容保は溜め息をついた。
 若き将軍・家茂亡きあとの将軍は、慶喜である。井伊直弼大老も暗殺されてしまうし………これは前途多難だと誰もが思っている。
 英雄が必要だ。この国の混乱をおさめる英雄が……
「幕府は大丈夫かねぇ? なんでも家茂公が亡くなって、後釜は慶喜公だ。お先真っ暗ってのはこのことではないかい?」と家臣が榎本武揚にいった。
「てやんでい! 幕府にこの開陽丸や回天丸などの幕府艦隊があればだいしょうぶだ」
 榎本釜次郎(武揚)は強くいった。
 幕府海軍が保有する軍艦は、開陽丸、富士山丸、朝陽丸、蟠龍丸、回天丸、千代田形、観光丸の七隻であったという。
 開陽丸は長さ七十三メートルもの軍艦である。大砲二十六門。
 富士山丸は五十五メートル。大砲十二門。
 朝陽丸は四十一メートル。大砲八門。
 蟠龍丸は四十二メートル。大砲四門。
 回天丸は六十九メートル。大砲十一門。
 千代田形は十七メートル。大砲三門。
 観光丸は五十八ルートル。


  容保は陸にあがりパーティーでシャンパンを呑みながら、勝海舟と話した。
「幕府ではだめです」
 勝海舟はいった。「幕府は腐りきっている」
「勝、幕府の要人が何をいってるのじゃ? 上様は…」
「その上様がだめだっていうのです。家茂公ならまだしらずあの慶喜公では…」
 容保はいきりたち「徳川幕府は三百年も続いた伝統があるのだぞ!」
「幕府はもう駄目です。あとは新政府にまかせて大政奉還するしかありゃあせん」
「勝! 薩長に降伏せよというのか?!」
「そうです」
「勝! お主は裏切り者か?!」容保は激昴した。「幕府のほうが兵が多い。負ける訳がない。軍艦もある。薩長なぞにまける訳ない! 一戦交えて…」
「その戦をやめさせねばならんのです! 幕府は死にかけてる。会津公、貴方様は京にいてて江戸の幕臣たちをみてこなかったからわからないんです。幕府は今や腐りきった糞以下です」
「戦わずして降伏するは末代までの恥!」
「幕府は死にかけてる。戦だけは回避せねばならねぇ。そのために俺はなんでもやります。薩長新政府への投降結構。徳川だけでは共和制は無理。まず、私の思うように幕引させてもらいます! わからりませぬか会津公?」
 容保に勝海舟(勝麟太郎)はいった。そして、場を去った。
 容保は呆気にとられ、シャンパンを喉に流しこんでから、
「あれは勝海舟じゃない。”負”海舟だ」と悪態をついた。
 ……幕府は旗本七万騎と多数の軍艦がある。薩長なぞにまける訳ない!
 急進的な「佐幕派」の松平容保の不幸はここからはじまる。


 

新島八重の桜 大河ドラマ『八重の桜』ふたたび維新回天草莽掘起篇ブログ小説3

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  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
  長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚志を任命した。
  慶応三年年(一八六四)正月……
 雪まじりの風が吹きまくるなか、大鳥圭介は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から大鳥圭介のような者がでてくるのはうれしい限りだ。幕府の様式軍隊はこうして訓練していた。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた大鳥は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
  容保は江戸藩邸に戻った。
 父はすでに亡い。母は古森氏という。正座してまっていた。
「いやあ! みなのしょうしさしぶりじゃな!」
 容保は会津訛りで笑顔をみせた。
 一同は酒を汲み交わした。容保は何かいいかけた。すると母が「田代孫兵衛の娘を側室となさられるとか?」と口をはさんだ。
「そうだったんですが……母上、佐久さんはまだ十六歳だというじゃありませんか」
 妹は「何か不満でも?」ときいてきた。
「いやあ、しかし十も年が違う」
 妹は「いいんですよ、兄上。女子は若くて子供を沢山産めるだけでいいんです」
「いやあ、これはまいったねぇ」
 容保は観念した。「わかった。年は違いすぎるが、よし! 輿入れじゃ!」
 母は喜んだ。一同からは拍手がおこった。
「輿入れじゃ! 輿入れじゃ!」
 こうして、容保は佐久を側室としてむかえた。
 容保、二十七歳……
 容保は名をかえ、松平会津守容保、松平容保となり引き続き江戸藩邸で要職についた。 維新の夜明け前夜のこと、である。                        

話を戻す。
 江戸時代末期の1845年12月1日、会津藩(福島県)の城下・米代三ノ丁にある武家屋敷で、山本権八(39歳)と山本佐久(37歳)の間に1人の女の子が生まれた。
この女の子こそ、後にTVやマスコミが「幕末のジャンヌダルク」と呼ぶようになる山本八重である。
山本八重の名前の由来は「八重桜」と言われることもあるが、八重桜は4月ごろに咲くため、「八重桜」説の可能性は低い。
その誕生の朝は会津城下は雪で真っ白で、あったという。英雄、いや、歴史的ヒロインの誕生への吉兆という歴史家もいる。
 2013年にNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まり無事放映終了したが、山本八重は晩年、新島邸の庭に咲く梅の花(寒梅)を観るのが好きだったので、強いて言えば、山本八重のイメージは、桜ではなく梅である。
2番目の夫となる新島襄も、新島八重(山本八重)のことを梅に例えて、
「めずらしと、誰かみざらん、世の中の、春にさきだつ、梅の初花」と詠んでいる。
 ちなみに山本八重は「八重子」と署名することがあるため、「山本八重子」「新島八重子」と表記されることがあるが、山本八重の本名は「山本八重」である。
 女子が名前に「子」を付けるのは明治時代の風習(流行)で、山本八重も「八重子」と署名することがあった。
が、本名は「八重」である。
 大河ドラマでは「あんっつあま(お兄さん)」こと山本覚馬の砲術に興味をもち、
「おれ、鉄砲で若殿さまのお役にたじでえ」と志を語っている。そう鉄砲は兄・覚馬が教えたのである。
「あんっつあま!あれなんてんだべ、鉄砲?」
「ああ、ゲベールだ」
「強えのがっし?!」
「ああ、強ええ!」覚馬は頷いた。山本家の夕食であった。「世間では飛び道具等と馬鹿にするやつもいるが強ええぞ」
「んら、おら鉄砲ば習いでえ!」小娘の八重は微笑んだ。
 会津での山本家の始まりは、初代会津藩主・保科正之(徳川第二代将軍・徳川秀忠の愛人の子)に招かれて、会津藩の初代・茶番頭を務めた茶道家(遠州流)の山本道珍である。
丹波亀山藩の藩主・松平家の推薦により、山本道珍は会津藩で茶番頭を務めることになったという。
山本八重の父親の山本権八は会津藩の砲術師範(高島流砲術)をしており、「上士黒紐席」という身分の上級藩士だった。
山本権八の家禄は10人扶持と家禄は低いが、会津藩の初代茶番頭・山本道珍の次男の流れをくむ分家である。
そのため、身分は上級藩士であった。
会津藩士は身分によって住む場所が決まっていたため、山本家の自宅の場所から推測して、山本家は100石から150石の家禄をもっらっていたと推測する説もある。
が、師範の給料は総じて低かったため、いずれにしても山本権八は高給取りでは無かったようだ。
会津藩には15流派の砲術があり、山本権八は西洋式の砲術を専門とする「高島流砲術」の師範であった。
山本権八が西洋式砲術の師範であったことが、山本八重に大きな影響を与えている。
ただ、会津藩では野戦を前提とした「長沼流兵法」を採用しており、上級藩士は「鉄砲は下級藩士(足軽)の武器で、上級藩士は槍や刀で戦うもの」と考えていたため、砲術は不人気科目だった。
 父親の山本権八は婿養子で、山本は母方の姓である。
山本権八は元の名を永岡繁之助と言い、山本佐久と結婚して山本家に婿養子に入った後、山本権八へと改名した。
母の山本佐久は先見の明があり、非常に聡明な女性だった。母の山本佐久は、武田信玄の軍師・山本勘助の遠縁とされているが、この説は山本家に箔を付けるための創作の可能性が大きい。
「山本家は女子が天下の家だんべなあ」権八は苦笑する訳である。
 山本八重と18歳離れた長男の山本覚馬は、4歳で唐詩選の五言絶句を暗唱したという秀才で、山本八重が生まれたときには既に会津藩校「日新館」に通い、槍・剣・弓などで頭角を現していた。
長女は山本覚馬と同じくらいの年頃で、既に窪田家に嫁いでおり、山本八重が生まれたときには、山本家には居なかった。
次男と次女の2人は生まれて直ぐに死んでいる。
そして、3女の山本八重が生まれた3年後に、3男の山本三郎が生まれる。これが山本八重の家族である。
山本八重は子供の頃から男勝りで、石投げや駆けっこでは、男の子にも負けなかった。
13歳の時には米4斗俵(60kg)を肩まで4回も上げ下げできたほどの怪力だった。
砲術師範だった山本権八は自宅で私塾を開いていた関係で、山本八重は山本権八や山本覚馬の影響を受け、幼い頃から縫い物よりも砲術に興味を示して育った。
山本八重は近所の高木家で一通り縫い物を教わったが、大人しく座って針仕事をするのは性に合わないらしく、暇を見つけては長男・山本覚馬から鉄砲の撃ち方を教わっていた。
八重は裁縫で失敗しては先生である裁縫のばあさまに、
「おめはほんどに裁縫が下手糞だなあ」と呆れられた。日向ユキは「なして、八重さん裁縫苦手なの?簡単だべした。ほれ」と裁縫を見せる。時尾には「八重さん、それで嫁いげんのが?」と冗談までいわれる。
 だが、山本八重は料理や裁縫、洗濯等「女性的な仕事(いわゆるおさんどん)」は苦手であったという。
山本八重は砲術の上達が早く、24歳の時には他人に教えるほどにまで成長しており、
父の山本権八が
「この子が男のだったら」と悔やんだ程だった。
 会津藩は非常に教育熱心な藩で、東日本一の規模を誇る藩校「日新館」を開校していた。
会津藩士の子供は10歳なると「日新館」に入学することができ、優秀な者は会津藩の代表として江戸へ遊学に出ることが出来た。
(注釈:日新館に入学するのは中級藩士以上の身分の藩士で、下級藩士は日新館に入学できない。)
このため、会津藩士の子供は競うように勉強し、優秀な子供が多かった。
兄の山本覚馬も日新館で頭角を現し、江戸遊学へ出ている。江戸にいき天下の大人物・佐久間象山の江戸の「象山塾」で学んだ。勝海舟や吉田松陰や川崎尚之助とはその塾で知り合った。
会津藩士の子供は、住んでいる地区ごとに「什(じゅう)」という10人程度のグループを形成し、階級に関係なく、年長者がリーダー「什長」を務めた。
そして、日新館に入学した10歳以上の子供は「生徒の什」を行い、日新館に入学する前の6歳から9歳の子供は「遊びの什」を行った。
什には7つの決まりから成り立っていた。
これが「ならぬことはならぬものです」で有名な「什の掟」である。
「什の掟」
1・年長者の言うことに背いてはなりませぬ
2・年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
3・虚言をいふ事はなりませぬ
4・卑怯な振舞をしてはなりませぬ
5・弱い者をいぢめてはなりませぬ
6・戸外で物を食べてはなりませぬ
7・戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
「什の掟の制裁」
「什の掟」を破った者には罰があった。「遊びの什」の場合、罪が軽ければ、「無念でありました」と謝罪する程度だが、罪が重ければ、同じ什の仲間から制裁を受ける。
「派切る」と言って一定期間、交際を絶たれる制裁もある厳しい決まりだった。
 会津藩は教育に熱心な藩だったが、当時は女子に学問を教えるという概念は無く、日新館に入学できるのは男子だけで、女子に対する教育制度はなかった。
当然、会津藩士の子供が作るグループ「什(じゅう)」に入れるのも男子のみで、女子は入れなかった。
会津藩士の女子は、家族から読み書きを習い、裁縫や機織りを習うのが一般的だった。
裕福な家庭では、女子でも習字などの家庭教師を雇うことがあった。
山本八重は女なので什に入ることは無かったが、父・山本権八や兄・山本覚馬から「什の掟」や「日新館童子訓」を学んで育った。
山本八重は7歳の時には「什の掟」や「日新館童子訓」を全て暗記しており、老齢になっても暗唱できた。
特に、日新館童子訓は山本八重に大きな影響を与えている。
「いいが、八重、鉄砲の道は甘ぐねえぞ!」
八重は鉄砲こそ道だとおもった。
が、覚馬は「鉄砲はひとを殺す武器だ」と当たり前のことをいう。
八重が、遊び半分でやっている訓練に喝を入れた訳だ。
「んだげんじょ、鉄砲で世界がかわる。これからは鉄砲と学問の時代だがらきばるんだぞ!」
「はい!」
会津藩士の女子は学問を学ぶことは無かったが、いざという時に自殺できるように切腹の作法を学んだり、戦になったと時ために武術(薙刀)を学んだりしていた。
山本八重も他の女子と同様に薙刀を学んだが、砲術師範に生まれて鉄砲についての知識を得ていたため、これからは鉄砲の時代で、薙刀では通用しなくなることを悟っていた。
 山本八重の住む山本家の裏に日向家があり、日向家の隣には高木家があった。
日向家には日向ユキ(ひなた・ゆき)という女の子が居り、高木家には高木時尾(たかぎ・ときを)という女の子が居た。この2人が山本八重の幼なじみである。
高木家では高木の婆さんが針仕事を教えており、山本八重や日向ユキも高木家で針仕事を習った。
高木の婆さんは盲人だったが、何でも出来る凄い婆さんだった。
高木家で一通りの針仕事を習った山本八重は、高木の婆さんから、
「針仕事を教えるのを手伝っで欲しい」と頼まれたのだが、
針仕事よりも鉄砲の方が好きな山本八重は、
「座っでする仕事は性に合わね」と言って断り、母親の山本佐久を大いに落胆させた。「八重は嫁にいげねがもしんねなあ」
 一方、幼なじみの日向ユキは、父親が非常に仕付けに厳しいため、平素から1人で外出することが許されず、外出するときは常に供の者を連れていた。
(注釈:当時は武家の娘が1人で外出することは許されておらず、武家の娘が外出する時は必ず女中などが付い行く。)
日向家は御山に網場を所有していたため、網場で鳥を撃ち、焼き鳥にして食べたり、東山温泉へ温泉につかりに行ったりしていた。
ある年の七夕の日の夜、日向ユキが隣の高木家の池に入って遊んでいたところ、伝次に脱いでいた着物を隠されて困ったことがあったという。
 会津では、江戸の殿様が帰ってくる年の6月に「授光祭」という祭りが開かれていた。
会津藩士の子供は授光祭が大好きだった。
会津藩士の子供は什の掟で「戸外で物を食べてはなりませぬ」と決められているため、買い食いが禁止されていた。
しかし、授光祭の時だけは買い食いが黙認されていたため、授光祭は子供達の天国だった。
山本八重も日向ユキも授光祭を楽しんだとされている。
「何でもあんっつあま(お兄さん)が教えでくれだ」
八重はいう。兄にすべてを習った。鉄砲、学問、人生哲学…
 5歳の時に唐詩選の五言絶句を暗唱できた長男・山本覚馬は、9歳で会津藩の学校「日新館」に入学すると、剣術や槍術で頭角を表し、24歳で弓・馬・槍・刀の師範を取得している。
1850年、才能が認められた山本覚馬は、22歳にして江戸へ遊学に出る。
そして、山本覚馬は江戸で勝海舟らと共に佐久間象山に学び、大きな影響を受ける。
1853年7月8日、浦賀にペリー提督が黒船で来航すると、江戸は大混乱となる。会津藩は江戸湾の警備を強化するため、江戸へ人員を送った。
江戸遊学から帰国していた山本覚馬(25歳)は、江戸勤務を命じられた大砲奉行の林権助に認められ、林権助に従って江戸へ出る。
山本覚馬にとって2度目の江戸である。
会津藩は幕府の命令により、外国人のために、港で水上訓練を披露する。
見学していた外国人は、よく訓練された会津藩の兵に驚いたという。
(注釈:会津には海が無いが、会津藩校「日新館」には水上訓練用のプールが設置されており、会津藩では水上訓練も行われてた。)
このとき、江戸で西洋の軍隊を目の当たりにした山本覚馬(25歳)は、医師・大木忠益(後の坪井為春)の元で蘭学を学んだ。
1854年、吉田松陰が密出国を企てるが、アメリカ船「ポーハタン号」に密航を拒否され、伝馬町の牢屋敷に投獄される。
吉田松陰の密航事件に連座して、山本覚馬の師にあたる佐久間象山も投獄されてしまう。
「象山先生が幕府に…」覚馬は珍しく動揺した。
勝海舟は「幕府は大馬鹿だ!これから象山先生に頑張ってもらわなければならぬときに幕府は糞だ」という。嘉永四年(1853年)にはペリー率いる黒船が来航していた。覚馬も川崎も黒船を観て「海に……城が浮かんでる!」と唖然としたという。
川崎は「これからどうなるのでしょうか?」と動揺するばかりだ。
1856年、江戸で様々なことを学んだ山本覚馬(28歳)が会津に戻り、藩校「日新館」の教授に就任。
そして、山本覚馬は日新館に蘭学所を開いた。
蘭学所の教師は、山本覚馬と南摩綱紀の2人だけだったが、後に川崎尚之助と古川春英の2人が加わり、蘭学所は充実していく。
その一方で、山本覚馬は会津藩に西洋式銃を導入した主力部隊の編成を訴える。
しかし、長沼流兵法という古い軍隊制度を採用していた会津藩では、山本覚馬の意見は受け入れられなかった。
鉄砲は下級の足軽が持つ武器であり、上級兵は刀や槍で戦う。
これが会津藩士の美徳だった。
山本覚馬は、実際に西洋銃の威力を示し、刀や槍では西洋銃に通用しないことを見せつけたうえで、
「西洋銃に勝てるという方がいらっしゃるのなら、名乗りを上げてください。どなたでもお相手いたします」と勝負を求めた。
西洋銃の威力は一目瞭然であったが、会津藩の家老は世襲制で腐敗しており、西洋銃の導入を認めなかった。
そのうえ、山本覚馬は「上司に無礼な口を利いた」との理由で、禁足(謹慎処分)となってしまう。
山本覚馬は禁足処分中も西洋式銃の導入を主張して、会津藩士を説得して廻り、禁足から1年後、大砲奉行の林権助の助力により、山本覚馬の禁足が解ける。
そして、林権助の協力により、会津藩に西洋式銃の導入も認められ、山本覚馬は軍事取調役・大砲頭取に抜擢されるのであった。
 1857年、兄の山本覚馬が「樋口うら」と結婚する。
山本八重からみれば、樋口うら(山本うら)は兄嫁となる人物である。
山本覚馬が樋口うらと結婚した経緯については何も分からない。
結婚相手の樋口うらの経歴や詳細についても分からない。何も歴史的資料が存在していないのだという。
 1857年、山本家に「樋口うら」が嫁入りしたのと同じころ、1人の青年が会津藩の藩校「日新館」を訪れた。
青年の名前は川崎正之助(かわさき・しょうのすけ)という。
この川崎正之助が、後の「川崎尚之助」であり、後に山本八重の夫となる人物である。
川崎正之助は出石藩(兵庫県)の医師の子として生まれたとされる。
父親は藩医とされていたが、町医者という説が有力となっている。
ただ、父親の詳細については分らず、医師であることすらも疑わしい。
川崎正之助については不明な点が多い。
川崎正之助は、江戸に川崎正之助は江戸に出て舎密(せいみじゅつ=理化学)や蘭学を学んでいるが、川崎正之助が江戸に出る間での経緯は不明である。
川崎正之助は江戸で蘭学者・杉田成卿(すぎたせいけい)らに学んだ後、1856年には医師・大木忠益(後の坪井為春)の塾に在席し、蘭学を学んだ。
このとき、山本覚馬も2度目の江戸遊学で大木忠益の塾に在席しており、2人は大木忠益の塾で知り合った。
川崎正之助は非常に優秀な男だったため、山本覚馬は川崎正之助の才能に惚れ込んだという。
その後、山本覚馬は2度目の江戸遊学を終えて会津に戻ると、1856年に会津藩校「日新館」で蘭学所を開いて教授に就任した。
そして、山本覚馬が「樋口うら」と結婚した1857年頃に、川崎正之助が会津へやってきた。
川崎正之助は、山本覚馬の推薦により、蘭学所の教授として会津に招かれたが、川崎正之助は「不肖人の師たるに足らず」として給料の受け取りを辞退し、山本覚馬の自宅に寄宿しながら蘭学所の教授を務めた。
こうして、川崎正之助は蘭学所で働くようになる。
だが、会津藩の改革の一環として、蘭学所の砲術科が軍部に接収されて砲術部門となる。
この改革に伴って川崎正之助も軍事奉行の指揮下に移ったとされている。
 川崎正之助は会津に入って以降、初代会津藩主・保科正之と同じ「正」の字を使用することを避けた。
代わりに「尚」の字を当て、名前を「川崎尚之助」と改めた。
以降、川崎正之助は「川崎尚之助」を名乗るようになるのだが、川崎正之助が「川崎尚之助」と名前を改めた正確な時期は分らない。
 これまでは、「川崎正之助は会津藩士ではなかったため、若松城落城野前に城を出た」とされていた。
しかし、会津藩士の名簿「御近習分限帖」に、川崎正之助(河崎尚之助)の名前が記録されており、川崎正之助は大砲方頭取13人扶持の会津藩士だったことが判明している。
川崎正之助は、若松城籠城時には会津藩士だったことになるが、川崎正之助が会津藩士登用された時期は分らない。
藩士の娘が結婚と結婚するには藩の許可必要で、「武士」の身分が必要なため、川崎正之助は山本八重と結婚するまでに「武士」の身分となっていたことになる。
そうすると、川崎正之助は山本八重と結婚と前後して正式な会津藩士となり、会津藩士となったことを機に「川崎尚之助」と名前を改めた可能性が大きい。
 1853年に黒船が来航して以降、開国か鎖国かの論議がわき起る。
 例のペリーが黒船でやってきた阿呆でも知っている「黒船来航」で、ある。
「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」の名の下に改革の嵐が吹き荒れ、京都では尊皇攘夷派による暗殺などが相次ぎ、治安が乱れていた。
そこで江戸幕府は京都に京都守護職を置くことに決め、会津藩主の松平容保(まつだいら・かたもり)に京都守護職を要請した。
本来、有事の際には彦根藩(滋賀県)の藩主・伊井家が京都守護職に就く事になっていた。
しかし、彦根藩主の井伊直弼は2年前(1860年)に起きた「桜田門外の変」で暗殺されたため、13歳の井伊直憲が家督を継いでおり、井伊直憲に京都守護職を任せるには荷が重かった。
このため、東日本一の軍事力を誇る会津藩主・松平容保に話が回ってきたのだ。
しかし、会津藩主・松平容保は体調を崩しており、京都守護職への就任を固辞した。
京都守護職への就任は藩への負担が重いため、藩の財政を圧迫することは目に見えていた。
既に会津藩は江戸湾岸警備に伴う財政負担で、財政は逼迫しており、会津藩の家老・横山主税(よこやま・ちから)を筆頭に家臣は誰一人として、京都守護職への就任に賛成する者は居なかった。
しかし、江戸幕府・政事総裁職の松平春嶽が、会津藩は代々「将軍家の守護」を家訓していることを指摘すると、会津藩主・松平容保は家訓を守り、京都守護職を引き受けたのであった。
 初代・会津藩主の保科正之は、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の実子(4男)だが、側室ではない女中の「静」が生んだ子だっため、武田信玄の次女・見性院に預けられて育った。
その後、3代将軍に就いた徳川家光が、保科正之という異母兄弟の存在を知り、保科正之を会津藩23万石の大名に引き上げた。
このため、初代・会津藩主の保科正之は、将軍家(徳川家)に恩義を感じていた。
さらに、3代将軍・徳川家光は死に際に保科正之を呼び、徳川家のことを頼んだため、初代・会津藩主の保科正之は徳川家に永遠の忠義を誓い、「会津家訓十五箇条」を制定した。
その「会津家訓十五箇条(御家訓)」の第1条に、「会津藩は将軍家を守護する存在である」と定められているのである。
そして、3代会津藩主・保科正容の代になり、保科家は松平の姓を名乗ることを許された。
こうして、保科家は名実ともに徳川家の一門と認められるようになり、会津藩の徳川家に対する忠義は絶対的なものとなった。
会津藩では毎年、会津家訓十五箇条を読み上げる行事があり、その時は会津藩主も下座で会津家訓十五箇条を拝聴する習わしとなっている。
会津藩にとって会津家訓十五箇条は絶対であり、いかなる事情があれど、破ることは出来ない家訓であった。
このことを知っていた江戸幕府・政事総裁職の松平春嶽は、会津藩の「会津家訓十五箇条」の第1条を利用して、京都守護職への就任を固辞する松平容保に京都守護職を引き受けさせたのである。
会津藩主・松平容保が家訓を守るために京都守護職を引き受けてもなお、会津藩・家老の西郷頼母(さいごう・たのも)は京都守護職への就任に反対したため、松平容保の怒りを買い、免職となってしまった。
会津藩は、松平容保が京都守護職に就いたことにより、重い財政負担を強いられ、その負担は会津藩の農民へ押しつけられた。このため、会津藩は農民から強く恨まれることになる。
会津藩が京都守護職になるのを反対する藩内勢力は多かった。
その代表格が西郷頼母、である。
「藩主さま、これだげはなりませぬ、京都守護職だげは…」
容保は怒り、
「頼母、藩祖・保科正之公の御家訓を忘れたか!」
「…んんだげんじょ」
「無礼者!下がりおろう!」容保は喝破した。
 この会津公の「京都守護職就任」を、「凶の籤をあえて引くようなものだ」といったのは徳川慶喜である。
松平春嶽は「会津藩は京を死に場所と決められたのでありましょう」と同情したとされる。だが、慶喜が朝廷の願う薩摩藩ではなく、会津藩が京都守護職となるようにしたのだ。
この会津藩の京都守護職就任で、尚之助は「大丈夫でしょうか?強い力は最初は讃えられ、次に恐れられ、最後は憎まれる」等という。
「なしてです?会津は天子さまをお守りするんだべ?なして憎ぐまれんのよっし?」八重には理解できないことばかりだ。安政七年(1863年)三月四日には江戸城桜田門外で井伊大老まで水戸脱藩浪士に暗殺されるし、わからないことばかりである。
 1862年9月24日、会津藩主の松平容保が京都守護職に就任する。
1863年1月に上洛した松平容保は、浪士組の近藤勇ら(後の新撰組)を会津藩預かりとして京都の治安に勤め、尊皇攘夷派を排除していく。
ちなみに「新撰組」という浪士隊(浪人や百姓出身者が多かった)ののちの隊名は「会津藩の歴史的な名誉ある藩の隊名」であるという。だが、新撰組が浪人や攘夷派浪人を大殺戮を繰り返したために会津藩が恨まれた、という歴史家もいる。
山本覚馬が上洛したのは、会津藩主・松平容保の上洛に遅れること1年、1864年2月のことであった。
桜田門外の起きた1860年に、山本覚馬と妻・樋口うらの間に第1子となる女児が誕生するが、生まれてまもなく死亡していた。
そして、1862年夏に第2子となる女児「みね」が誕生していた。
山本覚馬は妻「樋口うら」と乳飲み子の「山本みね」を残し、軍事奉行・林権助の補佐として会津を出て京都を目指していた。
 会津藩は教育に力を入れているため、出先でも学校を開設していた。
このため、会津藩は京都でも学校を開いた。
京都に着いた山本覚馬は、大砲隊の調練や蘭学所での指導にあたる。蘭学所は藩籍に関係なく門戸を開いたため、志ある者が多く集まってきた。
 会津藩は、会津藩士・秋月悌次郎の活躍により、薩摩藩と手を結ぶ事となり、薩摩藩と共に尊皇攘夷派の追放を画策した。
 1863年9月30日(文久3年8月18日)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を中心とする尊皇攘夷派を京都から追放する。これにより、公武合体派が勢力を強める(8月18日の政変)。覚馬もこの政変に武力隊の指揮者として参戦し、御所を守った。
 1864年7月8日、新撰組が、京都の池田屋で会合していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派を襲撃し、尊王攘夷派を排除した(池田屋事件)。
尊王攘夷派は京都守護職を勤める会津藩主・松平容保の暗殺などを計画していたとされおり、尊王攘夷派の計画を未然に防いだ新撰組の名声が高まる。
 京都で不穏な空気が流れるなか、北海道では1人の男が密航しようとしていた。
男の名は新島七五三太(にいじましめた)、後の新島襄である。
参勤交代の労役に嫌気をさした安中藩士・新島七五三太は、脱獄を計画。
函館遊学を口実に北海道・函館へ渡って協力者を見つけ、脱獄を実行へと移していた。
1864年7月17日(元治元年6月15日)の深夜、新島七五三太(新島襄)は、アレクサンダー・ポーター商館で番頭をしていた福士卯之吉の協力を得て、アメリカ船「ベルリン号」に乗り込み、函館から密出国した。
 1864年、佐久間象山は京都で、公武合体や開国論を主張していた。
山本覚馬は頻繁に恩師・佐久間象山の元を訪れて、様々なことを話し合った。
佐久間象山は、彦根へ遷都する計画を密かに進めていたが、彦根遷都の計画が漏れてしまい、1864年8月12日に京都・三条木屋町で「人切りの彦斎」と呼ばれる刺客・河上彦斎に襲われて死亡した(佐久間象山の暗殺事件)。
山本覚馬は佐久間象山の死を知り、泣き崩れた。象山は確かに天才であり、大知識人であった。
だが、歴史に詳しい人間なら知っていることだが、性格が傲慢であり、天狗人間でもあり、自分の天才を鼻に掛ける嫌味な性格で知られ、暗殺を喜ぶ浪人も少なくなかったという。
その後、勝海舟の依頼で、山本覚馬は佐久間象山の息子・佐久間恪二郎を預かった。
佐久間恪二郎が新撰組へ入隊したのは、山本覚馬の勧めだったとされている。

    

【ゲス&ベッキー引退解散】ベッキーが一方的にペナルティはおかしい!ゲス川谷健太(絵音)こそ悪!!!

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『ゲス&ベッキー』ではベッキーだけがペナルティを受けてますが


悪いのは男・川谷健太(芸名・絵音)ではありませんか?


ゲス川谷がベッキーのCM等の違約金を払うのが筋じゃありませんか?


騙したのは川谷なんだから!


サンミュージックも川谷を訴えろよ!


騙されたベッキーがかわいそうだろうが!!臥竜





緑川鷲羽そして始まりの2016年2017年へ!臥竜     緑川鷲羽2016ReBRON上杉謙信

竜馬とおりょうがゆく 樽崎龍の波乱の生涯<維新回天特別編>ブログ連載小説6

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 いま京で騒ぎをおこそうとしているのは田中河内介である。田中に操られて、薩摩藩浪人が、尊皇壤夷のために幕府要人を暗殺しようとしている。それを操っているのは出羽庄内藩浪人の清河八郎であったが、大久保一蔵(利道)にはそれは知らなかった。
 幕府要人の暗殺をしようとしている。
「もはや久光公をたよる訳にはいかもんそ!」
 かねてからの計画通り、京に潜伏していた薩摩浪人たちは、京の幕府要人を暗殺するために、伏見の宿・寺田屋へ集結した。
 総員四十名で、中には久光の行列のお供をした有馬新七の姿もあったという。
「もはやわが藩を頼れないでごわす! 京の長州藩と手をむすび、事をおこすでごわそ!」 と、有馬は叫んだ。
「なにごてそんなことを……けしからぬやつらじゃ!」
 久光はその情報を得て、激昴した。寺田屋にいる四十名のうち三十名が薩摩の志士なのである。「狼藉ものをひっとらえよ!」
 京都藩邸から奈良原喜八郎、大山格之助以下九名が寺田屋の向かった。
 のちにゆう『寺田屋事件』である。
「久光公からの命である! 御用あらためである!」
  寺田屋への斬り込みは夜だった。このとき奈良原喜八郎の鎮撫組は二隊に別れた。大山がわずか二、三人をつれて玄関に向かい、奈良原が六名をつれて裏庭にむかった。
 そんな中、玄関門の側で張り込んでいた志士が、鎮撫組たちの襲撃を発見した。又左衛門は襲撃に恐れをなして逃げようとしたところを、矢で射ぬかれて死んだ。
 ほどなく、戦闘がはじまった。
 数が少ない。「前後、裏に三人、表三人……行け!」大山は囁くように命令した。
 あとは大山と三之助、田所、藤堂の四人だけである。
 いずれもきっての剣客である。柴山は恐怖でふるえていた。襲撃が怖くて、柱にしがみついていた。
「襲撃だ!」
 有馬たちは門をしめ、中に隠れた。いきなり門が突破され、刀を抜いた。二尺三寸五分政宗である。田所、藤堂が大山に続いた。
「なにごてでごわそ?」二階にいた西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌は驚いた。悲鳴、怒号……
 大山格之助は廊下から出てきた有馬を出会いがしらに斬り殺した。
 倒れる音で、志士たちがいきり立った。
「落ち着け!」そういったのは大山であった。刀を抜き、道島の突きを払い、さらにこてをはらい、やがて道縞五郎兵衛の頭を斬りつけた。乱闘になった。
 志士たちはわずか七名となった。
「手むかうと斬る!」
 格之助は裏に逃げる敵を追って、縁側から暗い裏庭へと踊り出た。と、その拍子に死体に足をとられ、転倒した。そのとき、格之助はすぐに起き上がることができなかった。
 そのとき、格之助は血を吐いた。……死ぬ…と彼は思った。
 なおも敵が襲ってくる。そのとき、格之助は無想で刀を振り回した。格之助はおびただしく血を吐きながら敵を倒し、その場にくずれ、気を失った。
 一階ではほとんど殺され、残る七名も手傷をおっていた。
 これほどですんだのも、斬りあいで血みどろになった奈良原喜八郎が自分の刀を捨てて、もろはだとなって二階にいる志士たちに駆けより、
「ともかく帰ってくだはれ。おいどんとて久光公だて勤王の志にかわりなか! しかし謀略はいけん! 時がきたら堂々と戦おうではなかが!」といったからだ。
 その気迫におされ、田中河内介も説得されてしまった。
 京都藩邸に収容された志士二十二名はやがて鹿児島へ帰還させられた。
 その中には、田中河内介や西郷慎吾(隆盛の弟)とのちの陸軍元帥大山巌の姿もあった。  ところが薩摩藩は田中親子を船から落として溺死させてしまう。
 吉之助(西郷隆盛)はそれを知り、
「久光は鬼のようなひとじゃ」と嘆いた。
 龍馬は、京の町をあてもなく彷徨っていた。

   文久二年(一八六二)八月二十一日、『生麦事件』が勃発した。
 参勤交替で江戸にいた島津久光は得意満々で江戸を発した。五百余りの兵をともない京へむかった。この行列が神奈川宿の近くの生麦村へさしかかったところ、乗馬中のイギリス人(女性ひとりをふくむ)四名が現れ、行列を横切ろうとした。
「さがれ! 無礼ものどもが!」
 寺田屋事件で名を馳せた奈良原が外国人たちにいって、駆け寄り、リチャードソンという白人を斬りつけて殺した。他の外国人は悲鳴をあげて逃げていった。
 これが『生麦事件』である。


         4 勝海舟





  観光丸をオランダ政府が幕府に献上したのには当然ながら訳があった。
 米国のペリー艦隊が江戸湾に現れたのと間髪入れず、幕府は長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、百馬力のコルベット艦をオランダに注文した。大砲は十門から十二門整備されていて、一隻の値段が銀二千五百貫であったという。
 装備された砲台は炸裂弾砲(ボム・カノン)であった。
 一隻の納期は安政四年(一八五七)で、もう一隻は来年だった。
 日本政府と交流を深める好機として、オランダ政府は受注したが、ロシアとトルコがクリミア半島で戦争を始めた(聖地問題をめぐって)。
 ヨーロッパに戦火が拡大したので中立国であるオランダが、軍艦兵器製造を一時控えなければならなくなった。そのため幕府が注文した軍艦の納期が大幅に遅れる危機があった。 そのため長崎商館長ドンケル・クルチウスの勧めで、オランダ政府がスームビング号を幕府に献上した、という訳である。
 クルチウスは「幕府など一隻の蒸気船を献上すれば次々と注文してきて、オランダが日本海軍を牛耳れるだろう」と日本を甘くみていた。
 オランダ政府はスームビング号献上とともに艦長ペルス・ライケン大尉以下の乗組員を派遣し、軍艦を長崎に向かわせた。すぐに日本人たちに乗組員としての教育を開始した。 観光丸の乗組員は百人、別のコルベット艦隊にはそれぞれ八十五人である。
 教育過程は次のとおりであったという。
 班長担当
    綱索取扱い           週三時間
    演習              週三時間
    規程              週三時間
    地文学             週二時間
 一等尉官担当
    艦砲術             週五時間
    造船              週五時間
    艦砲練習            週六時間
    (歩兵操練監督)
 二等尉官担当
    運転術             週五時間
    数学・代数           週五時間
    帆操縦(測定器・海図・観測)  週九時間
 主計士官担当
    算術              週九時間
 軍医担当
    物理              週三時間
    代学              週三時間
    分析学             週三時間
    包帯術             週三時間
 機関士官担当
    蒸気機関理論
                    週六時間
   飽ノ浦工場建設、蒸気機関監督含む。
 軍人以外の教育担当
    オランダ語・算術教授      週十一時間
    乗馬              週十時間
 海兵隊士官担当
    歩兵操練            週十五時間
    船上操練            週四時間
    一般操練            週三時間
 鼓手担当
    軍鼓練習            週十二時間
 船大工担当
    造船所の操練
 製帆手の担当
    マストの操練
 水兵担当
    水兵の勤務実習
 看護手担当
    医官の手伝い・印刷部の手伝い
 長崎海軍伝習所の発足にあたり、日本側は諸取締役の総責任者に、海防掛目付の永井尚     
志を任命した。
 長崎にいくことになった勝麟太郎(勝海舟)も、小譜請から小十人組に出世した。当時としては破格の抜擢であったという。
 かねてから麟太郎を支援していた箱根の豪商柴田利右衛門もおおいに喜んだ。
 しかし、その柴田利右衛門は麟太郎が長崎にいる間に病死した。勝海舟は後年まで彼の早逝を惜しんだ。「惜しいひとを亡くした」勝は涙目でいった。
 幕府から派遣される伝習生のうち、矢田堀景蔵、永持や勝麟太郎が生徒監を命じられた。 永持は御目付、奉行付組頭で、伝習生の取締をする。
 海陸二班に別れて、伝習生は長崎に派遣された。
 麟太郎は矢田堀とともに海路をとったという。
 昌平丸という薩摩藩が幕府に献上した船で、一行は九月三日朝、品川沖を出帆した。   
 長さ九十フィートもある洋艦で豪華な船だったが、遠州灘で大時化に遭った。
 あやうく沈没するところだったが、マスト三本すべて切断し、かろうじて航海を続けた。 長州下関に入港したのは十月十一日、昌平丸から上陸した麟太郎たちは江戸の大地震を知った。
「江戸で地震だって? 俺の家は表裏につっかえ棒してもっていたボロ屋だ。おそらく家族も無事ではないな」麟太郎は言葉をきった。「何事もなるようにしかならねぇんだ。俺たちだって遠州灘で藻屑になるところを、あやうく助かったんだ。運を天にまかすしかねぇ」
「勝さん。お悔やみ申す」矢田堀は低い声で神妙な顔でいった。
「いやぁ、矢田堀さん。たいしたことではありませぬ」麟太郎は弱さを見せなかった。
 昌平丸は損傷が激しく、上陸した船員たちもほとんど病人のように憔悴していた。
 長崎に入港したのは十月二十日だった。麟太郎は船酔いするので、ほとんど何も食べることも出来ず、吐き続けた。そのため健康を害したが、やがて陸にあがってしばらくすると元気になった。長崎は山の緑と海の蒼が鮮やかで、まるで絵画の作品のようであった。 長崎の人口は六万人で、神社は六十を越える。
 伝習所は長崎奉行所の別邸で、教師はオランダ人である。幕府が一番やっかいだったのは蒸気機関である。それまで蒸気機械などみたこともなかったから、算術に明るい者を幕府は送り込んできた。
 教育班長のペルス・ライケンは日本語を覚えようともせず、オランダ語で講義する。日本人の通訳が訳す訳だが、いきおいわからない術語があると辞書をひくことになる。
 ペルス・ライケンは生徒達に授業内容を筆記させようとはせず、暗記させようとした。そのため困る者が続出した。
 勝麟太郎と佐賀藩士の佐野常民、中牟田倉之助の三人はオランダ語を解するので、彼等が授業後にレポートを書き、伝習生らはそれを暗唱してようやく理解したという。
 麟太郎はいう。「俺はオランダ語ができるのでだいたいのことはわかるから聞いてくれ。ただし、算術だけは苦手だからきかねぇでほしいな」
 ペルス・ライケンは専門が算術だけに、微分、積分、力学など講義は難解を極めた。
 安政三年十月から十一月まで麟太郎は江戸に一時戻り、長崎の伝習事務を取り扱っていた。幕府は、麟太郎をただの伝習生として長崎にやった訳ではなかった。
 のちの勝海舟である勝麟太郎は、以前からオランダ語をきけたが、ペルス・ライケンの講義をきくうちに話せるようにもなっていた。それで、オランダ人たちが話し合っている内容をききとり、極秘の情報を得て老中阿部伊勢守正弘に通報するなどスパイ活動をさせたのだ。
 やがて奥田という幕府の男が麟太郎を呼んだ。
「なんでござろうか?」
「今江戸でオランダ兵学にくわしいのは佐久間象山と貴公だ。幕府にも人ありというところを見せてくれ」
 奥田のこの提案により、勝麟太郎は『オランダ兵学』を伝習生たちに教えることにした。「なんとか形にはなってきたな」
 麟太郎は手応えを感じていた。海兵隊の訓練を受けていたので、麟太郎は隊長役をつとめており明るかった。
 雪まじりの風が吹きまくるなか、麟太郎は江戸なまりで号令をかける。
 見物にきた老中や若年寄たちは喜んで歓声をあげた。
 佐久間象山は信州松代藩士であるから、幕府の旗本の中から麟太郎のような者がでてくるのはうれしい限りだ。
 訓練は五ツ(午前八時)にはじまり夕暮れに終わったという。
 訓練を無事におえた麟太郎は、大番組という上級旗本に昇進し、長崎にもどった。
 研修をおえた伝習生百五人は観光丸によって江戸にもどった。その当時におこった中国と英国とのアヘン戦争は江戸の徳川幕府を震撼させていた。
 永井尚志とともに江戸に帰った者は、矢田堀や佐々倉桐太郎(運用方)、三浦新十郎、松亀五郎、小野友五郎ら、のちに幕府海軍の重鎮となる英才がそろっていたという。
 勝麟太郎も江戸に戻るはずだったが、永井に説得されて長崎に残留した。
 彼が長崎に残留したのにはもうひとつ理由があった。麟太郎には長崎に愛人がいたのである。名は梶久といい未亡人である。年はまだ十四歳であったがすでに夫が病没していて未亡人であった。
 縁は雨の日のことである。
 ある雨の日、麟太郎が坂道の途中で高下駄の鼻緒を切らして困っていたところ、そばの格子戸が開いて、美貌の女性がでてきて鼻緒をたててくれた。
「これはかたじけない。おかげで助かった」
 麟太郎は礼を述べ、金を渡した。しかし、翌日、どこで調べてきたのかお久が伝習所に訪ねてきて金をかえした。それが縁で麟太郎とお久は愛しあうようになった。当然、肉体関係もあった。お久はまだ十四歳であったが夫が前にいたため「夜」はうまかったという。 伝習所に幕府の目付役の上司がくると、麟太郎はオランダ語でその男の悪口をいう。
 通訳がどう訳せばわからず迷っていると、麟太郎は、
「俺の片言が訳せないなら言ってやろうか?」とオランダ語で脅かす。
 ある時、その上司の木村図書が麟太郎にいった。
「航海稽古の時、あまり遠方にいかないようだがもっと遠くまでいったらいいのではないか?」
 麟太郎は承知した。図書を観光丸に乗せ、遠くまでいった。すると木村図書はびびりだして「ここはどこだ?! もう帰ってもよかろう」という。
 麟太郎は、臆病者め、と心の中で思った。
 木村図書は人情に薄く、訓練者たちが夜遊びするのを禁じて、門に鍵をかけてしまう。 当然、門をよじのぼって夜の街にくりだす者が続出する。図書は厳重に御灸をすえる。あるとき麟太郎は激昴して門の鍵を打ち壊し、
「生徒たちが学問を怠けたのなら叱ってもよいが、もう大の大人じゃねぇですか。若者の夜遊びくらい大目にみてくだせぇ!」と怒鳴った。
 図書は茫然として言葉も出ない。
 麟太郎がその場を去ると、木村図書は気絶せんばかりの眩暈を覚えた。「なにをこの若造め!」図書は心の中で麟太郎を罵倒した。
 麟太郎を中心とする兵学者たちは、高等砲術や工兵科学の教示をオランダ人たちに要請した。教師たちは、日本人に高度の兵学知識を教えるのを好まず、断った。
「君達はまだそのような高度の技術を習得する基礎学力が備わってない」
 麟太郎は反発する。
「なら私たちは書物を読んで覚えて、わからないことがあったらきくから書物だけでもくれはしまいか?」
 教師は渋々受け入れた。
 研究に没頭するうちに、麟太郎は製図法を会得し、野戦砲術、砲台建造についての知識を蓄えたという。
  安政四年八月五日、長崎湾に三隻の艦船が現れた。そのうちのコルベット艦は長さ百六十三フィートもある巨大船で、船名はヤッパン(日本)号である。幕府はヤッパン号を      
受け取ると咸臨丸と船名を変えた。
 カッテンデーキがオランダから到着して新しい学期が始まる頃、麟太郎は小船で五島まで航海練習しようと決めた。麟太郎と他十名である。
 カッテンデーキは「この二、三日は天気が荒れそうだ。しばらく延期したほうがよい」 と忠告した。日本海の秋の天候は変りやすい。が、麟太郎は「私は海軍に身をおいており、海中で死ぬのは覚悟しています。海難に遭遇して危ない目にあうのも修行のうちだと思います。どうか許可してください」と頭を下げた。
 カッテンデーキは「それほどの決意であれば…」と承知した。
 案の定、麟太郎たちの船は海上で暴風にあい、遭難寸前になった。
 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。勝海舟は助かった。なんとか長崎港までもどったのである。「それこそいい経験をしたのだよ」カッテンデーキは笑った。
 カッテンデーキは何ごとも謙虚で辛抱強い麟太郎に教えられっぱなしだった。
「米国のペリー堤督は善人であったが、非常に苛立たしさを表す、無作用な男であった」 彼は、日本人を教育するためには気長に粘り強く教えなければならないと悟った。
 しかし、日本人はいつもカッテンデーキに相談するので危ういことにはならなかったのだという。この当時の日本人は謙虚な者が多かったようで、現代日本人とは大違いである。 麟太郎は、さっそく咸臨丸で練習航海に出た。なにしろ百人は乗れるという船である。ここにきて図書は「炊事場はいらない。皆ひとりづつ七輪をもっている」といいだした。 麟太郎は呆れて言葉もでなかった。
「この木村図書という男は何もわかってねぇ」言葉にしてしまえばそれまでだ。しかし、勝麟太郎は何もいわなかった。
          
 薩摩藩(鹿児島県)によると、藩主の島津斉彬が咸臨丸に乗り込んだ。
「立派な船じゃのう」そういって遠くを見る目をした。
 麟太郎は「まだまだ日本国には軍艦が足りません。西洋列強と対等にならねば植民地にされかねません。先のアヘン戦争では清国が英国の植民地とされました」
「わが国も粉骨砕身しなければのう」斉彬は頷いた。
 そんな島津斉彬も、麟太郎が長崎に戻る頃に死んだ。
「おしい人物が次々と亡くなってしまう。残念なことでぃ」
 麟太郎はあいかわらず長崎にいた。

  コレラ患者が多数長崎に出たのは安政五年(一八五八)の初夏のことである。
 短期間で命を落とす乾性コレラであった。
 カッテンデーキは日本と首都である江戸の人口は二百四十万人、第二の都市大阪は八十万人とみていた。しかし、日本人はこれまでコレラの療学がなく経験もしていなかったので、長崎では「殺人事件ではないか?」と捜査したほどであった。
 コレラ病は全国に蔓延し、江戸では三万人の病死者をだした。

  赤坂田町の留守のボロ屋敷をみてもらっていた旗本の岡田新五郎に、麟太郎はしばしば書信を送った。留守宅の家族のことが気掛かりであったためだ。
 それから幕閣の内情についても知らせてほしいと書いていた。こちらは出世の道を探していたためである。
 麟太郎は岡田に焦燥をうちあけた。
「長崎みたいなところで愚図愚図して時間を浪費するよりも、外国にいって留学したい。オランダがだめならせめてカルパ(ジャワ)にいってみたい」
 はっきりいって長崎伝習所で教えるオランダ人たちは学識がなかった。
 授業は長時間教えるが、内容は空疎である。ちゃんと航海、運用、機関のすべてに知識があるのはカッテンデーキと他五、六人くらいなものである。
「留学したい! 留学したい! 留学したい!」
 麟太郎は強く思うようになった。…外国にいって知識を得たい。
 彼にとって長崎伝習所での授業は苦痛だった。
 毎日、五つ半(午前九時)から七つ(午後四時)まで学課に専念し、船に乗り宿泊するのが週一日ある。しかも寒中でも火の気がなく手足が寒さで凍えた。
「俺は何やってんでい?」麟太郎には苦痛の連続だった。
 数学は航海術を覚えるには必要だったが、勝麟太郎は算数が苦手だった。西洋算術の割り算、掛け算が出来るまで、長い日数がかかったという。
 オランダ人たちは、授業が終わると足速に宿舎の出島に帰ろうとする。途中で呼び止めて質問すると拒絶される。原書を理解しようと借りたいというが、貸さない。
 結局彼らには学力がないのだ、と、麟太郎は知ることになる。
 麟太郎は大久保忠寛、岩瀬忠震ら自分を長崎伝習所に推してくれた人物にヨーロッパ留学を希望する書簡を送ったが、返答はなかった。
 麟太郎はいう。
「外国に留学したところで、一人前の船乗りになるには十年かかるね。俺は『三兵タクチーキ』という戦術書や『ストラテヒー』という戦略を記した原書をひと通り読んでみたさ。しかし孫子の説などとたいして変わらねぇ。オランダ教官に聞いてみたって、俺より知らねぇんだから仕様がないやね」
 コレラが長崎に蔓延していた頃、咸臨丸の姉妹艦、コルベット・エド号が入港した。幕府が注文した船だった。幕府は船名を朝陽丸として、長崎伝習所での訓練船とした。
 安政五年は、日本国幕府が米国や英国、露国、仏国などと不平等条約を次々と結んだ時代である。また幕府の井伊大老が「安政の大獄」と称して反幕府勢力壤夷派の大量殺戮を行った年でもある。その殺戮の嵐の中で、吉田松陰らも首をはねられた。
 この年十月になって、佐賀藩主鍋島直正がオランダに注文していたナガサキ号が長崎に入港した。朝陽丸と同型のコルベット艦である。
 オランダ教官は、日本人伝習生の手腕がかなり熟練してきていることを認めた。
 安政五年、幕艦観光丸が艦長矢田堀景蔵指揮のもと混みあっている長崎港に入港した。船と船のあいだを擦り抜けるような芸当だった。そんな芸当ができるとはオランダ人たちは思っていなかったから、大変驚いたという。
 翌年の二月七日、幕府から日本人海軍伝習中止の命が届いて、麟太郎は朝陽丸で江戸に戻ることになった。
 麟太郎は、松岡磐吉、伴鉄太郎、岡田弁蔵とともに朝陽丸の甲板に立ち、長崎に別れを告げた。艦長は当然、勝麟太郎(のちの勝海舟)であった。船は激しい暴風にあい、麟太郎たちは死にかけた。マストを三本とも切り倒したが、暴風で転覆しかけた。
「こうなりゃ天に祈るしかねぇぜ」麟太郎は激しく揺れる船の上で思った。日が暮れてからマストに自分の体を縛っていた綱が切れ、麟太郎は危うく海中に転落するところだった。 だが、麟太郎はどこまでも運がいい。なんとか船は伊豆下田へと辿り着いたのである。「船は俺ひとりで大丈夫だから、お前らは上陸して遊んでこい」
 麟太郎は船員たちにいった。奇抜なこともする。

 日米修交通商条約批准のため、間もなく、外国奉行新見豊前守、村垣淡路守、目付小栗上野介がアメリカに使節としていくことになった。ハリスの意向を汲んだ結果だった。 幕府の中では「米国にいくのは日本の軍艦でいくようにしよう」というのが多数意見だった。白羽の矢がたったのは咸臨丸であった。
 江戸にもどった麟太郎は赤坂元氷川下に転居した。麟太郎は軍艦操練所頭取に就任し、両御番上席などに出世した。
 米国側は、咸臨丸が航行の途中で坐礁でもされたら条約が批准されない、と心配してポーハタン号艦を横浜に差し向けた。
 万延元年(一八六〇)正月二十二日、ポータハン号は横浜を出発した。咸臨丸が品川沖を出向したのは、正月十三日だったという。麟太郎は観光丸こそ米国にいく船だと思った。 が、ハリスの勧めで咸臨丸となり、麟太郎は怒った。
 だが、「つくってから十年で老朽化している」というハリスの判断は正しかった。観光丸は長崎に戻される途中にエンジン・トラブルを起こしたのだ。
 もし、観光丸で米国へ向かっていたらサンドイッチ(ハワイ諸島)くらいで坐礁していたであろう。
 勝麟太郎(のちの勝海舟)は咸臨丸に乗り込んでいた。
 途中、何度も暴風や時化にあい、麟太郎は船酔いで吐き続けた。が、同乗員の中で福沢諭吉だけが酔いもせず平然としていたという。
「くそっ! 俺は船酔いなどして……情ない」麟太郎は悔しがった。
「船の中では喧嘩までおっぱじまりやがる。どうなってんでぃ?」

  やがて米国サンフランシスコが見えてきた。
 日本人たちは歓声を上げた。上陸すると、見物人がいっぱいいた。日本からきたチョンマゲの侍たちを見にきたのだ。「皆肌の色が牛乳のように白く、髪は金で、鼻は天狗のように高い」麟太郎は唖然とした。
 しかし、米国の生活は勝麟太郎には快適だった。まず驚かされたのはアイス、シヤンパン、ダンスだった。しかも、日本のような士農工商のような身分制度もない。女も男と同等に扱われている。街もきれいで派手な看板が目立つ。
 紳士淑女たちがダンスホールで踊っている。麟太郎は「ウッジュー・ライク・トゥ・ダンス?」と淑女に誘われたがダンスなど出来もしない。
 諭吉はあるアメリカ人に尋ねてみた。
「有名なワシントンの子孫はどうしてますか?」
 相手は首をかしげてにやりとし「ワシントンには女の子がいたはずだ。今どこにいるのか知らないがね」と答えた。
 諭吉は、アメリカは共和制で、大統領は四年交替でかわることを知った。
 ワシントンといえば日本なら信長や秀吉、家康みたいなものだ。なのに、子孫はどこにいるのかも知られていない。それを知り彼は、カルチャーショックを受けた。
 カルチャーショックを受けたのは麟太郎も同じようなもの、であった。
 のちの龍馬の師もそれだけ苦労した、ということだ。

  龍馬は藩命で長州にいって久坂玄瑞や高杉晋作とあったことがある。そこで長州藩士の久坂玄瑞や高杉晋作とあっている。三千世界の烏を殺し…高杉の歌である。            
「土佐の吉田東洋、長州の長井雅楽、薩摩の久光は奸俗ぞ!」
 高杉はいった。「斬らねばなるまい!」
 その言葉通り、武市半兵太らは岡田以蔵らをつかって吉田東洋など開国派たちを次々と斬り殺していった。
 その頃、龍馬は勝海舟の館の門で見張りをしていた。
 勝の娘・孝子が「お父様、あの門で毎晩見張りしているお侍さんは誰です?」ときく。 勝海舟は笑って「あいつは龍さんよ。俺を守っている気なんだろう」
  龍馬はいまでも勝海舟に初対面したことを忘れない。
 千葉重太郎とともに勝の屋敷を訪ねて斬り殺す気でいた。
「相手は開国派……このわしが斬る!」千葉はいった。
 しかし口開一番、勝は度肝を抜かせた。勝は地球儀をみせて「これなんだかわかるけい?」ときいた。千葉重太郎と龍馬は目が点になった。「ここが日本だ」ちっぽけな国だった。「世の中にはいろいろな国があるぜ。メリケン、プロシア、清国、インド、アフリカ、イギリス…イギリスなんざ超大国といわれてるがみろ! こんなちっぽけな島国だ。しかし世界に冠たる大英帝国を築いている……なぜだと思う?」
 龍馬は興奮して「船……船ぜよ!」
「そうだ…軍艦だ! 日本は鎖国でも壤夷でもない。…第三の道…すなわちすみやかに開国して貿易によって儲けて軍艦を備えるこった。佐幕なんざ馬鹿らしいぜ! そのための開国だぜ」
「勝先生! わしば弟子にしてくれませんきにか?!」
 千葉重太郎は呆気にとられたままだったが、龍馬は真剣だった。
「龍さんとやら……あんた面白いやさだね?」                    
         5 壌夷



  ホノルルに着いて、麟太郎たちはカメハメハ国王に謁見した。
 ハワイの国王は三十五、六に見えた。国王の王宮は壮麗で、大砲が備え付けられ、兵士が護衛のため二列に並んでいた。
 ホノルルは熱帯植物が生い茂り、情熱的だ。麟太郎は舌をまいた。
 ハワイに来航する船の大半は捕鯨船である。来島するのはアメリカ、イギリス、その他の欧州諸国、支那人(中国人)もまた多く移住している。
 咸臨丸は四月七日、ハワイを出航した。
 四月二十九日、海中に鰹の大群が見えて、それを釣ったという。そしてそれから数日後、やっと日本列島が見え、乗員たちは歓声をあげた。
「房州洲崎に違いない。進路を右へ向けよ」
 咸臨丸は追い風にのって浦賀港にはいり、やがて投錨した。
 午後十時過ぎ、役所へ到着の知らせをして、戻ると珍事がおこった。
 幕府の井伊大老が、登城途中に浪人たちに暗殺されたという。奉行所の役人が大勢やってきて船に乗り込んできた。
 麟太郎は激昴して「無礼者! 誰の許しで船に乗り込んできたんだ?!」と大声でいった。 役人はいう。
「井伊大老が桜田門外で水戸浪人に殺された。ついては水戸者が乗っておらぬか厳重に調べよとの、奉行からの指示によって参った」
 麟太郎は、何を馬鹿なこといってやがる、と腹が立ったが、
「アメリカには水戸者はひとりもいねぇから、帰って奉行殿にそういってくれ」と穏やかな口調でいった。
 幕府の重鎮である大老が浪人に殺されるようでは前途多難だ。

 麟太郎は五月七日、木村摂津守、伴鉄太郎ら士官たちと登城し、老中たちに挨拶を終     
えたのち、将軍家茂に謁した。
 麟太郎は老中より質問を受けた。
「その方は一種の眼光(観察力)をもっておるときいておる。よって、異国にいって眼をつけたものもあろう。つまびやかに申すがよい」
 麟太郎は平然といった。
「人間のなすことは古今東西同じような者で、メリケンとてとりわけ変わった事はござりませぬ」
「そのようなことはないであろう? 喉からでかかっておるものを申してみよ!」
 麟太郎は苦笑いした。そしてようやく「左様、いささか眼につきましは、政府にしても士農工商を営むについても、およそ人のうえに立つ者は、皆そのくらい相応に賢うござりまする。この事ばかりは、わが国とは反対に思いまする」
 老中は激怒して「この無礼者め! 控えおろう!」と大声をあげた。
 麟太郎は、馬鹿らしいねぇ、と思いながらも平伏し、座を去った。
「この無礼者め!」
 老中の罵声が背後からきこえた。
 麟太郎が井伊大老が桜田門外で水戸浪人に暗殺されたときいたとき、        
「これ幕府倒るるの兆しだ」と大声で叫んだという。
 それをきいて呆れた木村摂津守が、「何という暴言を申すか。気が違ったのではないか」 と諫めた。
 この一件で、幕府家臣たちから麟太郎は白い目で見られることが多くなった。
 麟太郎は幕府の内情に詳しく、それゆえ幕府の行く末を予言しただけなのだが、幕臣たちから見れば麟太郎は「裏切り者」にみえる。
 実際、後年は積極的に薩長連合の「官軍」に寝返たようなことばかりした。
 しかし、それは徳川幕府よりも日本という国を救いたいがための行動である。
 麟太郎の咸臨丸艦長としての業績は、まったく認められなかった。そのかわり軍艦操練所教授方の小野友五郎の航海中の功績が認められた。
 友五郎は勝より年上で、その測量技術には唸るものがあったという。
 彼は次々と出世をしていく。
 一方、勝麟太郎は反対に、”窓際”に追いやられていった。海軍操練所教授方頭取を免       
職となり、六月二十四日に天守番之頭過人、番書調所頭取介を命じられた。                                
 過人とは、非常勤の意味だという。麟太郎はこの後二年間、海軍と無縁で過ごした。

  左遷先には有名な学者もいたが、麟太郎にはそんな仕事は退屈きわまりない。朝に出勤すると仕事は部下にまかせ、日当たりのいいところで”ごろ寝”ばかりして過ごした。 ……幕府は腐りきっている。
 いつしか、そんな感情を、勝麟太郎(勝海舟)はもつようになっていった。
 当時は、目付役が諸役所を見回り、役人の勤怠を監視していた。そして、麟太郎の行
             
を見咎め、若年寄に報告したという。                 
「勝はいつ出向いても、肩衣もとらず寝転んで、全く仕事をいたしておりませぬ」
 若年寄は、それを老中に上進し、勝海舟は役職を失いかけない立場にたった。
 彼を支援してくれていた開明派の官僚は、井伊大老の暗殺以降みんな失脚していた。
  麟太郎は、閑職にいる間に、赤坂元氷川下の屋敷で『まがきのいばら』という論文を執筆した。つまり広言できない事情を書いた論文である。
 内容は自分が生まれた文政六年(一八二三)から万延元年(一八六〇)までの三十七年間の世情の変遷を、史料を調べてまとめたものであるという。
 アメリカを見て、肌で自由というものを感じ、体験してきた勝海舟ならではの論文である。
「歴史を振り返っても、国家多端な状況が今ほど激しい時はなかった。
 昔から栄枯盛衰はあったが、海外からの勢力が押し寄せて来るような事は、初めてである。泰平の世が二百五十年も続き、士気は弛み放題で、様々の弊害を及ぼす習わしが積み重なってたところへ、国際問題が起こった。
 文政、天保の初めから士民と友にしゃしを競い、士気は地に落ちた。国の財政が乏しいというが、賄賂が盛んに行われ上司に媚諂い、賄賂を使ってようやく役職を得ることを、世間の人は怪しみもしなかった。
 そのため、辺境の警備などを言えば、排斥され罰を受ける。
 しかし世人は将軍家治様の盛大を祝うばかりであった。
 文政年間に高橋作左衛門(景保)が西洋事情を考究し、刑せられた。天保十年(一八三九)には、渡辺華山、高野長英が、辺境警備を私議したとして捕縛された。
 海外では文政九年(一八一二)にフランス大乱が起こり、国王ナポレオンがロシアを攻め大敗し、流刑に処せられた後、西洋各国の軍備がようやく盛んになってきた。
 諸学術の進歩、その間に非常なものであった。
 ナポレオンがヘレナ島で死んだ後、大乱も治まり、東洋諸国との交易は盛んになる一方であった。
 天保二年、アメリカ合衆国に経済学校が開かれ、諸州に置かれた。この頃から蒸気機関を用い、船を動かす技術が大いに発達した。
 天保十三年には、イギリス人が蒸気船で地球を一周したが、わずか四十五日間を費やしたのみであった。
 世の中は移り変り、アジアの国々は学術に明るいが実業に疎く、インド、支那のように、ヨーロッパに侮られ、膝を屈するに至ったのは、実に嘆かわしいことである」
 世界情勢を知った勝海舟には、腐りきった幕府が嘆かわしく思えた。

 天保五年、水野忠邦が老中となり改革をおこなったが、腐りきった幕府の「抵抗勢力」に反撃をくらい、数年で失脚してしまった。麟太郎は残念に思った。
「幕府は腐りきった糞以下だ! どいつもこいつも馬鹿ばっかりでい」
 水野失脚のあと、オランダから「日本国内の政治改革をせよ」との国王親書が届いた。 しかし、幕府は何のアクションもとらなかった。
 清国がアヘン戦争で英国に敗れて植民地となった……という噂は九州、中国地方から広まったが、幕府はその事実を隠し通すばかりであった。
 ペリー提督の率いるアメリカ艦隊渡来(嘉永六年(一八五三))以降の変転を麟太郎は思った。麟太郎は、水戸斉昭が世界情勢を知りながら、内心と表に説くところが裏腹であったひとという。真意を幕府に悟られなかったため、壤夷、独立、鎖国を強く主張し、士            
気を鼓舞する一方、衆人を玩弄していたというのである。
 麟太郎は、水戸斉昭の奇矯な振る舞いが、腐りきった幕府家臣への憤怒の現れとみる。斉昭が終始幕府を代表して外国と接すれば今のようなことににはならなかっただろうと残念がる。不遇であるため、鎖国、壤夷、などと主張し、道をあやまった。
「惜しいかな、正大高明、御誠実に乏し」
 麟太郎は斉昭の欠点を見抜いた。
「井伊大老にすれば、激動する危険な中で、十四代将軍を家茂に定めたのは勇断だが、大獄の処断は残酷に過ぎた」
 麟太郎は幕臣は小人の群れだとも説く。小人物は、聞き込んだ風説の軽重を計る感覚を備えてない。斉昭にしても井伊大老にしても大人物ではあったが、周りが小人物ばかりであったため、判断を誤った。
「おしいことでい」勝麟太郎は悔しい顔で頭を振った。
 赤坂の麟太郎の屋敷には本妻のたみと十歳の長女夢と八歳の孝、六歳長男の小鹿がいる。益田糸という女中がいて、麟太郎の傍らにつきっきりで世話をやく。麟太郎は当然手をつける。そして当然、糸は身籠もり、万延元年八月三日、女児を産んだ。三女逸である。 他にも麟太郎には妾がいた。麟太郎は絶倫である。
 当時、武士の外泊は許されてなかったので、妻妾が一緒に住むハメになった。

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